フェイクニュース、陰謀論、SNSでのデマ拡散。これらは現代のネット社会が生み出した「人間特有の病理」であると、多くの人が信じているだろう。しかし、その認識は根本から覆されつつある。
2025年12月、英国王立協会が発行する権威ある学術誌『Journal of the Royal Society Interface』に掲載された、コーネル大学の研究チームによる画期的なレビュー論文は、科学界に新たな視座をもたらした。その結論は衝撃的だ。「誤情報は、バクテリアから鳥類、そして人間の免疫細胞に至るまで、あらゆる生物学的システムのコミュニケーションに内在する、不可避かつ根本的な特性である」というのである。
誤情報は「バグ」ではなく「仕様」である
これまで生物学や社会科学の分野では、誤った情報の拡散は、システムが正常に機能していない「故障」や「病気」のような状態(パソロジー)として扱われることが多かった。しかし、コーネル大学のLing-Wei Kong氏、Andrew M. Hein氏らによる研究チームは、数十年分の実証研究と理論モデルを統合し、全く異なる結論を導き出した。
彼らは、生物学的コミュニケーションにおいて、誤情報の生成と伝播は「正常な機能の一部」であり、避けることのできない「生物学的現実(Biological Reality)」であると断定したのだ。
生物学的コミュニケーションのジレンマ
生物が他者(同種または異種)から情報を得ようとする時、そこには常にトレードオフが存在する。自分で試行錯誤して環境を学ぶには、時間と危険なリスク(捕食される、毒を食べる等)が伴う。他者の行動やシグナルを真似れば、そのコストをショートカットできる。これが「社会的情報」の利点だ。
しかし、このショートカットには致命的な弱点がある。発信者が嘘をついている可能性、あるいは発信者自身が間違っている可能性、そして伝達途中でノイズが混じる可能性だ。研究チームは、この不確実性こそが生物システムの本質であり、誤情報はその必然的な副産物であると論じている。
自然界に遍在する「嘘」と「誤解」の事例
研究チームは、免疫系、細胞集団、動物の群れなど、多岐にわたる生物学的階層における誤情報の事例を体系化した。ここではその代表的なメカニズムを紹介しよう。
鳥類:シジュウカラの「狼少年」戦略
身近な野鳥であるシジュウカラ(Parus major)や、アフリカのオウチュウ(Fork-tailed drongo)などの鳥類において、意図的な欺瞞(デマ)が観察されている。
捕食者がいないにもかかわらず、特定の個体が「タカが来た!」という警戒音(アラームコール)を発することがあるのだ。これを聞いた周囲の鳥たちはパニックになり、餌を放り出して逃げ出す。嘘をついた個体は、ライバルたちが去った安全な場所で、残された餌を独占することができる。
これは古典的な「私利私欲のためのディスインフォメーション(意図的な偽情報)」の例である。しかし重要なのは、騙される側も「警戒音を無視して食われるリスク」より「騙されて餌を失うコスト」の方が低いため、進化的にこの誤情報への反応が維持され続けているという点だ。
バクテリア:化学シグナルのハッキング
誤情報は脳を持つ動物だけの専売特許ではない。単細胞生物であるバクテリアの世界でも、高度な情報戦が繰り広げられている。
多くのバクテリアは「クオラムセンシング(Quorum Sensing)」と呼ばれる仕組みを持つ。これは化学物質を放出し、その濃度によって周囲の仲間の密度を知り、集団行動(毒素の放出や発光など)を制御するシステムだ。
しかし、サルモネラ菌(Salmonella typhimurium)や大腸菌(Escherichia coli)の一部は、競合する他のバクテリアが使用するシグナル分子を取り込み、環境中の濃度を変化させてしまう。これにより、競合相手は「まだ仲間が少ない」あるいは「過密だ」と誤認させられ、適切なタイミングでの集団行動を阻害される。これはまさに、通信回線をハッキングして敵を混乱させる電子戦の生物学的バージョンと言える。
免疫系:身体の中で起こる「パンデミック」
さらに驚くべきは、私たち自身の身体の中でも誤情報のカスケードが起きているという指摘だ。
哺乳類の免疫システムは、侵入者を検知するとサイトカインという伝達物質を放出し、攻撃部隊(T細胞など)を招集する。しかし、このシステムが誤ったシグナル(誤情報)によって暴走することがある。本来攻撃すべきでない自己の組織を「敵」と誤認し、大規模な攻撃命令が拡散されてしまうのだ。これは自己免疫疾患のメカニズムそのものであり、研究チームはこれを「体内における大規模な誤情報カスケード」として再定義している。
なぜ誤情報は生まれるのか? 数理モデルが示す3つのメカニズム
本研究の白眉は、誤情報が発生するプロセスを「ベイズ推定」や「情報理論(KL情報量)」を用いた数理モデルとして定式化した点にある。研究チームは、誤情報が生まれる主要な要因として以下の3つを挙げている。
① コンテキストの欠落
情報が伝達される際、その情報が発せられた「文脈」が抜け落ちることがある。
例えば、魚の群れにおいて、一匹が「捕食者を見て」逃げ出したとする。その動きを見た隣の魚も反応して逃げる。さらにその隣も逃げる。しかし、連鎖の後半にいる魚にとって、最初の魚が「何を見て逃げたのか(本当に捕食者だったのか、単なる影だったのか)」という文脈は失われている。結果として、脅威が存在しないのにも関わらず、群れ全体がパニックに陥る現象が発生する。
② メッセージの変異
子供の遊びである「伝言ゲーム」と同様の現象だ。情報が個体から個体へと連続的に伝達される過程で、ノイズの混入や解釈のズレが蓄積し、最終的なメッセージが現実とは全く異なるものに変質してしまう。
③ 集団的歪曲とエコーチェンバー
最も興味深いのがこのメカニズムだ。集団内の個体が互いに影響を与え合うネットワークにおいては、「環境の真の状態」とは無関係に、集団が特定の信念に固執してしまう現象が起こる。物理学で「ヒステリシス(履歴現象)」や「双安定性」と呼ばれる状態だ。
研究論文では、ベルベットモンキー(Chlorocebus pygerythrus)の実験が引用されている。ある集団に対し、「ピンク色のコーンは苦く、青色のコーンは美味しい」と学習させると、数ヶ月後にピンク色のコーンから苦味を取り除いても、その集団はピンク色のコーンを避け、青色を食べ続けた。さらに、新しく群れに入った個体も周囲を真似てピンク色を避けるようになった。
環境は変化した(ピンクも美味しくなった)のにも関わらず、集団内の社会的学習が「誤った信念」を維持・強化し続けてしまう。これは人間社会における「エコーチェンバー現象」や、企業の「時代遅れの慣習」がなぜ消えないのかを生物学的に説明する強力なモデルとなる。
「解読関数」の不一致:誤解の根本原因
研究チームは、情報の受け手がメッセージを解釈する際のルールを「解読関数(Decoding Function)」と定義した。
生物は、受け取ったメッセージ(例:アラームコール)が、実際の環境(例:捕食者がいる確率)とどう対応しているかを完全には知り得ない。そのため、経験則(ヒューリスティクス)に基づいて解読関数を作り上げる。
- 真実: アラームコールは60%の確率で本当の脅威を意味する。
- 受け手の解釈(解読関数): アラームコールが聞こえたら100%危険だ。
この「ズレ」こそが誤情報の温床となる。送信者が意図的に嘘をつかなくとも、受信者が過剰に反応したり、逆に無視したりすることで、情報は「誤情報」へと変貌する。研究チームは、この解読関数の不完全さこそが、生物学的誤情報の避けられない原因であると論じている。
誤情報を利用した新たな医療へ
この「誤情報の自然史」という新たな視点は、単なる知的好奇心を満たすだけでなく、実用的な応用も期待されている。特に医療分野への示唆は大きい。
従来の抗菌薬はバクテリアを「殺す」ことを目的としていたが、これは耐性菌の出現を招く。しかし、バクテリアのコミュニケーション(クオラムセンシング)に介入し、「偽のシグナル」を送って彼らを混乱させる(例えば、まだ攻撃する人数が揃っていないと誤認させる)ことができれば、菌を殺さずに無力化できる可能性がある。
また、自己免疫疾患の治療においても、免疫細胞間の誤情報伝達を遮断、あるいは修正するような「情報の流れへの介入」という新たなアプローチが見えてくる。
誤情報と共に生きる生命
コーネル大学の研究は、誤情報がインターネット時代の特異点ではなく、生命の歴史と共に常に存在してきた普遍的な現象であることを明らかにした。
バクテリアから人間に至るまで、私たちは不確実な情報の中で意思決定を行い、時に騙され、時に集団で間違った方向へ走ってしまうリスクを背負っている。しかし、そのリスクは「社会的につながり、他者から学ぶ」という、生命が獲得した最強の生存戦略の対価(コスト)なのだ。
私たちが直面しているフェイクニュースやデマの問題も、この壮大な生物学的文脈の中に位置付けることで、道徳的な批判を超えた、より冷静でシステム的な解決策が見えてくるかもしれない。誤情報は排除すべき「悪」であるだけでなく、理解し、制御すべき「自然現象」なのである。
論文
- Journal of the Royal Society Interface: A brief natural history of misinformation
参考文献



