量子技術の発展は、精密な原子操作に大きく依存する。しかし、その道を阻む長年の課題があった。それは、原子が持つ自然な「揺らぎ」、つまり熱運動である。この厄介なノイズは、量子情報の制御を著しく困難にしてきた。しかし、この度、カリフォルニア工科大学(Caltech)の研究チームが、この問題を逆転させ、原子の運動そのものを量子情報のエンコードに利用する画期的な手法を開発した。彼らの研究は、量子コンピューティングやその他の量子技術に新たな地平を切り拓く可能性を秘めている。
従来の量子システムが抱える課題と光ピンセットの進化
Caltechの物理学教授であるManuel Endres氏の研究室は、レーザー光で構成される「光ピンセット」を用いて個々の原子を繊細に制御し、量子システムの基本的な特性を探求している。これまでの研究で、彼らは量子コンピューターのエラー訂正技術や、世界で最も精密な原子時計につながる新デバイスの開発、さらには6,000個以上の原子を制御する記録的な量子システムの構築といった目覚ましい進歩を遂げてきた。
そうした中で、研究者たちを悩ませてきたのが、原子が常に持つわずかな「揺らぎ」、すなわち熱運動であった。この動きは、システム全体の制御を難しくし、量子情報処理におけるノイズ源となっていたのだ。従来の量子システムでは、原子の運動は基本的に排除すべき「不要なノイズ」として扱われてきた。しかし、今回の研究で、Endres氏のチームは、このパラダイムを根本から覆した。研究の共同筆頭著者であるAdam Shaw氏(スタンフォード大学ポスドク)、Pascal Scholl氏(Pasqal)、Ran Finkelstein氏(テルアビブ大学)は、この原子の運動を量子情報エンコードの「強み」に変えることに成功したと語っている。
「量子運動の制御」:画期的な冷却技術「消去冷却」
このブレークスルーの鍵となったのは、原子の運動をほぼ完全に停止させる新しい冷却手法、「消去冷却(Erasure Correction Cooling; ECC)」である。Endres氏は、この手法をJames Clerk Maxwellが1867年に提唱した「マクスウェルの悪魔」の思考実験になぞらえている。 マクスウェルの悪魔が箱の中の粒子を測定し選別するように、この冷却法では、個々の原子の運動を測定し、その結果に応じて原子ごとに特定の操作を適用することで、熱運動を排除する。
従来のレーザー冷却技術、特にサイドバンド冷却では、原子の運動を抑えることには限界があった。しかし、消去冷却は、従来の理想的なサイドバンド冷却を体系的に凌駕することが実験で示されている。 この新しい冷却メカニズムは、原子の運動励起を、位置が既知の「消去エラー」に変換し、それを能動的に補正する点にその本質がある。 これにより、原子をほぼ完全に静止状態にすることが可能となり、基底状態の占有率は98.4%という驚異的な数値に達した(ポストセレクションを用いれば99.5%に向上)。 特に、低トラップ深度の領域において、この新手法は従来のサイドバンド冷却を上回る性能を発揮し、より大規模な量子アレイの構築への道を開くと考えられる。
原子をほとんど完全に静止させた後、研究者たちは原子に制御された振動を与えた。これは、まるで振り子のように振動する原子に、同時に異なる方向から二人の親が押す子供のような状態を作り出すもので、原子が同時に二つの異なる振動モードで揺れる「重ね合わせ」の状態を実現した。 この振動の振幅は約100ナノメートルと、人間の髪の毛の幅よりもはるかに小さい微細なものである。
ハイパーエンタングルメントの実現とその意義
この研究のもう一つの画期的な成果は、原子の運動と電子状態(内部エネルギーレベル)の両方が相関する「ハイパーエンタングルメント」の状態を生成したことである。通常の量子もつれ(エンタングルメント)では、二つの粒子が例えばスピンなどの単一の特性で相関する。しかし、ハイパーエンタングルメントでは、二つ以上の特性が同時に相関するという、より複雑な量子状態が実現する。 これは、「生まれた時に離れ離れになった双子が、同じ名前と同じ種類の車を所有している」という単純なアナロジーで説明できる。
特筆すべきは、このハイパーエンタングルメントが、これまで光子(質量を持たない粒子)でのみ実証されてきたものを、中性原子やイオンといった「質量を持つ粒子」で初めて実現した点である。 Endres氏は「これにより、1つの原子あたりにより多くの量子情報を符号化できます。より少ないリソースでより多くのエンタングルメントを得られるのです」と説明しており、これは量子情報処理における効率と能力を大幅に向上させる可能性を秘めている。
研究チームはまず、個々に振動する原子をパートナー原子とエンタングルさせ、数マイクロメートルの距離にわたる相関する運動状態を作り出した。その後に、原子の運動と電子状態の両方が相関するハイパーエンタングルメント状態を達成したのだ。
広がる応用分野と量子技術の未来
この研究成果は、量子コンピューティング、量子シミュレーション、そして精密測定といった幅広い量子技術の分野に計り知れない影響を与えるだろう。原子の電子状態を制御する技術はこれまでも進んでいたが、今回の研究で「原子全体の外部運動」を制御する「ツールボックス」が完成したとEndres氏は語っている。
運動状態は、量子エラー訂正や、量子もつれを活用した精密測定、さらにはハイパーパラレル量子計算など、多岐にわたる量子テクノロジーの強力なリソースとなる可能性を秘めている。 特に、原子の運動状態は比較的長いコヒーレンス時間(約100ミリ秒)を持つことが示されており、これは高速な検出時間(24マイクロ秒)と比較しても非常に長く、量子情報の保持において極めて有利である。 これは、量子コンピュータの性能を向上させるだけでなく、量子シミュレーションを通じて物理学の根本的な問いを探求する新たな道も開くものだ。
今回の成果は、光ピンセットを利用した量子情報処理の可能性を大きく広げるものであり、今後、アルカリ金属原子や分子、さらにはイオントラップや光格子に閉じ込められた中性原子といった他のプラットフォームへの消去冷却技術の適用も期待される。 研究チームは、原子の運動という「ノイズ源」を「強力な量子資源」へと転換することで、量子情報科学における新たな章を切り開いた。この「原子の玩具を完全にマスターする」と表現された制御能力が、次世代の量子技術にどのような革新をもたらすのか、科学界の期待は高まるばかりである。
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