シリコンバレーの巨大な資本が、また一つ、人類の未来を根底から揺るがしかねない禁断の領域へと流れ込んでいる。OpenAIのCEOであるSam Altman氏、そしてCoinbaseのCEO、Brian Armstrong氏といったテクノロジー業界の巨人が、人間の受精卵の遺伝子を編集し、遺伝性疾患の根絶を目指すという野心的なスタートアップ「Preventive」に資金を提供していることが明らかになった。サンフランシスコを拠点とするこの秘密主義の企業は、米国で固く禁じられている「生殖を目的とした受精卵の遺伝子編集」に関する研究を推進。規制の壁を乗り越えるため、アラブ首長国連邦(UAE)など海外での研究実施も視野に入れていると報じられており、科学界、倫理学者、そして社会全体に大きな波紋を広げている。
この動きは、2018年に中国の科学者、賀建奎氏が世界で初めて遺伝子編集ベビーを誕生させ、世界的な非難を浴びた事件を彷彿とさせる。しかし、今回は国家主導のプロジェクトではなく、テクノロジーとイノベーションを信奉するシリコンバレーの強力な民間資本が背後にある点で、その意味合いは大きく異なる。果たしてPreventiveの試みは、人類を遺伝病の苦しみから解放する福音となるのか、それとも富裕層だけが恩恵を受ける「デザイナーベビー」の誕生を促し、新たな格差と倫理的悪夢を生み出すパンドラの箱なのだろうか。
シリコンバレーの新たな野望:「Preventive」とは何者か
サンフランシスコのWeWorkオフィスの一角で、ひっそりと始まったとされるこのプロジェクトは、今や世界中の注目を集める存在となった。スタートアップの名は「Preventive」。その名の通り、病気の「治療」ではなく「予防」、それも生命の設計図であるゲノムレベルでの介入を目指している。
テック界の巨人が資金を投じる理由
Preventiveがこれほどの注目を集める最大の理由は、その支援者の顔ぶれにある。生成AIブームを牽引するOpenAIのCEO、Sam Altman氏と、暗号資産取引所の最大手Coinbaseの共同創業者兼CEO、Brian Armstrong氏だ。
The Wall Street Journalの報道によれば、Preventiveは約3000万ドルの資金調達に成功している。Altman氏の投資は、彼の夫であるOliver Mulherin氏が主導したとされ、Mulherin氏は「人々が病気を避けるのに役立つ研究に関心がある」と投資理由を説明している。
一方、Armstrong氏はこの技術の熱心な支持者として知られている。彼は自身のX(旧Twitter)アカウントでPreventiveへの投資を公言し、「世界では3億人以上が遺伝性疾患と共に生きている。これらの病気を生まれながらにして治すことができる、安全で効果的な治療法を開発するための基礎研究が行われるべきだ」と主張。「病気が進行した後よりも、受精卵のような少数の細胞の段階で修正する方がはるかに簡単だ」と、その合理性を強調した。
彼らの思想の根底には、テクノロジーによって人類が直面する根源的な問題を解決できるという、シリコンバレー特有の強力なテクノ・オプティミズム(技術楽観主義)が存在する。遺伝病という抗いがたい運命を、エンジニアリングの発想で克服しようという野心的な試みは、彼らにとって魅力的な投資対象に映っているのだろう。
創業者Lucas Harrington氏の経歴と理念
このプロジェクトを率いるのは、遺伝子編集科学者のLucas Harrington氏だ。彼は、遺伝子編集技術「CRISPR-Cas9」の開発でノーベル化学賞を受賞したJennifer Doudna氏の指導を受けた経歴を持つ、この分野の専門家である。また、成人向けの遺伝子編集治療薬を開発するMammoth Biosciencesの共同創業者でもある。
Harrington氏は、自身のブログでPreventiveの設立を公表し、その使命を「次世代の遺伝子編集技術が、未来の子供たちのために壊滅的な遺伝的状況を修正するために、安全かつ責任ある形で使用できるかどうかを判断すること」であると定義した。彼は、決して性急に臨床応用を目指すのではなく、「遺伝性ゲノム編集が安全かつ責任を持って行えるかどうかを厳密に研究する」ことに専念すると強調している。
しかし、The Wall Street Journalは、関係者の話として、Preventiveがすでに遺伝性疾患を持つ匿名のカップルを特定し、サービスの提供に関心を持っていると報じた。Harrington氏はこの報道を「完全に虚偽である」と強く否定しているが、秘密裏にプロジェクトが進められてきた経緯もあり、その真意を巡って憶測が飛び交っている。
「デザイナーベビー」へ至る道程:技術と規制の狭間で
Preventiveの試みが物議を醸す核心は、その技術が「生殖細胞系列編集(germline gene editing)」と呼ばれる点にある。これは、受精卵や精子、卵子といった生殖細胞のゲノムを編集する技術で、その変更は子孫へと永続的に受け継がれていく。個人の病気を治療する「体細胞編集」とは異なり、人類全体の遺伝子プールに影響を与えうるため、極めて慎重な議論が求められる。
米国では何が「禁止」されているのか?
現在、米国では連邦法により、食品医薬品局(FDA)が遺伝子編集された受精卵を用いた妊娠を目的とする臨床試験の申請を受理することを禁止している。これは、事実上の臨床応用への道を閉ざす強力な規制だ。多くの国々も同様の法規制を敷いている。
しかし、ここには重要な注意点がある。この規制は「連邦政府の資金」を用いる研究に適用されるものであり、Preventiveのような「民間資金」による基礎研究そのものを直接禁止するものではないのだ。この法的なグレーゾーンが、シリコンバレーの民間資本がこの領域に参入する余地を生み出している。Harrington氏は、この規制が研究を国外へと追いやっている側面があると指摘する。
UAE、ホンジュラス…規制の抜け穴を探す動き
米国内での臨床応用が不可能な中、Preventiveが活路を見出そうとしているのが海外だ。The Wall Street Journalが閲覧したとされる書簡によれば、同社は受精卵編集が許可されている可能性のある国として、アラブ首長国連邦(UAE)などを調査していたという。
Harrington氏側は、こうした動きは規制を意図的に回避するためではなく、研究を進める上での法的な制約によるものだと主張している。しかし、規制が緩やかな国で研究を進め、既成事実を作ろうとしているとの批判は免れない。同様の動きは他のスタートアップにも見られ、Thiel Fellow(Peter Thiel 氏の財団によるフェローシップ)のCathy Tie氏が共同設立したManhattan Genomicsや、ホンジュラスでの試験を計画しているとされるBootstrap Bioといった企業も、米国外での臨床試験の可能性を議論している。
科学界と倫理学者からの厳しい視線
Preventiveとその支援者たちが描く未来像に対し、多くの科学者や生命倫理の専門家は極めて懐疑的、あるいは痛烈に批判的な視線を向けている。
賀建奎事件の再来か? 拭えない懸念
この分野の議論において、2018年に中国の科学者、賀建奎氏が引き起こした事件は避けて通れない。彼は、HIVへの耐性を持たせる目的で、双子の女児の受精卵をCRISPRで編集し、世界初の遺伝子編集ベビーを誕生させたと発表した。
この実験は、技術的な未熟さ、倫理的プロセスの欠如、そして被験者への不十分な説明など、あらゆる面で科学界の規範を逸脱しており、世界中から猛烈な非難を浴びた。賀氏は中国で違法医療行為の罪で懲役3年の実刑判決を受けた。現在も、編集された遺伝子が子供たちの健康にどのような影響を与えているかは不明のままである。
Preventiveは「安全性と透明性」を掲げ、賀氏の過ちを繰り返さないと主張しているが、生殖目的で受精卵を編集するという行為そのものが、この悪名高い事件を想起させ、強いアレルギー反応を引き起こしているのが現状だ。
「嘘か、妄想か、あるいはその両方だ」― 専門家たちの批判
Preventiveの創業者Harrington氏が学んだカリフォルニア大学バークレー校の遺伝子編集の専門家、Fyodor Urnov氏は、The Wall Street Journalの取材に対し、こうしたベンチャー企業を「嘘つきか、妄想家か、あるいはその両方だ」と一刀両断にした。彼は、これらの企業が掲げる「病気の予防」という表向きの目的の裏には、「資金力にものを言わせた『赤ちゃんの改良(baby improvement)』という真の狙いがある」と厳しく批判している。
スタンフォード大学の生命倫理学者Hank Greely氏もまた、「現時点では、この技術のリスクとベネフィットの比率は最悪だ」と述べ、その実用化に強く反対している。CRISPRの共同開発者であるJennifer Doudna氏でさえ、この分野が「責任ある形で前進できることを証明しなければならない」と、極めて慎重な姿勢を崩していない。
現在の遺伝子編集技術は、標的以外の遺伝子を誤って変更してしまう「オフターゲット効果」のリスクが完全には払拭されておらず、予期せぬ健康問題を引き起こす可能性がある。一度加えられた変更が世代を超えて受け継がれることを考えれば、そのリスクは計り知れない。これが、専門家たちが臨床応用に強く警鐘を鳴らす最大の理由である。
技術的野心と商業的野心の交差点
Preventiveは、その初期のターゲットとして、嚢胞性線維症や鎌状赤血球症といった、単一の遺伝子変異によって引き起こされる深刻な遺伝性疾患(単一遺伝子疾患)を挙げている。両親が共に同じ変異遺伝子を持つ場合、健康な子供を授かることが極めて困難なカップルにとって、この技術は唯一の希望となる可能性がある、というのが彼らの主張だ。
予防医療から「能力強化(エンハンスメント)」へ
しかし、一度「病気の予防」という扉が開かれれば、その先には「能力の強化(エンハンスメント)」という、さらに滑りやすい坂が待ち構えている。病気と、望ましくないとされる形質との境界線は、極めて曖昧だ。
実際に、シリコンバレーではすでにこの領域に踏み込むスタートアップが登場している。Herasight社は、体外受精(IVF)で得られた受精卵の遺伝子を検査し、将来のIQなどを予測するサービスを提供。Bootstrap Bio社は知能の強化に関心を示していると報じられている。これらの技術は、「病気の治療」という枠を明らかに超え、特定の形質を持つ子供を「デザイン」する領域へと踏み込んでいる。
Preventiveが成功すれば、それは遺伝子編集技術の商業化への道を切り開くことになる。そうなれば、市場原理に基づき、より「望ましい」とされる形質(知能、身長、外見など)を付与するサービスへと発展していくことは想像に難くない。
「優生学」という亡霊
この技術がもたらす最大のリスクの一つが、「優生学(eugenics)」の再来である。遺伝子編集技術、特にエンハンスメントは、極めて高額なサービスとなることが予想される。それは、経済的に恵まれた富裕層だけがアクセスできる特権となり、生まれながらにして遺伝的なアドバンテージを持つ「遺伝的富裕層」と、そうでない人々との間に、決して越えられない壁を生み出す可能性がある。
これは、かつてナチス・ドイツなどが掲げた人種差別的な優生思想とは形を変え、市場原理に基づいた新たな形の優生学、いわば「消費者優生学」とも呼べる状況を生み出しかねない。社会の分断を決定的にし、人間の価値そのものを遺伝子で測るような未来は、果たして私たちが望むべき社会の姿だろうか。
技術の進歩は、それ自体が善でも悪でもない。しかし、その技術が社会に実装されるとき、私たちはその光と影の両面に目を向け、それがもたらす影響について深く思考し、社会的なコンセンサスを形成していく責任がある。Preventiveを巡る一連の動きは、人類が今、極めて重大な岐路に立たされていることを示している。この技術のハンドルを、一部のテクノロジーエリートと投資家の手に委ねてしまってよいのか。今、社会全体での真剣な議論が求められている。
Sources
- The Wall Street Journal: Genetically Engineered Babies Are Banned. Tech Titans Are Trying to Make One Anyway.