アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼び、最後までその存在に懐疑的だった量子力学の奇妙な現象、「量子もつれ」。2つの粒子がどれだけ離れていても、一方の状態を決めると瞬時にもう一方の状態が決まるというこの摩訶不思議な相関は、今やSFの世界を飛び出し、次世代の技術革新を担う核として期待されている。そんな量子技術の最前線で、日本の研究チームが歴史的なブレークスルーを成し遂げた。

京都大学と広島大学の研究グループは、長年にわたり測定が極めて困難とされてきた特殊な量子もつれ状態「W状態」を、一括で、しかも一度の測定で識別する新技術を世界で初めて開発し、その実証に成功したのだ。 この成果は、25年以上にわたり理論家と実験家を悩ませてきた難問を解決するものであり、盗聴不可能な量子ネットワークや、従来のコンピュータとは比較にならない計算能力を持つ量子コンピュータ、そして究極の情報転送技術である「量子テレポーテーション」の実用化を大きく前進させる、まさに歴史的な発見と言えるものだ。

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なぜ重要なのか?量子技術の心臓部「量子もつれ」

現代技術の多くは量子力学の恩恵を受けているが、それは個々の粒子の性質を利用する「第1世代」の量子技術だった。今、世界が競って開発しているのは、量子もつれや重ね合わせといった、より根源的で奇妙な性質を積極的に利用する「第2世代」の量子技術となっている。

「不気味な遠隔作用」から次世代技術へ

量子もつれとは、2つ以上の量子(例えば光の粒子である光子)が、どれだけ遠くに引き離されても、 一つの存在であるかのように振る舞う不思議な相関関係を指す。 一方の光子の状態を測定すると、その瞬間、もう一方の光子の状態が即座に確定する。その情報伝達速度は光速を超えるように見え、古典物理学の常識とは相容れない。

これを分かりやすく例えるなら、左右で色の違う手袋が1組あり、それを別々の箱に入れて、銀河の端と端に送ったとしよう。銀河の端で箱を開けて手袋が「右手用」だと分かれば、その瞬間、何万光年も離れた銀河の別の端にある箱の中身が「左手用」であることが確定する。これが量子もつれの世界で起こっていることだ。この奇妙な繋がりこそが、量子技術に爆発的な力をもたらす源泉となる。

1935年、アインシュタインらは、量子力学の記述が不完全であると主張するために「EPRパラドックス」として量子もつれの概念を提示した。 彼は、遠く離れた粒子が瞬時につながるという考えを「不気味な遠隔作用」と呼び、物理的な実在と相容れないと考えたのだ。

しかし、その後の研究と実験は、この「不気味」な現象が紛れもない事実であることを証明してきた。そして今、科学者たちはこの現象を単なる謎としてではなく、強力な「リソース(資源)」として捉えている。

  • 量子コンピュータ: 0と1のどちらかである古典的なビットとは異なり、0と1の状態を同時に持ちうる「量子ビット」を用いる。量子もつれを使うことで、これらの量子ビットを連携させ、膨大な計算を並列で実行することが可能になる。これは新薬開発や新素材設計における分子シミュレーション、複雑な金融モデルの最適化など、現代のスーパーコンピュータでも歯が立たない問題の解決に繋がると期待されている。
  • 量子暗号通信: もつれ合った光子のペアを送信側と受信側で共有する。もし第三者が盗聴しようと光子を観測すれば、その瞬間に量子状態が変化し、もつれが壊れてしまう。これにより、盗聴の事実を確実に検知できるため、原理的に解読不可能な究極のセキュリティが実現する。
  • 量子テレポーテーション: よくSF映画で描かれるような物質転送ではない。粒子の持つ「量子情報」そのものを、空間を超えて別の粒子に転送する技術だ。 量子もつれを利用することで、ある場所の量子ビットの状態を破壊し、別の場所にある量子ビットに寸分違わず再構成することができる。これは未来の「量子インターネット」を構築する上で不可欠な基盤技術となる。

これらの技術を実現するためには、多数の粒子が複雑にもつれ合った状態を自在に生成し、そして「それがどのようなもつれ状態なのか」を正確かつ効率的に測定(識別)する必要がある。

しかし、この強力な「もつれ」を兵器として使いこなすには、まずその状態を正確に知る必要がある。どのようなもつれ状態にあるのかを「測定」できなければ、それは宝の持ち腐れだ。

今回の研究は、まさにこの「測定」という根幹部分における大きな壁を打ち破ったのである。

25年間、解けなかった難問「W状態」の正体

一口に「量子もつれ」と言っても、その絡み合い方には様々な種類が存在する。3つ以上の粒子がもつれ合う「多者間エンタングルメント」において、特に代表的なのが「GHZ状態」と「W状態」と呼ばれる2つの状態だ。

GHZ状態(Greenberger-Horne-Zeilinger state)は、「全員が一心同体」というような状態だ。例えば、3つの粒子がすべて「状態0」であることと、すべてが「状態1」であることが重なり合っている。この状態は非常にデリケートで、たった1つの粒子を観測しただけで、もつれ関係が完全に崩壊してしまう。脆いガラス細工のようなものだ。

一方、W状態は、より巧妙で頑健なもつれ方をする。「3つの粒子のうち、どれか1つだけが『状態1』で、残りの2つは『状態0』である」という複数の可能性が重なり合った状態だ。 こちらは、1つの粒子を観測しても、残りの粒子間の量子もつれが維持されるという特徴がある。まさに、しなやかな鎖のように強靭な性質を持っているのだ。この「壊れにくさ」は、多数のユーザーが接続する量子ネットワークなど、現実世界での応用に非常に有利だと考えられている。

GHZ状態については、それを測定する方法が1998年に提案され、その後実験的にも実現されていた。 しかし、W状態については、その複雑さから有効な測定方法が提案されておらず、25年以上にわたって量子情報科学における未解決の課題となっていたのだ。

従来の一般的な測定法「量子トモグラフィー」では、粒子の状態を完全に特定するために、無数の測定を繰り返す必要があった。その測定回数は、光子の数がN個に増えると指数関数的に(2のN乗のオーダーで)増加してしまう。 たった数個の光子でも天文学的な回数の測定が必要となり、現実的ではなかった。いわば、W状態という特殊なチームの連携プレーを評価したいのに、一人ひとりに何度も同じ質問を繰り返すような、非効率な方法しかなかったのである。

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京大・広大チームの歴史的ブレークスルー:「一括測定」という革命

今回、京都大学大学院工学研究科の朴渠培(パク コベ)博士課程学生(研究当時)、岡本亮 准教授、竹内繁樹 教授らの研究グループは、広島大学大学院先進理工系科学研究科のHolger F. Hofmann教授と共同で、この長年の課題に対する画期的な解決策を打ち出した。

彼らのアプローチの核心は、W状態が持つ「巡回シフト対称性(cyclic shift symmetry)」という美しい数学的性質に着目したことにある。 これは、W状態を構成する粒子を「1→2、2→3、3→1」というように順番に入れ替えても、状態全体としては本質的に変わらないという特性だ。

研究チームは、この対称性を検知できる特殊な光量子回路を設計した。その心臓部となるのが、「量子フーリエ変換(quantum Fourier transformation)」と呼ばれる操作を行う回路である。 フーリエ変換は、複雑な波を単純な波の集まりに分解する数学的な手法で、音声分析など幅広い分野で使われているが、研究チームは、この操作を光子の世界で実行する特殊な光量子回路を設計・開発したのだ。

この回路に光子たちを通すと、W状態が持つ巡回シフト対称性が、出口での光子の検出パターンとして現れる。これにより、従来の量子トモグラフィーのように何度も測定を繰り返す必要はなく、文字通り「ワンショット」でW状態を識別することが可能になった。 これは、一つずつ状態を調べていた時代から、一網打尽に状態を把握する時代への、まさにパラダイムシフトであった。

ナノメートルの精度を支える「匠の技」

この理論を現実のものにするには、極めて高い技術力が要求された。光量子回路は、光の進む経路の長さをナノメートル(1ミリメートルの100万分の1)単位で安定させる必要がある。 わずかな温度変化や振動でも、結果は台無しになってしまう。

研究チームは、この難題を「変形サニャック干渉計」と呼ばれる独自に開発した光学素子を組み込んだ、極めて安定性の高い光量子回路を構築することで克服した。 この装置は、外部からの精密な制御を必要とせずとも、長時間にわたって安定して動作することに成功。 まさに日本の研究者が持つ「匠の技」が、この歴史的な実験を成功に導いたと言えるだろう。

実験の成功と驚異的な「忠実度」

理論の構築だけでなく、研究チームはこれを現実の実験で証明してみせた。彼らは、3つの光子を用いてW状態の測定を実証するために、独自に開発した極めて安定性の高い光量子回路を構築した。 ナノメートル単位の精度が要求される光の経路を、外部からのフィードバック制御なしに長時間安定して動作させることに成功したのである。 これは、実験室レベルの基礎研究から、実用的なデバイス開発へと繋がる重要な一歩と言える。

実験の結果、彼らが達成した「測定識別忠実度(measurement discrimination fidelity, MDF)」は 0.871 ± 0.039 という非常に高い値を示した。

この数字が持つ意味は大きい。測定識別忠実度とは、いわば「測定がどれだけ正しく『これはW状態である』と判定できたかを示す成績表」のようなものだ。そして、従来の量子もつれを使わない測定方法で達成できる忠実度には理論的な上限が存在し、3光子の場合は2/3(約0.667)と計算されている。

研究チームが叩き出した「0.871」という数値は、この理論限界を明確に上回っている。これは、彼らの装置が単なる古典的な測定器の寄せ集めではなく、真に「量子もつれ」そのものを捉える「もつれ測定(entangled measurement)」として機能していることの動かぬ証拠なのだ。

この発見が拓く未来:量子インターネットから新薬開発まで

W状態の効率的な測定が可能になったことで、これまで理論上の存在だった多くの量子技術が、一気に現実味を帯びてくる。

1. 多者間量子テレポーテーションの実現へ
従来の量子テレポーテーションは基本的に1対1の情報転送だった。W状態のもつれ測定は、多数の利用者間で同時に量子情報をやり取りする、より複雑な量子通信プロトコルの実現に道を開く。 例えば、ある情報を複数の場所に同時にテレポートさせたり、複数のユーザーが協力して一つの量子計算を行ったりといった、未来の量子インターネットの姿が見えてくる。

2. より堅牢な量子ネットワークの構築
前述の通り、W状態はGHZ状態に比べて環境ノイズに強く、一部の粒子が失われてももつれが残るという利点がある。この頑健なW状態を効率的に識別できるようになったことで、現実の環境下でも安定して動作する、より実用的な量子通信ネットワークや量子コンピュータの構築が期待される。 これは、政府機関や金融機関、重要インフラを守るための、ハッキング不可能な通信網の実現を加速させるだろう。

3. 測定型量子コンピュータの新たな可能性
量子コンピュータにはいくつかの方式があるが、その一つに「測定型量子コンピュータ」がある。これは、あらかじめ巨大な量子もつれ状態(クラスター状態)を用意しておき、個々の量子ビットを特定の順序で測定していくことで計算を進めるという手法だ。今回の「もつれ測定」は、計算の新たな手法を提供し、この分野の研究開発を促進する可能性がある。

4. 科学のフロンティアを押し広げる
この技術は、新薬開発や材料科学における分子レベルのシミュレーション、気候変動の精密な予測モデル構築など、膨大な計算能力を必要とする科学の最前線を強力に後押しする。 私たちがまだ想像もしていないような新しい科学技術への扉を開く鍵となるかもしれない。

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研究者の声:「基礎の理解が革新を生む」

今回の研究を主導した京都大学の竹内繁樹教授は、この成果の意義を次のように語っている。

「量子技術の研究開発を加速するためには、基礎的な概念の理解を深め、そこから革新的なアイデアを生み出すことが極めて重要です」。

この言葉は、今回の発見が単なる技術的な改良ではなく、量子力学という世界の根源的な性質を深く探求した結果生まれたものであることを示唆している。25年以上も未解決だった難問は、W状態の持つ「対称性」という本質的な美しさを見抜くことで、ついに解き明かされたのだ。

研究チームは今後、今回実証した手法を、さらに多くの光子を含む、より大規模で一般的な量子もつれ状態の測定へと拡張することを目指している。 また、実験装置全体を一つのチップ上に集積する「オンチップ化」にも取り組む計画で、量子技術の小型化・実用化に向けた研究はさらに加速していく。

アインシュタインが提起した「不気味」な問いかけから約1世紀。人類は、その不気味さの奥に潜む宇宙の法則を理解し、それを自らの未来を切り拓くための道具として手に入れようとしている。今回の日本の研究チームによる成果は、その長く壮大な知的探求の歴史に、確かな一歩を刻んだ。量子が織りなす不思議な世界が、私たちの社会を根底から変える日は、もう遠くないのかもしれない。


論文

参考文献