次世代のコンピューティングやスピントロニクスを設計する上で、最大の障壁の一つは「いかにしてエネルギーをかけずに物質の状態を書き換えるか」という点にある。普段私たちが目にするシリコンや銅といった物質では、電子の振る舞いはある程度予測可能であり、その状態を切り替えるためには相応のエネルギー(強い電場や電流など)を外部から注ぎ込む必要がある。しかし、極低温の世界に現れる「量子物質」においては、電子同士が複雑に相互作用し、集団的な振る舞いを見せる。
沖縄科学技術大学院大学(OIST)と広島大学を中心とする研究チームは、二次元の層状量子物質である三テルル化セリウム()において、ごくわずかな磁場をかけるだけで、物質内の電子の空間パターン全体がストライプ状から市松模様状へと組み替わる現象を直接観察した。この研究成果は2026年7月23日、『Nature Communications』および『Physical Review B』の両誌に掲載された。
本研究が示したのは、物質内に潜む「フラストレーション」と呼ばれる状態を利用することで、極めて少ないエネルギーで電子の集団状態を制御できるという事実である。
量子物質における状態制御の歴史的背景
現代のコンピューターの基礎となる半導体技術や、電子のスピン(磁気)を利用するスピントロニクスでは、物質の状態を「0」と「1」に対応させて情報を記憶・演算する。この状態を切り替える(スイッチングする)ためには、物質が持つエネルギーの壁(ポテンシャル障壁)を越えなければならない。従来の手法では、この壁を越えるために強い電圧をかけたり、大電流を流してスピンの向きを反転させたりしてきた。しかし、この「力業」による制御は必然的に多大なジュール熱を発生させ、デバイスの微細化と省電力化の限界を招いている。
そこで数十年前から、凝縮系物理学の分野では「より低いエネルギーで物質全体の状態を相転移させることはできないか」という問いが追求されてきた。その有力な舞台の一つが、電子同士の反発力が無視できなくなる「強相関電子系」と呼ばれる量子物質のグループである。ここでは、一つの電子を動かすだけで周囲の電子が玉突き的に影響を受け、系全体が別の状態へと移行する。しかし、強相関電子系であっても、状態を安定して切り替えるには、不純物を大量に添加(ドーピング)したり、数万気圧という超高圧をかけたりと、やはり大きな外場が必要とされるのが一般的だった。今回のにおける発見は、この「切り替えコスト」を劇的に下げるための新しい経路を提示している。
二次元層状構造が生み出す役割分担と電子の「迷い」
という物質が特異な性質を持つ理由は、その結晶構造にある。は、グラフェンのように二次元のシートが積み重なった層状ファンデルワールス物質の一つである。内部では、テルル(Te)のみからなる伝導層と、テルルとセリウム(Ce)が混ざり合った層がサンドイッチ状に重なっている。
この構造により、電子の「役割分担」が明確になされている。テルル層にある電子は高速で動き回る「遍歴電子」として振る舞い、波のような電荷の濃淡パターン(電荷密度波:CDW)を形成する。一方で、セリウム層が持つ4f電子は特定の場所に留まる「局在電子」であり、スピンという量子的性質を通じて、それぞれが極小の固定された磁石の役割を果たす。
ここで鍵となるのが「フラストレーション」という概念である。物理学におけるフラストレーションとは、系内の複数の力が互いに拮抗し、どの状態に落ち着くべきか決定できない状態を指す。水やスピンアイスにおけるスピンの向きの拮抗が有名だが、の内部では、動き回る電子が形成しようとするパターンが、複数のほぼ同じエネルギーを持つ状態(低エネルギー状態)の間で揺れ動く「電子フラストレーション」を起こしている。
広島大学の藤澤唯太助教は、この状態を「底がほぼ平らで、いくつもの浅い谷が隣り合っている地形」に例える。ボール(電子の状態)がどの谷に転がり込むかは些細なきっかけで決まる。特定の配列が圧倒的な優位性を持たないため、系は極めて不安定な均衡状態に置かれているのだ。
わずかな磁場によるストライプから市松模様への転移
研究チームは、走査型トンネル顕微鏡(STM)を用いて、原子レベルの解像度で表面の電子配列をマッピングした。試料を1.5 Kという絶対零度に近い温度まで冷却したところ、電子の密度が高い部分と低い部分が交互に並び、明確な「ストライプ状」のパターンが形成されていた。
続いて、この系に対してわずかな磁場を印加した。すると、ストライプ状の電子配列は崩れ、整然とした「市松模様(チェッカーボード)状」のパターンへと移行した。前述の通り、物質の電子状態の空間対称性を全体的に書き換えるには、通常であれば系のエネルギーバランスを根本から変える強い操作が要求される。しかしにおいては、電子フラストレーションによって複数の状態が拮抗しているため、局在スピン(小さな磁石)を磁場によってわずかに傾けるという最小限の介入だけで、系全体の電子配置を別の谷へと移動させることができた。これは、磁気的な構造と電気的な構造が互いに強く結びつき、影響を及ぼし合っていることを示している。
二重q磁気秩序:中性子散乱が捉えた舞台裏
ストライプ電子状態の背後で、磁気的にはどのような秩序が形成されているのか。これを解き明かしたのが、東京大学やOISTなどの研究者らによる中性子散乱を用いた相補的な研究である。
一般に、反強磁性体では隣り合うスピンが互いに逆を向く単純なパターンをとる。しかし、$1.5 \text{ K}$付近の極低温での中性子回折実験では、$\text{CeTe}_3$の磁気構造がはるかに複雑であることが確認された。
測定の結果、磁気モーメントは主にc軸方向を向きつつ、単一の周期ではなく、2つの波数ベクトルが重なり合った「二重q磁気秩序」を形成していた。観察されたブラッグピークは という結晶格子の周期とずれた非整合な位置に現れ、磁気秩序が複雑な波を打っていることを示していた。さらに、この磁気構造の周期は、STMで観察されたストライプ状の電子状態の周期と比例関係にあった。
東京大学の大熊隆太郎助教らのチームは、この特異な磁気秩序が局在スピン同士の相互作用だけで決まっているのではなく、テルル層の遍歴電子が引き起こす電荷密度波(CDW)の不安定性と深く結合することで安定化していると指摘する。セリウムの4f電子と伝導電子が混ざり合う「c-f混成」が強まることで強い量子揺らぎが生じ、磁気モーメントが極めて複雑な空間変調を引き起こしている。
スピントロニクスと層状ファンデルワールス物質の展望
長年、物性物理学においてフラストレーションは「秩序の形成を阻む厄介な性質」として、あるいは「スピン液体のような奇妙な状態を探すための舞台」として扱われてきた。しかし今回の成果は、フラストレーションを「わずかな入力で状態をスイッチするための増幅器」として積極的に利用できることを示している。
近年、物性物理学では二次元ファンデルワールス物質の積層角度をわずかにずらして重ねる(モアレ超格子やツイスト・バイレイヤー・グラフェンなど)ことで、フラットバンドや人工的なフラストレーションを作り出す研究が活発化している。は自然界が作り出した層状物質でありながら、局在スピンと遍歴電子が織りなすフラストレーションを内包しており、こうした物質設計の理想的なテストベッドとなる。藤澤助教が述べるように、相反する力が拮抗する系を人工的に設計し、そこに磁性を組み合わせるアプローチは、極低消費電力で動作する新たな量子デバイスやメモリ素子の構築へつながる可能性がある。
技術的な応用に向けては未解決の問いが残されている。最大の壁は温度である。本研究で確認された複雑な磁気秩序と電子状態の結合は、$1.5 \text{ K}$という極端な低温環境でのみ安定する。フラストレーションによる低エネルギー制御という原理を、より高い温度域、さらには室温付近で実現できるような物質系が存在するのか。そして、積層構造を人工的に制御することで、意図した通りの拮抗状態を作り出せるのか。量子物質の振る舞いを精密に操るための探求は、まだ始まったばかりである。
