量子コンピュータという言葉に、未来の響きと同時に、どこか掴みどころのない遠い夢を感じる人は少なくないだろう。しかし、その夢を一気に現実へと引き寄せる可能性を秘めた革命的な一歩が日本の研究チームによって踏み出された。
大阪大学大学院基礎工学研究科および量子情報・量子生命研究センターの研究チームが開発した新技術「ゼロレベル魔法状態蒸留法」。この一見難解な名前の裏には、量子コンピュータが抱える最大の壁の一つを打ち破る、驚くべき発想の転換が隠されているのだ。
なぜ「魔法」が必要なのか?量子コンピュータ最大の壁
量子コンピュータの驚異的な計算能力は、量子の世界の奇妙な性質、特に「重ね合わせ」と「量子もつれ」に由来する。しかし、この力は諸刃の剣でもある。量子ビットはあまりにも繊細で、外部からのわずかなノイズ、例えば温度の揺らぎや迷い込んだ光子一つで、その貴重な量子状態が崩壊(デコヒーレンス)してしまう。ノイズは、量子コンピュータにとって最大の敵なのだ。
この脆弱性を克服するために不可欠なのが、「量子誤り訂正」という技術であり、それを実装したものが「誤り耐性量子コンピュータ(FTQC)」だ。多数の不完全な物理量子ビットを束ねて、エラーを自動で検出し訂正できる一つの頑健な「論理量子ビット」を作り出す。いわば、脆いガラス玉をたくさん集めて、衝撃に強い鉄球を組み上げるようなものだ。
しかし、この論理量子ビットだけでは、現代のコンピュータが行うようなあらゆる計算(万能量子計算)は実現できない。計算の「語彙」を増やすために、「クリフォード演算」と呼ばれる基本的な操作群に加え、「非クリフォード演算(代表例:T演算)」という特殊な操作が必要となる。そして、このT演算を誤り耐性を保ったまま実行するために、「魔法状態」と呼ばれる特殊な補助量子状態が不可欠なのだ。
この「魔法状態」は、文字通り魔法のように、誤り訂正の枠組みの中で困難な計算を可能にする鍵であり、その品質が量子計算全体の精度を左右する。
従来の「魔法状態蒸留」が抱えていた巨大なコストの壁
問題は、高品質な魔法状態を準備するプロセス「魔法状態蒸留」が、とてつもない計算資源(オーバーヘッド)を要求することだった。
従来の手法は「論理レベル魔法状態蒸留」と呼ばれる。これは、まず物理量子ビットで論理量子ビットを構成し、その上でさらに蒸留操作を行うという、二重の鎧をまとうようなアプローチだ。安全ではあるが、コストは膨大になる。
例えば、有名なショアのアルゴリズムを用いて2048ビットの素因数分解を行うには、実に2000万個もの物理量子ビットが必要になると試算されていた。その大部分が、魔法状態を生成・供給するための専用区画、いわば「魔法状態工場」に割り当てられる。この巨大なオーバーヘッドこそが、実用的な誤り耐性量子コンピュータの実現を、はるか未来へと追いやっていた元凶だった。
阪大が発見したゲームチェンジャー「ゼロレベル蒸留」の核心
大阪大学の研究チームは、この巨大な壁を打ち破るために、根本的なパラダイムシフトを提案した。それが「ゼロレベル魔法状態蒸留」だ。
発想の転換:物理レベルでの直接蒸留

「論理の鎧を着る前に、素の物理量子ビットのレベル(ゼロレベル)で直接、魔法状態を蒸留してしまえばいいのではないか?」
これが新手法の核心的なアイデアだ。研究チームは、超伝導量子ビットを用いた量子コンピュータで主流の「表面符号」と親和性の高い回路設計を考案。具体的には、まず「スティーイン符号(Steane code)」という別の誤り訂正符号に適した回路で魔法状態を蒸留し、その後、得られた高品質な状態をターゲットである「表面符号」へと転送する。

この転送には、異なる符号間を繋ぐ「格子手術(Lattice Surgery)」と呼ばれる量子テレポーテーション技術や、より直接的な符号変換手法が用いられる。これは、異なる言語を話す二つのシステム間を、極めて優秀な通訳を介して繋ぐような、巧妙な操作だ。重要なのは、この一連のプロセスが、物理量子ビットを正方格子状に配置し、隣り合う量子ビット間だけで操作を行うという、現在の量子ハードウェアの制約に完全に準拠している点である。
驚異的なコスト削減効果を数値で見る
この発想の転換がもたらす効果は劇的だ。
大阪大学のプレスリリースによれば、従来手法に比べ、必要となる量子ビット数は約10分の1に、計算ステップ数は2分の1に削減される。これまで体育館ほどの広さが必要だった計算が、一つの教室で済むようになるほどのインパクトだ。
論文に記された数値シミュレーションの結果は、さらにその威力を物語る。物理的なエラー発生率(p)が0.1% (p=10^-3
) という、現在の量子デバイスが目指すべき現実的な目標値において、ゼロレベル蒸留は論理エラー率(pL)を0.01% (pL=10^-4
) まで抑え込んだ魔法状態を生成できる。これはエラーを10分の1に減衰させる効果だ。さらに、物理エラー率が0.01% (p=10^-4
) まで改善すれば、論理エラー率は実に0.0001% (pL=10^-6
) にまで達し、エラーを100分の1にまで抑え込む。
論文では、この関係が pL ≈ 100 × p^2
というスケーリング則に従うことが示されている。これは、物理エラー率p
が改善すればするほど、論理エラー率pL
が二次関数的に急激に改善することを意味し、技術の将来性を示す極めて重要な結果である。
しかも、この蒸留プロセスの成功確率は、物理エラー率0.1%の時点でも70%以上、0.01%なら95%以上と非常に高い。まさに「魔法」のような効率性と言えるだろう。
世界に広がるインパクト:Googleも追随、「栽培」へと進化
この研究の価値は、学術的な発見に留まらない。大阪大学の研究チームが学会で初期の成果を発表すると、即座に世界のトップランナーが反応した。
特に、量子コンピュータ開発を牽引するGoogleの研究チームは、この「ゼロレベル蒸留」のアイデアに触発され、さらにそれを発展させた「魔法状態栽培(Magic State Cultivation)」という手法を開発・発表したのだ。これは、ゼロレベルで蒸留した魔法状態を「種」として、さらにエラー耐性の高い状態へと「栽培」していくアプローチである。
この一連の技術革新の結果、前述した2048ビットの素因数分解に必要な物理量子ビット数は、当初の2000万から、100万量子ビット規模まで削減できる可能性が示された。これは、誤り耐性量子コンピュータの実現が、SFの世界から具体的な技術ロードマップの上に乗ったことを意味する。
量子コンピュータの未来はどう変わるか
では、この「ゼロレベル蒸留」は私たちの未来をどう変えるのだろうか。
量子コンピュータ研究の権威であるJohn Preskill博士は、現在のノイズの多い中規模量子コンピュータ(NISQ)の次の段階として、100万回(Mega)の量子演算(quantum operations)を信頼性高く実行できる「Megaquop」マシンの実現を提唱している。今回の大阪大学の成果は、このMegaquopマシンに必要な品質の魔法状態を、現実的なリソースで供給する道筋をつけたものであり、マイルストーン達成を大きく加速させることは間違いない。
これまで10年以上先と見られていた実用的な誤り耐性量子コンピュータの登場が、今後5〜7年程度に短縮される可能性も現実味を帯びてきた。そうなれば、新素材の開発、画期的な新薬の創薬、複雑な金融モデルの最適化など、古典コンピュータでは手も足も出なかった問題の解決が視野に入ってくる。
研究の裏側:学部生の卒業研究から世界を変える発見へ
この歴史的な成果が、当時学部4年生だった糸川氏の卒業研究から始まったという事実は、我々に基礎研究の重要性と、若き才能の持つ無限の可能性を教えてくれる。
論文の責任著者である藤井啓祐教授は、プレスリリースで次のようにコメントしている。
本研究は、当時学部4年生だった糸川さんの卒論研究のテーマとして研究を始めました。文字通りゼロから研究を始め、当初このような誤り耐性量子コンピュータのボトルネックを解決するに至る成果につながるとは思っていませんでしたが、先輩である高田さんのサポートや、先入観のない自由な発想と創意工夫によって大きな成果へとつながりました。
この言葉は、一つのアイデアが粘り強い探求とチームワークによっていかに大きな飛躍を遂げるか、その感動的な過程を物語っている。
大阪大学の研究チームが示した「ゼロレベル蒸留」という新たな道筋は、量子コンピュータ開発の地図を塗り替えるゲームチェンジャーだ。それは、単なる技術的なブレークスルーではなく、人類が未踏の計算領域へと足を踏み入れるための、確かな道標なのである。
論文
- Physical Review X Quantum: Efficient Magic State Distillation by Zero-Level Distillation
参考文献
- 大阪大学 量子情報・量子生命研究センター:誤り耐性量子コンピュータに必要な量子ビット数を大幅に削減! “ゼロレベル魔法状態蒸留法”を構築