動物が世界を認識し、行動を起こすとき、脳内では無数の神経細胞がシナプスを介して信号をやり取りしている。この情報伝達の全貌を理解するための基盤となる地図が、神経回路の配線図であるコネクトームだ。回路図がなければ電子機器の故障を根本から直せないように、脳の構造的基盤がわからなければ、記憶や学習、あるいは神経疾患のメカニズムを真に理解することはできない。

しかし、約860億個のニューロンを持つ人間の脳をシナプスレベルで完全にマッピングすることは、現在の技術では実現が難しい。人間の大脳皮質をわずか1立方ミリメートル切り出すだけで、そこには数万個のニューロンと数億のシナプスが含まれており、データ量はペタバイト規模に達する。そのため神経科学者たちは、はるかに小さなモデル生物の神経系を端から端まで解明することで、脳というシステムの普遍的な動作原理を探ってきた。

ショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)はその代表格である。1970年代にシーモア・ベンザーが行動遺伝学を創始して以来、この昆虫は短いライフサイクルと定型的な行動を頼りに、複数のノーベル賞につながる発見をもたらしてきた。だが、その小さな脳であっても配線図を描き出すのは容易ではない。脳組織を数百万もの極薄のスライスに切り分け、電子顕微鏡で撮影した画像を3次元的に再構築する必要がある。研究者たちは細胞の境界をなぞる退屈で果てしない手作業に長年苦しめられてきた。これが現在、機械学習のアルゴリズムによって根本から変わりつつある。

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電子顕微鏡画像をAIが塗りつぶす、FFNが超えた手作業の限界

手作業による限界を突破するため、Google Researchのチームは人工知能を活用した。「Flood-filling networks(FFN)」と呼ばれる畳み込みニューラルネットワークを用い、二次元の電子顕微鏡画像から同じ対象物に属するピクセルを特定し、ニューロンの立体構造を自動で追跡して再構築する手法を開発した。

コネクトーム構築の最初のステップは、脳組織を極薄の切片に切り出すことだ。ショウジョウバエの脳を樹脂で固め、ダイヤモンドナイフを使って厚さ数十ナノメートルのスライスに切り分ける。それを電子顕微鏡で撮影し、コンピュータ上で再び3次元のブロックへとつなぎ合わせる。ここで最大の問題となるのが、無数に絡み合うニューロンの枝をどうやって一つずつ分離するかという課題である。

従来の画像分割アルゴリズムは、細胞膜の境界線を予測することでニューロンを切り分けていた。だが、ノイズの多い電子顕微鏡画像では微小なエラーが蓄積しやすい。細胞膜の境界線は染色ムラによって曖昧になることが多く、画像内のミトコンドリアやシナプス小胞の輪郭を細胞境界と誤認することも珍しくない。わずかな切れ目が別のニューロンとの誤結合を生む原因となり、何千回も枝分かれする軸索のどこか一箇所で間違えれば、回路全体が破綻する。

これに対しFFNは、画像全体を一括で分割するのではなく、特定の一点(シード)から始まり、同じ細胞に属する領域を塗りつぶすようにネットワークを広げていく。この手法により、複雑な形状の樹状突起を高い精度で追跡できるようになる。人間の視覚が迷路の線を追いかけるプロセスに近く、局所的な形状の文脈を保ったまま再構築を進める。

2020年の段階で、チームはメスのショウジョウバエの半脳マップを公開していた。当時の記録は2万5000個のニューロンと2100万のシナプス結合だった。それから数年が経ち、最新の再構築システム「PATHFINDER」では合成ニューロンを学習データに組み込むことで、再構築の速度と精度を向上させた。AIが下書きを作り、HHMI Janelia Research Campusの専門家チームが最終的な確認とエラー修正を行う。この人間と機械の協働プロセスによって、かつて何十年もかかると見積もられていた規模の脳地図を、現実的な予算と期間で作成できるようになった。

脳から腹髄まで途切れない1億2500万のシナプスマップ

2026年9月に学術誌『Cell』で発表された研究において、HHMI Janeliaやケンブリッジ大学などの国際チームは、オスのショウジョウバエの全中枢神経系のコネクトームを公開した(DOI: 10.1016/j.cell.2026.08.015)。今回は脳だけでなく、脊髄に相当する腹髄を含み、約16万6000個のニューロンと1億2500万のシナプス結合を網羅している。単一の個体のニューロン数において、これは過去最大規模の完成した脳地図である。

今回の研究が示した重要な進展は、脳と腹髄がつながったままマッピングされた点にある。これまでのコネクトーム研究は、特定の領域ごとに切り出された回路図にとどまっていた。しかし今回のマップでは、脳が外界の視覚や嗅覚の刺激を捉え、その情報が首を通って腹髄へと降り、脚や羽を動かす運動出力へと変換されるまでの経路を途切れることなく追跡できる。

ショウジョウバエの脳内には、キノコ体と呼ばれる記憶と学習の中枢と、中心複合体と呼ばれる空間ナビゲーションの中枢が存在する。これまでの研究では、それぞれの機能領域の内部配線は断片的に明らかになっていた。しかし今回の全中枢神経マップにより、キノコ体で形成された匂いの記憶が中心複合体へと伝わり、方向感覚と統合されて匂いの発生源へ向かうという具体的な運動指令に変わるまでの物理的な経路が示された。

昆虫の腹髄は、単なる脳からの命令の通り道ではない。歩行の反射や羽ばたきのタイミングなど、複雑な運動パターンの生成を自律的に担う中枢である。感覚の入力から行動の出力までの一連の流れを、ひとつの連続した回路として分析できるようになった意味は大きい。あるニューロンが発火したとき、それが最終的にどの筋肉の動きにつながるのかを推測ではなく事実として確認できる。途中で別の個体のデータにつなぎ合わせることなく、同一の回路図上で最後まで追うことができる。

ショウジョウバエの再構築規模の比較横棒グラフ。カテゴリ 2 件、系列: シナプス数(単位: 百万)メス半脳 (2020年)メス半脳 (2020年)メス半脳 (2020年) — シナプス数: 21百万21オス全中枢神経 (今回)オス全中枢神経 (…オス全中枢神経 (今回) — シナプス数: 125百万125単位: 百万
データを表で見る
シナプス数 (百万)
メス半脳 (2020年)21
オス全中枢神経 (今回)125
ショウジョウバエの再構築規模の比較再構築されたシナプス結合数の推移出典: 各研究論文

上のグラフが示す通り、対象範囲が半脳から全中枢神経系へ広がったことで、扱うシナプス数は約6倍に増加した。

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オスとメスの回路比較が解き明かす、行動の性差を生むスイッチ

オスの中枢神経系の全容が明らかになったことで、先行して完成していたメスのコネクトームとの網羅的な比較が可能になった。オスは羽を震わせて複雑な求愛の歌を歌い、特定の交尾行動を示すが、メスは産卵など別の行動を優先する。同じゲノムを持つ種でありながら、なぜこれほど行動が異なるのか。

研究チームはシナプス解像度で雌雄の回路を比較し、これら性特異的な行動を引き起こす生物学的な基盤を調査している。感覚器官や運動をつかさどる末梢神経系の構造は雌雄でほとんど同じだ。しかし、高次の中枢神経系においてはオス特有の接続が集中していることがわかってきた。特定のニューロン群の存在や接続パターンの違いが、回路全体の情報の流れをオス型またはメス型へと切り替えるスイッチになっている。

具体的には「P1ニューロン」と呼ばれるオスの求愛行動を起動する指令ニューロンの働きが解明された。P1ニューロンは、触角が捉えたメスのフェロモンの匂いや、視覚からの対象の動きといった複数の感覚情報を統合し、腹髄にある求愛の歌を歌うための運動回路へ信号を送る。メスの脳内では同等のニューロン群が異なる配線を描いており、求愛行動を引き起こさないよう強い抑制を受けている。

段階 対象と成果 神経系の構成規模 性別による接続の特徴
メスの半脳マップ(2020年) メスショウジョウバエの脳の半分をマッピング 2万5000ニューロン、2100万シナプス 産卵や受容行動に関連する配線が中心
オス全中枢神経系(今回) オスショウジョウバエの脳と腹髄を完全マッピング 16万6000ニューロン、1億2500万シナプス P1ニューロンなど求愛を引き起こす特有の配線が存在
人間の脳(参考) 現在の技術では完全なマッピングは困難 860億ニューロン 膨大なニューロン数によりシナプスレベルの全網羅は未達

表にまとめた通り、オスとメスで神経系の全体規模に大きな違いはないが、中枢における局所的な配線が行動の差を生み出している。さらに両性で共通する脳領域において、個体間でどのようなばらつきがあるかを確認する研究も始まっている。同じ回路を持ちながら行動に個体差が生まれる原因を、神経の接続パターンの揺らぎから説明できる可能性が開かれた。

小脳類似回路をマッピング、エレファントノーズフィッシュが示す学習のモデル

コネクトームの解明は、無脊椎動物からより人間に近い脊椎動物へと対象を広げつつある。脊椎動物は進化的に人間に近く、その神経系の構造を解明することは、人間の脳を理解する上でより直接的な手がかりとなる。

コロンビア大学が主導し、学術誌『Nature』で発表されたエレファントノーズフィッシュ(Gnathonemus petersii)の研究では、信号処理を担う後脳の小脳類似回路がマッピングされた(DOI: 10.1038/s41586-026-10690-6)。自ら微弱な電気を発して周囲を探知するこの魚は、自己の発した信号と外部からの刺激を区別する必要がある。自分の運動による感覚の変化を予測し、実際の感覚入力から差し引くことで、獲物や外敵のわずかな電気信号を際立たせている。これをネガティブ・イメージのキャンセルと呼ぶ。

研究チームは、この感覚予測を担うシナプスの配線を電子顕微鏡で再構築した。特定のニューロン群が過去の電気パルスのタイミングを記憶し、次の入力が来るタイミングに合わせて抑制信号を送るメカニズムが、回路の物理的な接続として確認された。単なる静的な配線図の構築にとどまらず、神経活動の記録データをコネクトームと組み合わせることで、脊椎動物の脳における感覚予測と学習のメカニズムをモデル化することに成功した。

顆粒細胞と呼ばれる膨大な数の神経細胞の集団が、感覚情報の文脈を細かく分類し、それをプルキンエ細胞と呼ばれる大型の出力細胞に伝える。この接続の重みが経験によって変化することが、学習の物理的な実態である。コネクトームの完成によって、この重み付けを支える個々のシナプスの大きさと数が測定可能になった。

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ゼブラフィッシュからマウスへ、配線図がもたらす次の判断材料

エレファントノーズフィッシュのような特殊な能力を持つ種だけでなく、より広範なモデル生物でも研究が進む。ハーバード大学との共同研究では、透明な体を持つゼブラフィッシュの幼生を用い、神経構造と分子タイプを網羅した脊椎動物初の全脳データの構築が進んでいる。ゼブラフィッシュは生きたまま神経活動を光学的に観察できるため、構造と機能を直接結びつける適したモデル生物である。

さらに哺乳類であるマウスの脳では、より野心的なプロジェクトが進展している。MICrONSプロジェクト(Machine Intelligence from Cortical Networks)などの取り組みでは、マウスの視覚皮質1立方ミリメートルから約10万個のニューロンと10億以上のシナプスをマッピングしている。マウスの脳はショウジョウバエの何千倍もの規模があり、完全なマッピングへの道のりは長い。しかし、AIの画像処理技術の向上と電子顕微鏡のスループットの改善により、データの取得と解析の速度は年々上がっている。

ショウジョウバエのオス全中枢神経コネクトームは、視覚や味覚、社会的行動をつかさどる神経基盤を紐解く重要な足がかりとなる。今後はマウスの脳の一部やゼブラフィッシュの脳地図へとプロジェクトが移行する。遺伝的変異が回路の配線をどう変え、学習や行動にどのような影響を与えるのか。この小さな神経系で解明された原則が、アルツハイマー病や統合失調症など、人間の複雑な神経疾患の根底にあるメカニズムにどこまで適用できるのかが、次に問われることになる。