富士通は2026年9月8日、ダイヤモンド中のスズ空孔(SnV)センターを使う量子コンピュータのプロトタイプを発表した。SnVをチップ上のフォトニクス集積回路へ組み込み、量子ゲートを操作できる1モジュールのシステムを構築したという。約-271.6℃で動き、同社のクラウド基盤から量子ビットを制御した。成果の重みは量子ビット数ではなく、光で別々のモジュールをつなぐための材料、回路、制御系を一台にまとめた点にある。
一方、今回の装置が1,000論理量子ビットを備えたわけではない。複数モジュール間の光接続も次の開発段階に残る。現在の実証と富士通の2035年度目標を分けると、大規模な誤り耐性量子コンピュータまでに埋めるべき距離が見えてくる。
1モジュールの実証と、三つの未到達点
富士通の説明資料は、冷凍機内のダイヤモンドモジュール集積チップを「1モジュール」と明記する。実演したのは、電子スピンと核スピンの周波数を校正し、電子スピンへマイクロ波を当てたときのラビ振動を確認する操作だ。量子回路を光、マイクロ波、RF波の制御列へ変換し、Fujitsu Hybrid Quantum Computing Platformから量子ビットを操作する経路も通した。
開発段階を方式と時点で分けると、次のようになる。
| 時点 | 対象 | 富士通が公表した到達点・目標 | 状態 |
|---|---|---|---|
| 2026年9月 | SnVダイヤモンドスピン | 1モジュールをチップへ集積し、量子ゲート操作とクラウド経由の制御を確認 | 実証済み |
| 2027年 | SnVダイヤモンドスピン | 光で接続する複数モジュールのプロトタイプ | 開発目標 |
| 2030年度 | 超伝導 | 1万物理量子ビット超で250論理量子ビット | 開発目標 |
| 2035年度 | 超伝導とダイヤモンドスピンの統合を研究 | 1,000論理量子ビット | 全体目標 |
今回動作したのは1モジュールであり、複数モジュールの光接続は2027年の開発目標、250論理量子ビットは2030年度、1,000論理量子ビットは2035年度の全体ロードマップ目標である。
物理量子ビットは、電子や原子核の状態を実際に操作する素子を指す。論理量子ビットは、多数の物理量子ビットに情報を分散し、誤りを検出・訂正できる単位だ。富士通は今回の試作機について、物理量子ビットの総数とゲート忠実度を公表していない。コヒーレンス時間も、実行したアルゴリズムの結果も不明である。したがって、表の四段階を一つの連続した性能値として比べることはできない。
「世界初」という表現にも範囲がある。富士通の注記は、SnVセンターをチップ上に集積した形態の量子コンピュータとして世界初だとする。2026年9月時点の同社調べであり、ダイヤモンドスピン量子コンピュータそのものや、論理量子ビットの世界初を意味しない。
スズを入れた理由は、光を取り出しやすくするため
ダイヤモンドスピン方式は、人工ダイヤモンドに不純物と空孔が作るカラーセンター(色中心)を利用する。電子スピンは光子を介して外部とつながる通信役を担い、その近くにある炭素13の核スピンは量子状態を長く保持するデータ役になる。単一チップを際限なく大きくする代わりに、この小さな量子モジュールを光で結ぶのが富士通の構想だ。
従来よく使われてきた窒素空孔(NV)センターは、ダイヤモンド中の窒素原子と隣の空孔でできる。今回採用したSnVセンターでは、スズ原子が二つの空孔の間に入る。反転対称性を持つため電荷ノイズの影響を受けにくく、ナノ加工した環境でも光の周波数をそろえやすい候補とされる。遠く離れた量子ビットをもつれさせるには、両側から届く光子を区別できない状態へ近づける必要があり、この安定性が効く。
富士通はSnVの発光効率をNV比で約10倍と説明する。増えたのは、量子ビットの読み出しや光接続に使う光子を取り出す効率である。量子計算の速度、量子ビット数、ゲート忠実度が10倍になったという測定ではない。比較条件や誤差も説明資料には示されていないため、約10倍は同社の材料評価として扱う必要がある。
光子をチップ外へ導くだけでも、材料加工の難所がある。富士通はスズをイオン注入した高品質ダイヤモンドを、アルミナと酸化膜付きシリコンの基板へ接合した。数百µmあったダイヤモンドを数百nmまで薄くし、可視光で損失の少ないアルミナ導波路と結合させた。高品質ダイヤモンドだけで光回路全体を作る制約を避け、得意な材料を貼り合わせる設計である。
この接合技術には前段がある。富士通とQuTechの研究者は2023年、ダイヤモンドとサファイアを室温で直接接合し、14MPaを超えるせん断強度と可視光域での高い透過性を報告した。今回の試作機は、材料を接合して薄くし、SnVを含むナノサイズのダイヤモンドとアルミナ導波路を一つの光回路へ組み込むところまで進めた。
1.53℃の差より、冷凍機の中で何を減らせるか
試作機の動作温度は約-271.6℃、絶対温度では約1.55Kである。富士通が超伝導方式の典型値として挙げる約-273.13℃、約0.02Kより1.53℃高い。摂氏や華氏では小さな差に見えるが、絶対零度から測れば異なる温度域だ。ただし、公表値が丸められているため、絶対温度の比率を精密な性能差として扱うのは適切でない。
1.55Kも日常語でいう「高温」ではない。試作機の写真と構成図には冷凍機があり、レーザー、単一光子検出器、高周波機器が周囲を囲む。室温動作でも冷凍機不要でもない。冷却電力、冷凍機の容積、運用費が超伝導方式よりどれほど減るかは公表されていない。
温度の余裕が実装上の利点になる可能性はある。冷凍機の最も冷たい段へ入れられる配線や制御回路には、発熱と空間の制約があるからだ。富士通とQuTechは2024年、4Kで動くクライオCMOS回路を同じ冷凍機に置き、NV量子ビットを駆動した。今回も多モジュール化を想定し、全体制御と各モジュールの局所制御へプロセッサを配置する設計を示している。温度差の価値は、モジュール数を増やしたときに配線本数と熱負荷をどこまで抑えられるかで決まる。
高忠実度と遠隔ゲートは、NVで得た別々の実績
富士通はダイヤモンドスピン方式の根拠として、二つの研究成果を挙げる。どちらも大規模化へ必要な部品を実験したものだが、今回のSnV試作機の性能試験ではない。
一つ目は、QuTechなどが2025年にPhysical Review Appliedで報告した量子ゲートである。対象はNVセンターの電子スピンと窒素核スピンから成る2量子ビット系だった。ゲート集合トモグラフィーで、単一量子ビットゲートは最大99.999(1)%、2量子ビットゲートは99.93(5)%の忠実度を得た。高い数値だが、2量子ビットのNV装置で測った結果を、SnVチップの多数の量子ビットへそのまま移せるわけではない。
二つ目は、同じくNVセンターを使った2026年のNature Communications論文である。研究チームは3.9Kと3.4Kの別々の冷凍機に2量子ビットずつを置き、2mの光ファイバーで接続した。電子スピンで遠隔もつれを作り、炭素13の核スピン同士に無条件のCNOTゲートを実行した。後から成功例だけを選ぶ方式に頼らず、測定結果をリアルタイムで次の操作へ反映した点に意味がある。
この遠隔実験は「光でつなげる」という原理を具体化した。ただし、結んだのはNVの2ノードであり、今回のSnV試作機は1モジュールである。SnV同士のもつれ生成率、遠隔ゲート忠実度、接続を待つ時間はまだ示されていない。高忠実度の局所ゲート、光で届く遠隔ゲート、SnVの集積という三つの成果は、現段階では別々の実験として読む必要がある。
2027年に問われる光接続の歩留まり
2027年の複数モジュール試作機では、モジュールを置けた個数より、光接続が計算資源として機能するかが評価点になる。見るべき数字は、光子を取り出して検出できる確率、離れたSnV間でもつれを作れる頻度と忠実度、遠隔ゲートを待つ間に核スピンが情報を保てる時間である。光導波路とダイヤモンドを作る歩留まりや、複数のSnVの発光周波数をそろえられる割合も量産性を左右する。
さらに、局所ゲートと光接続を組み合わせた誤り訂正の性能は、論理量子ビットへ拡張できるかを判断する重要な評価軸になる。富士通が2030年度に掲げる250論理量子ビットは超伝導方式の計画で、2035年度の1,000論理量子ビット機における方式構成やダイヤモンドスピンのモジュール数は公表されていない。
今回のプロトタイプは、SnVを光回路へ載せ、制御ソフトウェアから動かす入口を作った。次の一歩は写真に写る冷凍機を増やすことではない。複数のSnVモジュールを光で結んだときの成功率、忠実度、待ち時間を同時に公表できれば、1モジュールの試作は初めて大規模化の測定値へ変わる



