世界唯一の最先端EUV(極端紫外線)露光装置メーカーとして、現代のデジタル社会を根底から支えるオランダの巨人、ASML。同社が本拠地アイントホーフェン近郊に計画する、サッカー場約50個分にも相当する壮大な新拠点の建設計画が、ここにきて加速の様相を呈している。当初2030年以降とされていた稼働開始が、早ければ2028年にも前倒しされる可能性が浮上した。約2万人の新規雇用という地域経済への多大な貢献も期待されるこの「オペレーション・ベートーヴェン」とも称される国家プロジェクト。しかしその輝かしい未来図の裏には、電力不足や環境規制、土地収用といった、乗り越えるべき複数の壁が存在することも明らかになっている。
「オランダらしくない巨大さ」 – 新キャンパスの全貌が明らかに
ASMLがその未来を託す新拠点の建設予定地は、アイントホーフェン空港とA2高速道路に挟まれた一帯、Brainport Industries Campus(BIC)の北側地区である。その敷地面積は約35万7000平方メートル。これは日本の一般的なサッカー競技場のフィールド面積(約7140平方メートル)で換算すると、実に約50個分に相当する広大なものだ。さらに、総床面積は約42万8000平方メートルに達すると報じられており、その規模の大きさがうかがえる。

この広大な敷地には、ASMLの心臓部ともいえるEUV露光装置などを製造するためのクリーンルーム群と、それを支えるオフィス群が建設される計画だ。そして、この新キャンパスから生まれるであろう雇用は約2万人。これはASMLのオランダ国内における従業員数を倍増させるほどのインパクトであり、地域経済への貢献は計り知れないものとなるだろう。

計画では、この巨大キャンパスを分断するようにエッカースライト川が流れる景観も取り入れられ、自然との調和も意識されているようだ。まさに、従来のオランダの工業地帯のイメージを覆すような、未来志向の巨大プロジェクトと言えるだろう。

計画加速の背景と「オペレーション・ベートーヴェン」の強力な後押し
当初、この新キャンパスの本格稼働は「2030年頃またはそれ以降」と見込まれていた。しかし、今回ASMLとアイントホーフェン市が共同で発表した都市開発計画の予備設計(VOSP)では、最初の従業員が2028年にも新キャンパスで業務を開始する可能性が示唆されたのである。これは、2年以上の大幅な前倒しを意味する。
この計画加速の背景には、言うまでもなく、世界的な半導体需要の急増、特にASMLが市場を独占する最先端EUV露光装置への渇望がある。TSMC、Intel、Samsungといった世界の半導体メジャーが、次世代半導体の生産ライン構築を急ぐ中、ASMLの装置供給能力の増強は喫緊の課題となっているのだ。
この国家的プロジェクトを後押しするのが、オランダ政府による「オペレーション・ベートーヴェン」と呼ばれる支援策である。昨年、政府はこの計画のために17億ユーロ(約2800億円規模)もの巨額な資金を拠出することを決定した。ASMLという一企業への投資というだけでなく、オランダ、ひいては欧州全体の経済安全保障と技術的優位性を確保するための戦略的な一手と位置づけられている。アイントホーフェン市のStijn Steenbakkers助役は、「我々の未来、繁栄、そして幸福は自明のものではない。現在の世界の経済動向を考えれば、戦略的自律性に投資すべきかどうかを問うまでもない。これは極めて重要なのである!」と、その意義を強調している。
未来都市を支えるインフラ計画:交通アクセスと環境配慮
2万人が新たに行き交うことになる巨大キャンパス。そのアクセスをどう確保するのかは、計画の成否を左右する重要な要素である。計画では、A2高速道路とN2国道の一部再設計が予定されているが、キャンパス専用の新たな高速道路出口は設けられない方針である。その代わり、将来的な交通量増加を見越して、アイントホーフェン西側に専用バスレーン「ブレインポートライン」を新設する構想も浮上している。
また、環境負荷低減への意識も見て取れる。キャンパス内には2棟の駐車場に加え、実に4200台分もの駐輪場が整備される予定だ。これは、オランダならではの自転車文化を尊重し、従業員の自転車通勤を積極的に奨励する姿勢の表れと言えるだろう。とはいえ、これだけの規模の施設が稼働すれば、周辺道路への影響は避けられない。地域住民や既存企業への丁寧な説明と、実効性のある交通渋滞対策が求められることになりそうだ。
立ちはだかる複数の壁 – 電力、環境、そして土地という現実的課題
輝かしい未来図が描かれる一方で、この巨大プロジェクトの実現には、乗り越えなければならない複数の現実的な課題が存在する。
第一の壁は、電力供給である。オランダ国内の電力網は既に逼迫しており、新たな大規模工場の建設には大きな制約となっている。Stijn Steenbakkers助役は「有望な解決策が見えている」と語るものの、具体的な内容はまだ明らかにされていない。ASMLのような最先端技術を扱う施設は、安定した大量の電力を必要とするため、この問題の解決はプロジェクト推進の絶対条件と言えるだろう。
第二の壁は、窒素排出問題である。オランダでは厳しい環境規制が敷かれており、特に窒素化合物の排出量削減は大きな社会問題となっている。新工場の建設に伴う窒素排出量をいかに抑制し、規制をクリアするのか。これもまた、詳細な計画が待たれるところである。
そして第三の壁が、土地収用である。幸いなことに、建設予定地の約80%は、同じくアイントホーフェンに本拠を置くPhilips社との取引によって既に確保されている。しかし、残りの20%については、現在も地権者との交渉が続けられている。Stijn Steenbakkers助役は、最終的な選択肢として土地収用の可能性も否定していない。交渉の行方次第では、プロジェクトのスケジュールに影響が出る可能性も否定できない。
関係者の声と今後のプロセス – 実現への長い道のり
アイントホーフェン市のStijn Steenbakkers助役は、今回の計画発表を「帰還不能点ではない」としつつも、「大きな前進」であると評価している。そして、「持続可能で、ハイテクとイノベーションに焦点を当て、地球規模の大きな社会課題に対する解決策を提供する新しい経済を、我々はあえて選択するのである」と、その決意を語っている。
一方、ASMLのRoger Dassen CFO(最高財務責任者)も、「関係者全員との緊密かつ良好な協力関係により、これを共に完成させることができると確信している」と、プロジェクト成功への自信を表明している。
この予備設計案は、今後、地域住民や環境団体、企業、そして近隣のオイルスコート市やベスト市といった自治体など、幅広い関係者からの意見公募にかけられる。9月にはアイントホーフェン市議会に計画が提案され、12月までに環境計画の承認を目指すと報じられている。多くのハードルを乗り越え、この壮大な計画が実際に動き出すまでには、まだいくつかの重要なステップが残されているのである。
なぜASMLはこれほどの投資を急ぐのか? – 世界半導体競争の鍵を握る巨人の戦略
年間数兆円規模の売上を誇る巨大企業ASMLが、なぜこれほどの巨額投資と大規模拡張を急ぐのか。その答えは、同社が半導体製造プロセスにおいて握る、圧倒的な技術的優位性と、それを巡る世界的な競争環境にある。
ASMLが独占的に供給するEUV露光装置は、7ナノメートル以下の最先端半導体を製造するためには不可欠な技術である。スマートフォン、AI、データセンター、自動運転など、現代社会を支えるあらゆるデジタル技術の進化は、このEUV技術なくしてはあり得ない。そして、この最重要装置を供給できるのは、世界で唯一ASMLだけなのである。
近年、米中技術覇権争いや地政学的リスクの高まりを受け、各国は半導体サプライチェーンの国内回帰や強靭化を急いでいる。その中で、サプライチェーンのボトルネックとも言えるEUV露光装置の安定供給は、国家戦略レベルの重要課題となっている。ASMLの今回の投資は、こうした世界的な需要の高まりに迅速に対応し、その技術的リーダーシップをさらに盤石なものにするための、必然的な一手と言えるだろう。
この巨大プロジェクトは、単にASMLという一企業の成長戦略に留まらず、オランダ経済の活性化、さらには欧州全体の「戦略的自律性」の確保にも繋がる、極めて重要な意味を持っている。まさに、21世紀の石油とも称される半導体。その最も重要な製造装置を手掛けるASMLの動向からは今後も目が離せないだろう。
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