この記事は2023年10月14日に前サイトに掲載した物を再編集し、転載した物になります。

「3日後に届くプレゼントを、今日送らなければならない。しかし、相手が本当に欲しいもののリストが届くのは、明日だとしたら?」この日常的なジレンマは、従来の物理法則の下では解決不可能だ。しかし、ケンブリッジ大学の研究者たちが、量子力学の奇妙な性質を利用してこのパラドックスに挑み、驚くべき結論に達した。彼らは、量子もつれを操作することで仮想的な「後向きの時間旅行」をシミュレーションし、「未来」の情報を「過去」の行動に反映させることで、不可能と思われた問題を解決できる可能性を理論的に示したのだ。この研究は、単なるSF的な思考実験に留まらず、量子計測の限界を打ち破る新たな扉を開くかもしれない。

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後から届いたウィッシュリスト:科学が挑む「時間差」問題

研究の核心を理解するために、冒頭のプレゼントの例えをもう一度考えてみよう。この問題の本質は、「最適な行動をとるために必要な情報が、行動を起こした後でしか手に入らない」という点にある。これは、投資家が市場の変動後に最良の投資先を知ったり、科学者が実験の後に最適な初期設定に気づいたりする状況と全く同じだ。

ケンブリッジ大学日立研究所のDavid Arvidsson-Shukur氏が主導し、米国国立標準技術研究所(NIST)のNicole Yunger Halpern氏らが参加した研究チームは、この普遍的な課題に量子力学の観点からアプローチした。彼らが発表した論文は、物理学の権威ある学術誌 『Physical Review Letters』に掲載され、世界中の研究者に衝撃を与えている。

彼らの提案はこうだ。「もし、2日目に受け取ったウィッシュリストの情報を使って、1日目に送ったプレゼントの中身を後から書き換えることができたらどうだろうか?」直感的には不可能に思えるこの操作を、彼らは量子シミュレーションの世界で実現してみせたのだ。

鍵は「量子もつれ」と仮想のタイムループ

この「過去の書き換え」を可能にする魔法の杖こそが、「量子もつれ(エンタングルメント)」である。量子もつれとは、2つ以上の量子粒子が、どれだけ遠く離れていても互いに密接に結びついている状態を指す。一方の粒子の状態を測定すると、その瞬間に、もう一方の粒子の状態が確定する。この奇妙な相関関係は、アインシュタインに「不気味な遠隔作用」と言わしめたほどだ。

研究チームが利用したのは、この量子もつれの性質と、「事後選択された閉時曲線(Postselected Closed Timelike Curves, PCTC)」と呼ばれる理論モデルだ。閉時曲線(CTC)とは、時空のある地点から出発して未来へ向かい、やがて過去の同じ地点に戻ってくるという、一般相対性理論が許容する仮説上のタイムループを指す。

もちろん、彼らは本物のタイムマシンを作ったわけではない。彼らが行ったのは、量子テレポーテーションの回路と「事後選択」という確率的なフィルターを用いることで、PCTCを極めて巧妙に「シミュレート」することだった。

このシミュレーションの概略はこうだ。

  1. まず、2つの粒子(AとC)を量子もつれ状態にする。
  2. 粒子Aを、未知の現象を測定するための「プローブ(探査機)」として実験系に送り込む。
  3. 実験が終わった後、どのようにすれば最適な測定ができたかという「未来の情報」が手に入る。
  4. この新情報に基づき、手元に残しておいたもう一方の粒子Cの「相方」となる新しい粒子Dを準備する。
  5. そして、粒子CとDに対して特殊な測定(ベル測定)を行う。この測定が、量子テレポーテーションの鍵となる。

このプロセスを経ることで、粒子Dに込めた「未来の情報」が、時間を遡って、すでに実験系に送り込まれたはずの粒子Aの状態に実効的に影響を与える。これが、仮想的な「後向き時間旅行」の正体なのである。

「実験者は2つの粒子をもつれさせます。最初の粒子は実験に使われるために送られます。そして新しい情報を得ると、実験者は2番目の粒子を操作して、最初の粒子の過去の状態を効果的に変更し、実験の結果を変えるのです」と、共著者であるYunger Halpern氏は説明する。

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4回に1度の奇跡:シミュレーションの巧妙な仕組みと「失敗」の意味

ただし、この驚くべきシミュレーションは常に成功するわけではない。研究によれば、その成功確率は25%、つまり4回に1度だ。

「このシミュレーションには75%の失敗確率があります」とArvidsson-Shukur氏は語る。「プレゼントの例えで言えば、4回に1回は希望通りのプレゼント(例えばズボン)が届きますが、他の3回は、サイズや色が違うズボンだったり、あるいはジャケットだったりするのです」

なぜ成功率が25%なのか。これは、量子テレポーテーションに用いられるベル測定が4つの異なる結果(基底)を持ち、そのうちの1つだけが「時間を遡る」という望んだ効果を引き起こすからだ。

しかし、この手法の真に巧妙な点は、失敗した場合でも「失敗したこと」を明確に検知できることにある。つまり、どの結果が正しく、どれが間違いなのかを後から判別できるのだ。

この性質を利用すれば、実用的な応用への道が開ける。研究に参加したAidan McConnell氏は、次のような解決策を提示する。
「プレゼントを送るコストが安いとしましょう。私たちは1日目にたくさんの小包を送ることができます。2日目には、どのプレゼントを送るべきだったかがわかります。3日目に小包が到着する頃には、4つのうち1つのプレゼントが正しいものになっているので、私たちは受取人に『どの配達物を捨てればよいか』を伝えることで、正しいものだけを選んでもらうのです」

これは、大量のもつれた光子を送り込み、後から「未来の情報」を反映した成功例の光子だけを特殊なフィルターで選び出す、という量子計測の実験モデルに直接つながる。失敗は多いが、最終的に望んだ結果だけを抽出できるのであれば、問題はないというわけだ。

Arvidsson-Shukur氏は、この「不完全さ」こそが重要だと指摘する。「私たちの時間旅行シミュレーションが毎回機能するなら、世界は非常に奇妙なものになるでしょう。相対性理論をはじめ、私たちが宇宙を理解するために築き上げてきた全ての理論が窓から投げ捨てられてしまいます。この失敗確率があることは、むしろ安心材料なのです」

「タイムマシン」ではない。しかし、その意義は計り知れない

研究チームは一貫して、これがタイムマシン開発ではないことを強調する。過去に戻って歴史を変えることはできない。では、この研究の真の意義はどこにあるのだろうか。

第一に、量子計測の限界を突破する可能性だ。この手法は「弱値増幅」という現象を利用しており、非常に弱い相互作用からでも、従来の手法では考えられないほど大量の情報を引き出すことができる。これにより、重力波の検出や生体分子の観察など、極めて高感度な測定が求められる分野で革新をもたらす可能性がある。

第二に、量子力学の根源的な性質への深い洞察だ。このシミュレーションは、「実効的な因果の逆転」という、私たちの直感に反する現象が量子もつれによってどのようにして可能になるのかを浮き彫りにした。これは、時間、因果律、そして現実そのものについての私たちの理解を根本から揺さぶる、基礎物理学における重要な一歩と言えるだろう。

最終的に、この研究が示すのは、量子力学という奇妙で美しい理論が持つ、問題解決のための新たな視点だ。

「私たちはタイムマシンを提案しているのではありません。むしろ、量子力学の基礎への深い探求です」とArvidsson-Shukur氏は締めくくる。「これらのシミュレーションは、あなたが過去に戻って自分の行いを改めることを許しはしません。しかし、昨日の問題を今日解決することによって、より良い明日を創造することを可能にするのです」

科学者たちの手によってシミュレートされた仮想の時間旅行は、私たちに過去への扉ではなく、これまで不可能だと考えられていた未来への扉を開いて見せたのかもしれない。


論文

参考文献