宇宙空間におけるハードウェアは、極端な温度変化や激しい振動に加え、強力な宇宙放射線が飛び交う過酷な環境での運用を強いられる。太陽風や宇宙線に由来する高エネルギー粒子が半導体に衝突すると、メモリのビット反転(シングルイベントアップセット)を引き起こし、致命的なエラーやシステムのクラッシュを誘発する。このため、地球上で広く利用されている最先端の商用プロセッサをそのまま宇宙空間のミッションへ転用することは事実上不可能となっている。

こうした背景から、現在NASAが運用している火星探査車「Perseverance」やジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡をはじめとする多くのミッションでは、2001年にリリースされた「RAD750」プロセッサが依然として現役で稼働している。PowerPC 750アーキテクチャをベースにしたRAD750は、高い信頼性と堅牢性を誇る一方で、その動作クロックは200MHz、処理能力は最大266 MIPSにとどまる。この計算性能は1990年代後半に登場した初代iMacと同等クラスであり、現代の一般的なスマート家電やIoTデバイスに組み込まれている安価なマイクロコントローラにすら劣る水準である。しかし、ミッションの喪失という許容不可能なリスクを回避し、確実な動作を最優先しなければならない宇宙開発の現場において、NASAは長年にわたりこの枯れたハードウェアに依存するしかなかった。

結果として、探査機上で実行可能なデータ処理には極めて厳しい制限が設けられている。火星探査車が未知の地形を走行する際や、複雑な着陸シーケンスを実行する際には、各種センサーが取得した情報を地球上のスーパーコンピュータに送信し、解析結果を待ってから次の動作を決定するという遠隔プロセスを踏まざるを得ない。しかし、地球から遠く離れた深宇宙ミッションにおいてはこの通信遅延が致命的となる。例えば、海王星との通信には片道で4時間以上、往復で8時間もの時間を要するため、探査機が自らリアルタイムでの危機回避や自律的な判断を行うことは物理的に不可能となっている。この極端な計算リソースの欠如が、次世代の高度な宇宙探査における最大のボトルネックを形成していた。

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HPSCがもたらすアーキテクチャの刷新とRISC-Vの採用

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NASAの次世代プロセッサは、深宇宙での運用に耐えうるよう設計されており、現在の宇宙機技術と比較して計算速度を飛躍的に向上させている。(Credit: NASA/JPL-Caltech)

この長年の課題を抜本的に解決するため、NASAはMicrochip Technologyと5,000万ドルの契約を結び、次世代の宇宙用プロセッサ「High Performance Spaceflight Computing (HPSC)」の開発を推進している。2024年にクリティカルデザインレビューを通過し、設計の最終段階であるテープアウトを完了したこの新プロセッサは、2026年2月からNASAのジェット推進研究所(JPL)において実証テストが開始された。

初期のテスト結果は事前予想を大幅に上回るものだった。当初の設計要件では現行の宇宙用プロセッサの100倍の性能向上が目標とされていたが、実際の稼働テストでは500倍という圧倒的なパフォーマンスを記録した。テスト開始時に技術チームが「Hello Universe」という件名のメールをHPSC経由で送信したことは、初期のコンピューター開発における歴史的瞬間のオマージュである。

HPSCの最大の特徴は、システム・オン・チップ(SoC)設計の採用である。手のひらに収まるコンパクトなサイズのチップ内に、マルチコアのCPU、大容量メモリ、高度なネットワークシステム、I/Oインターフェース、さらに演算アクセラレータが統合されている。命令セットアーキテクチャにはオープンスタンダードの64-bit RISC-Vを採用した。ここで一般市場で普及しているARMやx86といったアーキテクチャではなくRISC-Vが選定されたことには、極めて重要な技術的・戦略的意義がある。特定のベンダーにライセンスを依存しないオープンな命令セットの採用は、将来的なカスタマイズの自由度を確保し、長期的なサポートを確実にする。宇宙探査機は設計から打ち上げ、運用終了までに数十年を要することが珍しくなく、特定の企業のビジネス判断によるアーキテクチャの廃止やライセンス変更のリスクを回避することは、持続可能なハードウェアエコシステムを構築する上で不可欠な要素である。

また、HPSCはリアルタイムデータ処理を支える「Time Sensitive Networking (TSN)」を標準でサポートしており、各種センサーからの大容量のストリーミングデータをネットワーク内で遅延なく処理する能力を備えている。さらに、エネルギー効率に優れたスケーラブルな設計を取り入れている。ミッションの状況に応じて不要な機能を動的にシャットダウンすることで、限られた電力を極限まで節約できる。NASAは過去に、太陽系外へ到達した探査機「ボイジャー1号」の電力低下に対処するため、地球からの遠隔操作で一部の計器をオフにする緊急運用を行ってきた。HPSCでは、このような高度な電力管理をハードウェアレベルで、かつ自律的に実行することが可能になる。共同開発パートナーであるMicrochip Technology社は、長年にわたり宇宙・防衛産業向けの高信頼性マイコンや耐放射線デバイスを供給してきた実績を持ち、今回のSoC設計においてもその豊富な知見が完全に投入されている。

深宇宙探査におけるエッジAIの実現

HPSCがもたらす圧倒的な計算能力は、探査機に『完全な自律性』をもたらす。

現在JPLで実施されているテストでは、放射線照射、熱サイクル試験、物理的な衝撃評価に加えて、過去のNASAミッションから抽出した「高精細な惑星着陸シナリオ」のシミュレーションが行われている。惑星への着陸は「恐怖の数分間」と呼ばれるほどミッションの成否を分ける極度に複雑でタイムクリティカルなプロセスである。従来は大量の着陸センサーデータをリアルタイム処理するために、電力を大量に消費する専用のハードウェアユニットを別途用意する必要があった。HPSCはこれらの膨大なデータストリームを瞬時に処理する能力を持ち、複雑な着陸プロセスを単一の汎用チップで安全かつ確実に実行できる可能性を示している。

計算リソースの劇的な増加により、高度な人工知能(AI)モデルを探査機上で直接稼働させるエッジAI処理が現実のものとなる。探査機は地球からの指示を待つことなく、搭載されたカメラやLiDARなどのセンサーデータを自ら解析し、周囲の環境や地形を認識して最適な走行ルートをリアルタイムで判断する。予期せぬ障害物や天候の急変を瞬時に察知し、自律的な回避行動をとる。これにより、火星やさらに遠方の天体において、探査車は人間のオペレーターによる介入なしで未知の領域を探索し、科学的価値の高いサンプルをAIが自律的に選択して分析することが可能になる。

さらに、探査機に搭載された高解像度カメラが捉えた膨大な画像データ群の中から、科学的に価値のある有意な画像のみをAIが選別・圧縮して地球へ送信することで、極めて限られた深宇宙通信の帯域を最大限に活用できる。予想外の天体現象や短時間で消失する突発的なイベントに遭遇した際にも、地球からの指示を待つことなく探査機自身が観測対象を変更し、貴重なデータを逃さず取得する柔軟な判断が実現する。

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地上産業への波及効果と将来展望

HPSCは、人工衛星、惑星探査車、さらに有人月面・火星ミッションを含め、2040年代以降のNASAにおける標準的なコンピューティング基盤として位置づけられている。深宇宙や静止軌道向けに徹底的に強化された「放射線耐性ハード設計(Radiation-hardened)」モデルと、低軌道衛星向けの「放射線耐性(Radiation-tolerant)」モデルの2種類が開発されており、急速に拡大する商業宇宙産業の多様なニーズにも対応する設計となっている。

特筆すべきは、この宇宙用プロセッサの技術が地球上の産業へも還元される見込みである点だ。すでに防衛・航空宇宙産業の早期アクセスパートナーに対してサンプルの提供が開始されている。Microchipは、高度なフォールトトレランス(障害許容性)と強力なエッジAI処理能力というHPSCの特性を活かし、航空産業や自動運転車両向けの地上アプリケーションにこの技術を転用する計画を進めている。

かつてアポロ計画や初期の宇宙開発から、カメラ付き携帯電話、浄水システム、LED照明などの技術が生まれ、私たちの日常生活に普及したように、HPSCプロジェクトから派生する高信頼性の半導体技術は、スマートグリッドや高度医療機器、ドローンの自律制御など、極めて高い安全性が要求される地上インフラの進化を強力に推進する。四半世紀にわたり宇宙探査を支えてきたRAD750の後継として登場したHPSCは、深宇宙探査の完全な自律化を実現すると同時に、次世代のミッションクリティカルなコンピューティングの業界標準を根本から塗り替える存在となる。