中国の新興AI企業DeepSeekが、次世代モデル「R2」のリリース遅延に直面している。その裏には、中国当局の国産化圧力と、Huawei製AIチップが抱える深刻な技術的限界があった。AI開発の最前線で起きたこの一件は、中国の技術自給自足戦略の厳しい現実を浮き彫りにしている。
栄光からの暗転:期待の星を襲った「国産化」の波
2025年1月、DeepSeek社が発表したAIモデル「R1」は業界に衝撃を与えた。NVIDIAのH800 GPUを2,048基使用し、他社が数百億を投じる中でわずか557万ドルという驚異的な低コストで訓練されたと主張したからだ。(後に同社はH100やH20を含む約5万基のGPUにアクセス可能だったことが明らかになる。)この成功により、DeepSeekは一躍、中国AI業界の寵児となった。
しかし、その成功が皮肉にも次なる試練を呼び込む。Financial Timesが報じたところによると、次世代モデル「R2」の開発にあたり、中国当局がDeepSeekに対し、NVIDIA製チップから国内の雄、Huawei製の「Ascend」プロセッサへ切り替えるよう強く「奨励」したのだ。これは、米国の半導体輸出規制に対抗し、国内技術のエコシステムを育成しようとする国家戦略の一環に他ならない。
DeepSeekはこの「提案」を受け入れ、R2の訓練基盤をHuawei Ascendへと移行させた。だが、この決断が、当初5月に予定されていたリリースを大幅に遅らせる悪夢の始まりとなる。
越えられなかった技術の壁:Huaweiチップは何が問題だったのか
鳴り物入りで導入されたHuawei Ascendプラットフォームだったが、AIモデルの「訓練(Training)」という最も過酷なタスクには耐えられなかった。現場からは、複数の深刻な技術的問題が報告されている。
訓練を阻んだ3つの課題
- 性能の不安定さ: 訓練プロセス中に性能が安定せず、大規模な計算処理を継続的に実行することが困難だった。
- 低速なチップ間接続: 大規模言語モデルの訓練では、数千のチップが緊密に連携する必要がある。Ascendプラットフォームのチップ間接続速度はNVIDIAのNVLinkに及ばず、これが深刻なボトルネックとなった。
- ソフトウェアの未成熟: 最も根深い問題は、Huaweiのソフトウェア開発ツールキット「CANN(Compute Architecture for Neural Networks)」の限界にあった。AI開発におけるNVIDIAの牙城は、CUDAという盤石なソフトウェアエコシステムにある。世界中の開発者が使い慣れたこのプラットフォームに比べ、CANNは機能面、安定性、そして使い勝手の面で大きく劣っていたのだ。
事態を重く見たHuaweiは、自社のエンジニアチームをDeepSeekのデータセンターに常駐させ、問題解決にあたった。しかし、複数の関係者によれば、彼らの懸命な努力にもかかわらず、Ascendチップ上でR2の訓練を一度も成功裏に完了させることはできなかったという。
最終的にDeepSeekは苦渋の決断を下す。計算負荷が極めて高い「訓練」フェーズでは実績のあるNVIDIA製チップに戻し、訓練済みモデルを使って応答を生成する比較的負荷の軽い「推論(Inference)」フェーズでHuawei製チップとの互換性を確保するという、ハイブリッド戦略への転換だ。この方針転換こそが、R2のリリースが数ヶ月単位で遅延する直接的な原因となった。
この問題は単なるハードウェアの性能差だけでは片付けられない。AI開発の効率と成果は、ハードウェア、ソフトウェア、そして開発者コミュニティが一体となった「エコシステム」の成熟度に大きく依存する。NVIDIAのCUDAが20年近くかけて築き上げてきたこの牙城を、後発のCANNが数年で覆すのは、極めて困難な挑戦であると言わざるを得ないだろう。
一企業の挫折が示す、中国「技術自給」の構造的課題
DeepSeekの苦闘は、単なる一企業の失敗物語ではない。それは、米国の厳しい輸出規制下で技術的自立を目指す中国が直面する、構造的な課題を象徴している。
北京政府は、国内の巨大テック企業に対し、NVIDIAの中国向けダウングレード版チップ「H20」の購入に際してさえ、なぜ国産品では代替できないのかを正当化するよう求めるなど、国産チップの採用を強力に推進している。しかし、今回の件は、政府の号令と現場の技術的現実との間に、依然として大きな隔たりがあることを示した。
特にAIの「訓練」という、国家のAI競争力を左右する最も重要なプロセスにおいて、中国製チップがまだNVIDIAに遠く及ばないという事実が露呈した意味は大きい。これは、中国のAI戦略そのものが、当面は米国の技術に依存せざるを得ないという不都合な真実を突きつけている。
皮肉なことに、この国産化の失敗は、結果的に中国国内におけるNVIDIA H20チップへの需要を再び喚起している。まさに「敵に塩を送る」状況だが、背に腹は代えられないというのが現場の本音だろう。
R2の行方と、中国AIの未来への問い
リリースが遅延しているDeepSeek R2は、数週間以内に公開されるとの観測もある。しかし、創業者であるLiang Wenfeng氏は社内に対し、品質に満足できないままリリースを急ぐべきではないと伝え、モデルのさらなる改善を指示しているという。一度失った市場の信頼を取り戻すには、圧倒的な性能を示す以外に道はないという判断だろう。
カリフォルニア大学バークレー校のAI研究者であるRitwik Gupta氏は、「Huaweiが訓練用チップで苦戦しているのは『成長痛』のようなもの。今日、Huawei製チップで訓練された主要なモデルが見られないからといって、それが未来永劫続くわけではない。時間の問題だ」と指摘する。
今回の手痛い失敗は、Huaweiをはじめとする中国企業に、ハードウェアの性能向上だけでなく、CANNのようなソフトウェアエコシステムの構築こそが真の課題であることを痛感させたはずだ。この教訓が、中国独自のAIエコシステムをより強固なものへと導く転機となる可能性も否定できない。
DeepSeekの挫折は、技術覇権を巡る米中対立の縮図だ。果たして中国は、この壁を乗り越え、真の技術的自立を成し遂げることができるのか。DeepSeek R2の今後の動向が、その未来を占う一つの試金石となることは間違いないだろう。
Sources
- Financial Times: DeepSeek’s next AI model delayed by attempt to use Chinese chips



