2003年、ロシアの理論物理学者Yu. Kaganらは、ボース・アインシュタイン凝縮体(BEC)の中を伝わる音波がポテンシャル障壁にぶつかったとき、エネルギーが低いほど透過しやすくなり、ゼロに近づくと100%通り抜けるという予測を発表した。通常の量子トンネル効果では、粒子のエネルギーが低いほど壁をすり抜ける確率は指数関数的に小さくなる。BECの音波はこれと正反対にふるまう。この現象は「異常トンネル効果」と名付けられた。

理論的には美しい。だが、20年以上にわたり、誰も実験でその影響を捉えられなかった。2026年7月31日、『Communications Physics』に掲載された論文が、この空白を埋めた。近畿大学の段下一平教授と中央大学の鏡原大地助教の研究グループは、米国Infleqtion社が提供するクラウド実験プラットフォーム「Oqtant」を用いて、BECの集団励起モードの周波数を精密に測定し、異常トンネル効果が残す間接的な痕跡を初めて観測した。

この成果には二つの層がある。一つは物理学的な発見そのもの。もう一つは、理論研究者がクラウド経由で最先端実験装置を動かし、自らの予言を実証したという研究手法の提示だ。後者は、理論と実験の分業が固定化してきた物理学の構造に、小さな亀裂を入れる可能性がある。

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理論と実験の分業が生んだ「検証されない予言」の山

現代の物理学では、理論研究者と実験研究者の分業が深く根付いている。最先端の超低温実験装置を立ち上げるには、レーザー光学系、真空系、制御電子回路の構築に数年単位の期間と数億円規模の投資が必要になる。理論研究者が自分の予言を検証したいと思っても、実験グループの関心を引き、共同研究の優先順位に入れてもらわなければ、検証の機会は得られない。

段下教授は学生時代から異常トンネル効果を理論的に研究してきた。2005年には、二重井戸型ポテンシャルに閉じ込められたBECの集団励起エネルギーが異常トンネル効果と密接に関係することを示した論文を発表している。しかし、実験による検証には至らなかった。段下教授はプレスリリースの中で次のように述べている。「自分ではとても面白いと思う理論研究からの予言であっても、実験研究者に興味を持ってもらえずに実験検証できていないものがたくさんあります」。

この状況が変わり始めたのは2020年前後だ。IBMやGoogleが量子コンピュータのクラウドアクセスを提供したように、物理実験装置そのものをクラウドサービスとして提供する動きが現れた。Infleqtion社が2020年に公開したOqtantは、ルビジウム87原子のBECを生成・操作できる実機を、PythonのAPI経由で遠隔操作できるプラットフォームである。ユーザーはポテンシャルの形状を設計し、時間変化をプログラムし、原子雲の密度分布の時間発展を観測できる。実験室に足を運ぶ必要はない。

異常トンネル効果とは何か

異常トンネル効果の核心を理解するには、まず通常のトンネル効果との対比が役立つ。

通常の量子トンネル効果では、エネルギー の粒子が高さ の障壁にぶつかると、透過確率は が小さくなるほど急激に減少する。壁が高いほど、厚いほど、粒子は通りにくくなる。半導体デバイスや走査型トンネル顕微鏡の動作原理はこの効果に基づいている。

BECの音波、すなわちボゴリュボフ励起(凝縮体中の集団的な揺らぎが粒子のようにふるまう準粒子)は、これと逆の性質を示す。エネルギーが低いほど障壁を透過しやすくなり、エネルギーがゼロに近づく極限で透過確率は1に収束する。この完全透過が異常トンネル効果の本質だ。

なぜこのようなことが起きるのか。Kaganらによる初期の説明は、障壁近傍で凝縮体の密度が減少することで生じる仮想的な共鳴準位に起因するとされていた。2008年には、低エネルギーのボゴリュボフ音波の波動関数が凝縮体自身の波動関数と一致することが完全透過の根源であることが示された。この視点から見ると、異常トンネル効果はBEC特有の現象ではなく、連続対称性の自発的破れに伴って現れる南部・ゴールドストーンモードに共通する普遍的な性質であることがわかる。2012年にはKato、Watabe、Ohashiがハイゼンベルク強磁性体のスピン波でも完全透過が起きることを理論的に示し、この普遍性を裏付けた。

項目 通常のトンネル効果 異常トンネル効果
透過確率のエネルギー依存性 エネルギーが低いほど減少 エネルギーが低いほど増大
低エネルギー極限での透過確率 0に近づく 1に近づく(完全透過)
対象 単一粒子の量子力学的トンネル BECの音波(ボゴリュボフ励起)
普遍性 一般的な量子力学の帰結 南部・ゴールドストーンモードの普遍的性質
実験検証の状況 1960年代から多数 本研究が初の間接観測(2026年)

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Oqtantで何をしたか

研究グループが直面した問題は、異常トンネル効果をどうやって実験的に検出するか、という点だった。最も素朴な方法は、BECの音波を障壁に当てて透過確率を直接測定することだが、Oqtantの仕様ではこの測定が困難だった。

そこで研究グループは別の道を選んだ。段下教授が2005年に示していた理論的枠組みを発展させ、二重井戸型ポテンシャル中のBECの集団励起モードの周波数が、異常トンネル効果を間接的に反映することを理論的に導いた。

具体的には、お椀型のポテンシャルの中央にシート状の障壁を置いて二重井戸型ポテンシャルを作り、BECをわずかに揺すって集団励起を励起する。障壁の高さを変えながら、励起された振動モードの周波数を測定する。理論計算によれば、異常トンネル効果が存在する場合、障壁を高くしていくと、エネルギーが隣り合う二つの集団励起モードの周波数が互いに近づき、最終的に一致(マージ)する。しかも、エネルギーが低いモードほど、マージが起きる障壁の高さが大きくなる。この「低いモードほど障壁の影響を受けにくい」という傾向が、異常トンネル効果の間接的なシグネチャである。

Oqtantの仕様は以下の通りだ。ルビジウム87原子をシガー型(葉巻型)の調和ポテンシャルに閉じ込め、横方向の振動周波数は400 Hz、軸方向は42 Hz。蒸発冷却によって約90 nK(臨界温度約225 nKの約0.4倍)まで冷やし、約8,300個の原子からなるBECを生成する。BEC生成後、最大80〜100 msまでの時間発展を密度分布の画像として取得できる。

実験では、BEC生成後2〜3 msで不要な双極子振動を抑制し、8 msかけて中央の障壁を立ち上げ、15〜17 msの間に摂動ポテンシャルを加えて集団励起を励起した。その後、摂動を除いて原子雲の密度分布の時間変化を測定し、振動周波数を抽出した。このプロトコルを、障壁の高さを変えながら繰り返した。

実験結果が示した「低いモードほど壁を気にしない」というシグネチャ

測定結果は理論予測と定性的に一致した。第2および第3の集団励起モードについては、測定された周波数が理論計算とよく合う。障壁を高くすると、この二つのモードの周波数が互いに近づいていく様子が明確に観測された。

最低エネルギーのモードについては、理論値との定量的なずれが大きいものの、同じ定性的傾向を示した。障壁を高くすると周波数が低下する。

異常トンネル効果のシグネチャとして決定的なのは、マージが起きる障壁の高さの比較だ。実験から得られたマージ障壁高さは、最低モードで約3.58 kHz、第2・第3モードで約1.01 kHzだった。最低モードのマージ障壁高さが第2・第3モードよりも大きい、すなわち という不等式が成立している。これは、エネルギーが低いモードほど障壁の影響を受けにくいことを意味し、異常トンネル効果の存在を示す間接的な証拠である。

研究グループはこれを「間接的な証拠(indirect evidence)」と慎重に位置づけている。透過確率そのものを直接測定したわけではなく、集団励起の周波数シフトという代理指標を通じて異常トンネル効果の影響を捉えたにすぎない。この留保は重要だ。

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理論研究者が実験するということ

Oqtantを用いた学術的成果が査読付き論文として発表されたのは、本研究が世界初である。この事実は、クラウド実験プラットフォームの成熟度と、理論研究者による利用の実現可能性の両方を示している。

従来のクラウド量子サービス(IBMやGoogleの量子コンピュータ)では、ユーザーが量子回路を設計して実行結果を得るが、物理的な系そのものを操作するわけではない。Oqtantは、実在する超低温原子気体のポテンシャル形状を時間変化する形で設計し、その力学を直接観測できる点で、より「実験」に近い。ユーザーはPythonのJupyter Notebook上でポテンシャルを定義し、ジョブをキューに投入し、結果を取得する。実験室の立ち上げに数年、数億円を要する作業が、アカウント作成と数行のコードに置き換わる。

Infleqtion社のNoah J. Fitch氏(応用量子センシング担当部長)はプレスリリースの中で、「当社の使命の一つは『量子』に関する研究と技術へのアクセスを広げること」であり、「今回の研究は、この遠隔アクセスのモデルが地上に設置された時に何が可能であるかを明らかにしている」と述べている。

残された問いと次の一歩

本研究には明確な限界がある。

第一に、最低エネルギーモードの周波数が理論値から大きくずれている点だ。研究グループは有限温度効果が原因の可能性を指摘している。OqtantのBECは約90 nK、臨界温度の約0.4倍という有限温度にある。この温度効果を理論的に記述するには、Zaremba-Nikuni-Griffin方程式に基づくシミュレーションが必要になるが、本研究では実施されていない。

第二に、透過係率の直接測定は未達成である。本研究は集団励起の周波数という代理指標を通じた間接観測にとどまる。標準的な一次元散乱問題のセッアップで透過係率を直接測る実験は、現代の冷原子実験技術の射程内にあると研究グループは述べており、今後の課題として挙げている。

第三に、異常トンネル効果がBEC以外の系で実験的に検証される見通しだ。理論的には、ハイゼンベルク強磁性体のスピン波や、より一般的な南部・ゴールドストーンモードでも同じ現象が起きると予測されている。2026年4月には、異常トンネル効果が南部・ゴールドストーンモードに対する普遍的な低エネルギー定理であることを示す理論論文も発表されている。これらの系での実験検証は、クラウド実験プラットフォームの拡充と合わせて進む可能性がある。

段下教授が2005年に発表した理論的枠組みは、20年以上にわたり実験的検証を待っていた。その検証が、研究室内の実験装置ではなく、大洋を隔てたサーバー上の原子気体によって実現したという事実は、物理学における「実験」の定義そのものが変わりつつあることを示唆している。