なぜ私たちは、ここに存在するのだろうか? この根源的な問いは、現代物理学が挑む最大の謎の一つ「物質・反物質非対称性」に深く関わっている。そして今、その謎を解き明かすための、極めて重要なパズルのピースが発見された。スイスの欧州原子核研究機構(CERN)で行われているLHCb実験チームが、宇宙の物質の大部分を構成する「バリオン」と呼ばれる粒子において、史上初めて「CP対称性の破れ」を観測したのだ。この発見は、我々の存在そのものの起源に光を当てる、まさに歴史的な一歩と言えるだろう。

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宇宙最大のミステリー「消えた反物質」

話は、138億年前に遡る。宇宙の始まりであるビッグバンでは、莫大なエネルギーから物質とその「双子の兄弟」である反物質が、全く同量だけ生まれたと考えられている。

反物質は、質量などの性質は物質と全く同じだが、電荷だけが正反対という性質を持つ。そして、両者が出会うと互いの存在を打ち消し合い、巨大なエネルギーの閃光となって消滅する「対消滅」という現象を起こす。

もし、ビッグバンで生まれた物質と反物質の量が本当に寸分違わず同じだったなら、どうなっていただろうか。宇宙が冷えていく初期の段階で、全ての物質と反物質は対消滅を起こし、後には空っぽの空間と、その名残である光(エネルギー)だけが残ったはずだ。そこには星も、銀河も、そして生命も存在しない。

しかし、現実に我々が存在し、周りを見渡せば物質でできた世界が広がっている。これは、宇宙創生のどこかの時点で、何らかの理由で物質が反物質よりもほんのわずかに多く生き残ったことを意味する。その「ごく僅かな差」から、現在の壮大な宇宙、そして私たち自身が形作られたのだ。この宇宙最大のミステリーは「物質・反物質非対称性」と呼ばれ、物理学者たちが長年その答えを探し続けてきた。

60年の探索に終止符、LHCbが捉えた決定的証拠

この謎を解く鍵として期待されてきたのが、「CP対称性の破れ」だ。これは、物質と反物質の振る舞いに、根本的な違いが存在することを示唆する現象である。

1960年代、物理学者たちは「メソン」と呼ばれる粒子(クォークと反クォークがペアになったもの)の崩壊過程で、このCP対称性の破れを初めて観測し、ノーベル物理学賞の対象となった。しかし、陽子や中性子のように3つのクォークから成り、宇宙の質量の大部分を占める「バリオン」においては、これまで一度も観測されたことがなかった。理論的には存在するはずだとされながらも、約60年間、その姿は捉えられていなかったのだ。

今回、CERNのLHCb実験チームは、ついにこの長年の探索に終止符を打った。

主役は「ラムダ・ビューティー」バリオン

研究チームが注目したのは、「ラムダ・ビューティー(Λb)」と呼ばれるバリオンとその反物質粒子だ。彼らは、世界最大の粒子加速器である大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を使い、2011年から2018年にかけて収集された膨大なデータを解析。光速近くまで加速された陽子同士の衝突によって生まれるΛbバリオンとその反粒子が、他のより軽い粒子へと崩壊していく様子を、約8万イベントにわたって精密に追跡した。

5.2シグマの衝撃 ― 偶然ではない「非対称」

その結果は、驚くべきものだった。もしCP対称性が保たれていれば、Λbバリオンとその反粒子は、鏡に映したように全く同じように崩壊するはずだ。しかし、観測データは、両者の崩壊率にわずかな違いがあることを明確に示した。

2025年7月16日に科学誌『Nature』に掲載された論文によると、その差は 2.45%。この数値は小さいように見えるかもしれないが、統計的な信頼性を示す「シグマ」の値は 5.2 に達した。これは、観測された結果が単なる偶然の統計的な揺らぎである可能性が、実に1000万分の1以下であることを意味する。素粒子物理学の世界では、5シグマが「発見」を宣言するための黄金律とされており、今回の結果はバリオンにおけるCP対称性の破れの存在を揺るぎないものにした。

研究の筆頭著者であるCERNの物理学者、Xueting Yang氏は「この結果は、バリオン(陽子や中性子のように3つのクォークで構成される粒子)もまたCP対称性を破る可能性があることを示しています」とその意義を語る。まさに、物理学者たちが60年間探し求めてきたパズルのピースが、ついにその姿を現した瞬間だった。

CP対称性の破れとは何か?

ここで、「CP対称性」という概念を少しだけ紐解いてみよう。これは二つの操作を組み合わせたものだ。

  • C(Charge Conjugation / 電荷共役変換): 粒子のプラスとマイナスの電荷を入れ替える操作。つまり、物質を反物質に変えることに相当する。
  • P(Parity Transformation / パリティ変換): 空間座標を反転させる操作。まるで鏡に映した世界を考えるようなものだ。

かつて物理学者たちは、この二つを組み合わせた「CP変換」を行っても、物理法則は変わらない(CP対称性は保存される)と信じていた。しかし、この信念は1964年のメソンの実験によって覆された。そして今回、その「破れ」が、物質世界の主役であるバリオンにも確かに存在することが証明されたのだ。

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標準理論の予測と矛盾 ― 新物理学への扉が開く

今回の発見は、物理学の世界に新たな光と、同時に大きな問いを投げかけている。

予測通り、しかし「量が足りない」というジレンマ

興味深いことに、今回観測された2.45%というCP対称性の破れの「大きさ」は、現代物理学の集大成である「標準理論」の予測とおおむね一致していた。これは、標準理論の正しさを改めて裏付ける成果とも言える。

しかし、ここからが本題だ。標準理論が予測するCP対称性の破れの「総量」は、宇宙に存在する圧倒的な物質の量を説明するには、何桁も、絶望的に足りないことが以前から知られている。メルボルン大学の物理学者Ray Volkas教授も指摘するように、「標準理論におけるCP対称性の破れの量は、宇宙の物質・反物質非対称性を説明するには不十分」なのだ。

つまり、今回の発見は「標準理論は正しい方向を向いているが、それだけでは全てを説明できない」という、物理学が抱える根源的なジレンマを改めて浮き彫りにしたのである。

「未知の物理法則」の存在を示唆

この「量が足りない」という事実は、何を意味するのか? それは、標準理論を超える「新しい物理学」、つまり我々がまだ知らない粒子や力が存在し、それが追加のCP対称性の破れを生み出している可能性を強く示唆している。

今回のバリオンでの発見は、その未知なる物理法則を探すための、全く新しい「窓」あるいは「実験室」を開いたことに等しい。ジョンズ・ホプキンス大学の理論物理学者Sean Carroll氏は「LHCが標準理論を超える物理学をまだ見つけられていないことに、我々は少しがっかりしていました。しかし、探し続けることが非常に重要です。今回の発見は、我々人類が答えを出すべき本当に大きな問題がそこにあることを、改めて思い起こさせてくれます」と語る。

開かれた新たな地平線 ― 宇宙の謎解明へのロードマップ

この歴史的な発見は、ゴールではなく、新たな探求の始まりだ。

崩壊の「内訳」を探る

研究チームはすでに、次なるステップを見据えている。今回観測された2.45%という数値は、Λbバリオンが起こす様々な崩壊パターン全てを平均したものだ。しかし、特定の崩壊パターンに絞って見てみると、その非対称性はさらに大きくなることが分かっている。例えば、特定の粒子群(R(pπ+π−)K−)に崩壊する過程では、CP対称性の破れは 5.4% にも達し、その有意性は6.0シグマというさらに高い値を示す。

このように崩壊の「内訳」を詳細に分析することで、CP対称性の破れがどのようなメカニズムで、どこで強く生じているのかを突き止め、新物理学のヒントを掴むことができるかもしれない。

世界中の実験が連携する未来

この謎への挑戦は、CERNだけで行われているわけではない。日本の高エネルギー加速器研究機構(KEK)で行われているBelle II実験など、世界中の研究機関が異なるアプローチでこの問題に取り組んでいる。LHCb実験は陽子衝突を用いるのに対し、Belle II実験は電子と陽電子の衝突を用いるため、互いの結果を補完し合うことで、より確かな答えに近づくことができる。

今後、LHCは「高輝度LHC(High-Luminosity LHC)」へとアップグレードされ、得られるデータ量は飛躍的に増大する。より多くのデータ、より精密な測定、そして世界中の研究者たちの連携によって、私たちは「なぜ宇宙は物質で満たされているのか」という根源的な問いの答えに、さらに近づいていくことだろう。

今回の発見は、我々の存在理由を問う壮大な旅路における、確かな道しるべだ。まだパズルは完成していない。しかし、その最も重要で、長らく見つからなかったピースが、今、確かな手触りをもって我々の目の前に示されたのである。


論文

参考文献