2025年10月7日、ストックホルム。スウェーデン王立科学アカデミーは、同年のノーベル物理学賞を、John Clarke氏、Michel H. Devoret氏、John M. Martinis氏の3名に授与すると発表した。授賞理由は「電気回路における巨視的(マクロスコピック)量子トンネル効果とエネルギー量子化の発見」。この一見難解な言葉の裏には、現代社会の根幹をなすデジタル技術、そして未来のコンピューティングを担う量子コンピュータのまさに「原点」となった、40年前の革命的な発見が隠されている。

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物理学の教科書を書き換えた、3人の開拓者たち

栄誉に輝いたのは、いずれも現代の量子物理学を牽引してきた巨人たちである。

  • John Clarke: 英国ケンブリッジ生まれ。カリフォルニア大学バークレー校教授。今回の受賞の報に「人生最大の驚きだ。我々の研究がノーベル賞の対象になるとは、当時は全く想像していなかった」と、40年の歳月を経た評価に率直な驚きを語った。
  • Michel H. Devoret: フランス・パリ生まれ。イェール大学およびカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授。現在はGoogleの量子AIチームで量子ハードウェアのチーフサイエンティストも務める。
  • John M. Martinis: カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授。かつてGoogleの量子AIチームでハードウェア開発を率い、2019年には「量子超越性」の実証で世界を驚かせた中心人物でもある。

彼らが成し遂げたのは、原子や電子といった極微の世界の法則である「量子力学」が、我々の目に見え、手で触れることができる「マクロな世界」の物体にも適用できることを実験的に証明したことだ。それは、長らく物理学の世界を隔てていた「ミクロ」と「マクロ」の壁を打ち破る、歴史的な一撃であった。

物理学の常識を覆した「手で持てる量子」とは?

彼らの研究を理解するには、まず量子力学の奇妙な世界観に少しだけ足を踏み入れる必要がある。

量子世界の奇妙なルール:「トンネル効果」と「量子化」

私たちの日常感覚では、壁に向かってボールを投げれば、必ず跳ね返ってくる。壁を通り抜けることなどあり得ない。しかし、電子のようなミクロの粒子は、時にエネルギー的に越えられないはずの「壁」を、あたかもトンネルを掘るかのようにすり抜けてしまうことがある。これが「量子トンネル効果」と呼ばれる現象だ。

また、坂道を転がるボールは連続的にエネルギーを失っていくが、量子の世界ではエネルギーの状態は連続的ではない。まるで階段のように、決まった高さ(エネルギー準位)しか取ることができない。エネルギーの吸収や放出も、その階段を一段ずつ上り下りするように、飛び飛びの塊(量子)として行われる。これを「エネルギーの量子化」と呼ぶ。

これらの現象は、20世紀初頭から理論的には知られていたが、あくまで原子核や電子といった、想像を絶するほど小さな世界での出来事だと考えられてきた。ボールや自動車、あるいは人間のようなマクロな物体が、壁をすり抜けたり、飛び飛びのエネルギー状態しか取れなかったりすることはない。では、その境界はどこにあるのか?この長年の謎に、Clarke、Devoret、Martinisの3氏は真っ向から挑んだのである。

実験の舞台裏:超伝導回路と魔法の部品「ジョセフソン接合」

彼らが実験の舞台に選んだのは、極低温で電気抵抗がゼロになる「超伝導体」で作られた電気回路だった。そして、その核心部に設置されたのが「ジョセフソン接合」と呼ばれる、極めて薄い絶縁体の膜を2枚の超伝導体で挟んだ構造を持つ素子だ。

超伝導体の中では、電子は「クーパー対」と呼ばれるペアを組み、一つの巨大な波のように振る舞う。この回路全体に存在する数十億個ものクーパー対が、まるで一個の巨大な量子粒子であるかのように、統一された動きを見せる。

1980年代半ば、カリフォルニア大学バークレー校の研究室で、3人はこのジョセフソン接合を含む回路を極低温まで冷却し、細心の注意を払って外部からのノイズを遮断した。そして、微弱な電流を流し、回路の振る舞いを精密に観測したのだ。

歴史的瞬間の目撃:マクロの世界で捉えられた量子現象

観測された現象は、衝撃的だった。

  1. マクロな量子トンネル効果: 通常、回路に電流を流せば電圧が発生する。しかし彼らの回路は、電流を流しても電圧がゼロの状態に留まり続けた。ところが、観測を続けると、ある瞬間に、まるで何事もなかったかのように突然、有限の電圧が発生する。これは、回路全体を支配するクーパー対の巨大な波が、絶縁体というエネルギーの「壁」を量子的に「トンネル」したことで、電圧がゼロでない別の安定状態へと移行したことを示していた。数ミリ角の回路というマクロな物体が、壁をすり抜けたのだ。
  2. エネルギーの量子化: さらに彼らは、この回路に様々な周波数のマイクロ波を照射した。すると、特定の周波数のマイクロ波を当てた時だけ、トンネル現象が起こる確率が劇的に跳ね上がることを発見した。これは、回路が外部からエネルギーを吸収する際、まるで自動販売機が特定額の硬貨しか受け付けないように、決まった大きさのエネルギー(量子)しか受け付けないことを意味していた。回路全体のエネルギー準位が、ミクロの原子と同様に「量子化」されていることの揺るぎない証拠だった。

手で持てるサイズの電気回路が、単一の粒子のように量子トンネルし、そのエネルギーが量子化されている。この発見は、量子の奇妙な振る舞いがミクロの世界に限定されないことを証明し、物理学の世界に新たな扉を開いたのである。

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40年の時を経て、なぜ今?研究が持つ深遠な意義

1980年代の基礎研究が、なぜ2025年の今、最高の栄誉で称えられるのか。その答えは、現代の最先端テクノロジー、とりわけ「量子コンピュータ」の発展と分かちがたく結びついている。

量子コンピュータの「心臓部」を生み出した発見

現代のコンピュータが「0」か「1」のビットで情報を処理するのに対し、量子コンピュータは「0であり、かつ1でもある」という量子力学的な重ね合わせ状態を利用する「量子ビット(qubit)」を用いる。この量子ビットをいかにして作り、制御するかが、量子コンピュータ開発の最大の鍵となる。

そして、GoogleやIBM、Rigettiといった企業が開発を競う最有力な量子ビットこそ、Clarke氏らが実験で用いた「ジョセフソン接合」を利用した超伝導量子ビットなのだ。

彼らの実験で観測された、エネルギーが量子化された2つの状態(例えば、電圧ゼロの状態とトンネル後の状態)は、そのまま量子ビットの「0」と「1」に対応させることができる。マイクロ波を照射して状態を操作する手法も、現在の量子コンピュータで量子ビットを制御する基本的な技術そのものである。

つまり、彼らの研究は単に奇妙な物理現象を発見しただけでなく、量子情報を担うハードウェアの最も基本的な設計図を、意図せずして描き出していたのである。

「人工原子」という革命的なアイデア

この研究がもたらしたもう一つの重要な視点は、電気回路を「人工原子」として捉えるという革命的な発想だ。

天然の原子では、電子が特定のエネルギー準位を飛び移ることで光を吸収・放出する。Clarke氏らの回路も同様に、マイクロ波を吸収・放出して離散的なエネルギー準位間を遷移する。つまり、人間が設計し、製造したマクロな回路が、あたかも自然界に存在する一つの原子のように振る舞うことを示したのだ。

この「人工原子」という概念は、量子技術に計り知れない自由度をもたらした。原子の種類や特性は自然によって定められているが、人工原子であれば、そのエネルギー準位の間隔や外部との結合の強さなどを、人間が自由に設計・調整できる。この設計自由度の高さこそが、超伝導量子ビットが急速な進化を遂げ、大規模な量子プロセッサの構築を可能にした原動力なのである。

量子技術の未来を拓く:センシングから暗号まで

彼らの発見がもたらした恩恵は、量子コンピュータにとどまらない。

マクロな量子状態は、外部環境の極めて微細な変化に敏感に反応する。この性質を利用すれば、従来のセンサーでは到底検出不可能な、ごく微弱な磁場や温度変化を捉える「量子センサー」が実現できる。これは、医療診断(MRIの感度向上など)や環境モニタリング、さらには基礎物理学の研究に新たなツールを提供する。

また、量子状態は観測されると必ず変化するという原理は、盗聴不可能な通信を保証する「量子暗号」の基盤でもある。マクロな量子状態を安定して制御する技術は、こうした次世代の安全保障技術の発展にも不可欠だ。

基礎研究の揺るぎない価値と、未来への扉

今回の受賞は、好奇心に導かれた純粋な基礎研究が、数十年という時を経て、いかに社会を変革する技術の種となるかを改めて浮き彫りにした。受賞者の一人であるClarke氏が「当時はノーベル賞のことなど考えてもいなかった」と語ったように、彼らの探求の出発点は、ただ「量子の法則はどこまで通用するのか?」という根源的な問いにあったはずだ。

その純粋な知的好奇心が、物理学の常識を塗り替え、40年後の今、Googleの最新鋭の研究所で開発が進む量子チップの心臓部として脈打っている。Martinis氏とDevoret氏がGoogleの量子コンピュータ開発で中心的な役割を果たしてきた事実は、アカデミアでの基礎研究と産業界での技術開発が、いかに密接に結びついているかを象徴している。

2025年ノーベル物理学賞は、単に3人の科学者の功績を称えるだけではない。それは、一見すると私たちの生活とは無関係に見える地道な基礎研究こそが、未来を創造する最も強力なエンジンであるという、科学の揺るぎない真実を私たちに突きつけている。彼らが開いた「マクロな量子世界」への扉の先には、計算の限界を超え、新たな物質を設計し、宇宙の謎を解き明かす、まだ見ぬ未来が広がっているのだ。


Sources