量子ビットの寿命が1,000倍改善されたと発表された翌日、物理学者たちは「それが量子ビットかどうかさえ証明されていない」と断言した。Microsoftが2026年6月3日のMicrosoft Build 2026で公開したMajorana 2チップの発表資料は、パリティ寿命を前世代の最大12ミリ秒から平均22秒へと劇的に延ばした数値を示している。しかしHenry Legg氏(セント・アンドリュース大学)はプレプリント公開直後に「提示されたデータのどこにも、トポロジカル量子ビットやMajoranaが実在することの証明はない」と述べた。問題の核心は数値そのものではなく、測定の種類にある。Majorana 2が示した改善はZ測定(単一ワイヤ内の電子パリティ)の延伸であり、MZM(Majorana零モード)の非局所性を直接確認するX測定のデータはプレプリントに含まれていない。
2021年の論文撤回から始まる経緯
MicrosoftのトポロジカルQC(量子コンピューティング)研究は、2021年に大きな傷を負った。Nature誌に掲載されていたMajorana関連論文が撤回されたのだ。撤回の原因は材料欠陥に由来する誤信号で、MZMが形成されているように見えたシグナルが、実際には超伝導体とナノワイヤの界面の不均一性が作り出した偽陽性だった。この撤回を主導したVincent Mourik氏(フォルシュングスツェントルム・ユーリッヒ)は今も「材料の無秩序が、Majoranaから期待されるのと同じシグナルを作り出せる」と主張しており、材料制御の改善があっても独立した検証なしには誤信号の否定ができないという立場を変えていない。
Majorana 2はその反省を受けた材料からの作り直しだ。前世代の超伝導体アルミニウムを鉛(Pb)に換装し、半導体側もインジウムヒ素(InAs)とインジウムヒ素アンチモン(InAsSb)の積層をGaSb基板上に組み上げる構成に刷新した。数値的な前進は明らかで、Ivar Martin氏(アルゴンヌ国立研究所)は「材料科学の観点から見て、このデバイスは顕著な成果だ」と評価する。しかし2021年の教訓は「数値が改善されても、証明の方法が変わらなければ同じ議論が繰り返される」ことを示していた。Legg氏が「このプレプリントには根本的な問題を解決するものは何もない」と断言したのは、まさにこの文脈においてだ。
Majorana 2とは何か:1,000倍改善の中身
Majorana 2の材料換装が生んだ最大の数値変化はパリティ寿命の延伸だ。前世代Majorana 1のパリティ寿命は1〜12ミリ秒だったが、Majorana 2では平均22秒、最長で1分を超える値が報告されている。7桁以上の改善という表現はこの比較から来ており、動作時間(マイクロ秒オーダー)との比でいえば、量子ビットがその期間中に誤りを起こす確率を桁違いに下げられる計算になる。トポロジカルギャップも旧比2倍以上に拡大したとMicrosoftは報告しており、この拡大は量子ビット状態がノイズに崩されにくくなることを意味する。現時点のチップ規模は12量子ビットとされ、発表はプレプリント段階でありピアレビューは経ていない。
トポロジカル量子ビットの原理:なぜ誤りに強いのか
通常の超伝導量子ビットの情報は1点に局在している。超伝導ジョセフソン接合内の特定の電子状態が0と1の重ね合わせを担い、その点を乱すノイズが即座に誤りにつながる。誤り率は現時点で10⁻³程度であり、論理量子ビット1個を実装するために数百〜数千の物理量子ビットを誤り訂正に充てる必要がある。
トポロジカル量子ビットが目指す設計は、この局在した脆弱性を分散によって回避することだ。量子情報の分散を可能にするのはMZM(Majorana零モード)と呼ばれる準粒子で、「自分自身が反粒子」という特異な性質を持つトポロジカル超伝導体の境界上の励起だ。特定の超伝導体とナノワイヤの組み合わせによって生成できると理論的に予測されており、ナノワイヤの両端に1対のMZMが現れると、2つが合わさって1つのフェルミオンモードを形成する。
量子情報は電子パリティとして、空間的に離れた両端のMZMに非局所的に分散して保存される。局所的なノイズが一端を乱しても情報全体は壊れず、情報を変えるには両端のMZMを同時に操作しなければならない。これが誤り耐性の物理的根拠であり、理論的な誤り率は10⁻⁶程度と、現行方式の1,000倍の精度が期待されている。
Microsoftの実装は「テトロン」と呼ばれる構造を採る。2本のナノワイヤをH字形に接続し、4つのMZMを持たせる設計だ。量子ゲート操作はMZMを物理的に動かす「ブレイディング」ではなく、パリティ測定の組み合わせで実行する測定ベースアーキテクチャを採用しており、物理的な操作精度への依存を減らしてスケーリングをしやすくする設計選択だ。
鉛への材料換装が生んだ技術的飛躍
超伝導体をアルミニウムから鉛に変えた理由は、トポロジカルギャップの拡大に直結している。アルミニウムの超伝導転移温度(Tc)は約1.2Kと低く、ギャップの絶対値が小さくなりやすかった。鉛のTcはアルミニウムの6倍にあたる約7.2Kで、使用できるエネルギーギャップの窓が広がり、温度ゆらぎや熱励起に対して量子状態が崩れにくくなる直接的な効果がある。
鉛は材料として扱いが難しい。融点が低く、ナノワイヤとの界面を原子レベルで制御することは容易ではない。2021年のNature論文撤回の根本原因がこの界面の品質不足に起因する誤信号だったことを踏まえれば、Microsoftが数年をかけてこの界面制御の精度を磨いてきたことは単なる改良ではなく歴史的な失敗への応答だ。
今回の改善を支える新たなツールが、Microsoft Discoveryと呼ばれるAIシステムだ。材料実験の自動化と候補材料のスクリーニングを担い、従来の試行錯誤から脱却する仕組みが整えられた。半導体側のInAs・InAsSb積層構造にGaSb基板を組み合わせる設計は、スピン軌道相互作用と超伝導の近接効果を最適化してMZMが形成されやすい条件を整えており、材料全体を「MZMが出現するための環境」として設計し直した成果だ。
科学コミュニティの批判:何が証明されていないのか
Z測定は単一ナノワイヤ内の電子パリティを測定する操作で、ワイヤ1本の中にある電子の個数が偶数か奇数かを調べる。Majorana 2が示したパリティ寿命22秒の改善はこのZ測定における劣化時間の延伸であり、エラーはクエーシ粒子(準粒子)による「ポイゾニング」として現れる。
X測定は2本のナノワイヤをまたぐMZM間のパリティを測定する操作で、トポロジカル量子ビットの「非局所性」を直接確認する唯一の手段だ。Z測定だけなら単一ワイヤ上の通常の超伝導パリティ測定でも同様の信号を出せるため、X測定なしには空間的に離れた2点にMZMが非局所的に形成されていることを証明できない。Legg氏はMajorana 2のプレプリントがX測定データを含まないと批判しており、複数のメディアがこの主張を報告している。
Sergey Frolov氏(ピッツバーグ大学)はさらに踏み込んで「これは実質的に詐欺的なプロジェクトだ」「Microsoftの量子プロジェクトは信頼性のない主張のパターンを繰り返している」と述べた。Frolov氏はMajorana 1のプレプリントが昨夏以来、主要ジャーナルに受理されていない可能性も示唆している。ピアレビューの不在という事実は複数のソースが確認している。
Winfried Hensinger氏(サセックス大学)の「20〜30年遅れ」という評価は、トポロジカル方式と競合プラットフォームを比較した際の発言だ。Legg氏は「信仰の領域に移行した」という表現を使い、科学的議論の前提が崩れているという見方を示す。Microsoftの技術フェローChetan Nayakは「Legg氏の多くの主張は単純に誤っている」と反論しているが、この応酬の決着はプレプリントのピアレビュー通過とX測定データの公開によってしか訪れない。
競合スケール競争と2029年目標の難路

現在のMajorana 2は12量子ビット規模に留まっており、GoogleのWillow(105量子ビット)やIBMのHeron(156量子ビット)に大きく劣後している。GoogleはWillowを用いて特定の量子計算で実証成果を示しており、IBMは2033年に100万量子ビットを目標として掲げている。Googleも百万量子ビット達成を2030年代とするロードマップを持ち、いずれも動作が実証された量子ビットを積み上げてスケールアップを進める段階にある。
Microsoftが2029年に掲げる「スケーラブルな量子コンピュータ」という目標はこの競争の中で際立っている。Googleの2030年代・IBMの2033年目標より前倒しで、かつ動作証明がいまだ達成されていない段階から出発する点で、量子産業でも最も野心的なロードマップだ。12量子ビットから百万個への道は足し算ではなく、誤り訂正を前提とした指数関数的スケーリングであり、通常の超伝導量子ビットとは異なる経路を想定している。トポロジカル量子ビットが理論値(誤り率10⁻⁶)を実現すれば、論理量子ビット1個あたりの物理量子ビット数が劇的に少なく済み、スケーリングコストを圧縮できる計算になる。
DARPAのUS2QCプログラム最終フェーズへの選出は、ロードマップの実現可能性と工学的進捗に対する外部機関の評価を示す。軍事・政府系プログラムで最終候補の2社に入ったことは、技術的実現可能性の審査を通過したことを意味する。Kartiek Agarwal氏(アルゴンヌ国立研究所)はMajorana 2について「fantastic progress」と評し、「非局所測定手法がMajoranaの実在を支持する」と述べた一方で、Majorana 1については「量子ビットと呼ぶには少し早いかもしれないが、多くのポジティブな兆候がある」という慎重な姿勢を保っている。
Microsoftが並行してAtom Computing(中性原子方式)とのパートナーシップを持っていることも見落とせない。トポロジカル方式1本に賭けていないリスクヘッジは、2029年目標の達成確率をどう読んでいるかの間接的な示唆でもある。Scott Aaronson氏(テキサス大学オースティン)は「トポロジカル量子ビットができない深い理由は知らない。すべて工学的な問題だ」と述べつつ、ピアレビュー後の評価を待つ立場を取っており、X測定データとピアレビュー通過が揃った時点で初めてロードマップの信頼性評価が始まる、というのが現在の量子研究コミュニティのコンセンサスに近い。



