2025年、電気自動車(EV)と自動運転技術の進化は新たなフェーズに突入した。しかし、どれほど高度なコンピュータを搭載しても、タイヤが路面を捉える物理的な限界を超えれば、車両は制御不能に陥る。「滑る」という現象は、ドライバーにとってもAIにとっても、依然として最大の脅威である。
韓国の大邱慶北科学技術院(DGIST)ロボット工学・機械工学科のカン・ヒョン・ナム(Kanghyun Nam)教授率いる研究チームは、この長年の課題に対し、物理法則の信頼性と人工知能(AI)の柔軟性を融合させた画期的な技術解を提示した。上海交通大学および東京大学との国際共同研究によって開発されたこの「フィジカルAI(」技術は、走行中のEVの状態を高精度かつリアルタイムで推定し、車両制御の安定性を劇的に向上させる可能性を秘めている。
不可視の脅威「横滑り角」という難問
自動車が安全に走行するためには、車両自身が「今、自分がどのような状態にあるか」を正確に把握していなければならない。その中で最も重要、かつ測定が困難なパラメータの一つが「横滑り角」である。
直感と現実の乖離
横滑り角とは、車両が向いている方向と、実際に進行している方向との間の角度差を指す。乾いたアスファルトを直進しているときはこの差はほぼゼロだが、急カーブや凍結した路面、濡れたマンホールの上などを通過する際、タイヤはグリップを失い、車体は横方向へと滑り出す。
ドライバーが「滑った」と感じた瞬間、物理的にはすでに大きな横滑り角が発生しており、制御を取り戻すのが手遅れになるケースも多い。自動運転システムにおいても同様で、この値を正確に知ることは、車両がスピンアウトするのを防ぐための生命線となる。
既存技術の限界
問題は、この横滑り角を直接計測できるセンサーが、一般市販車に搭載するにはあまりに高価であるか、あるいは技術的に搭載困難である点だ。そのため、自動車メーカーはこれまで、ハンドル角や車速などの入手可能なデータから、複雑な物理モデル(数式)を使って間接的に値を「推定」する方法に頼ってきた。
しかし、従来の物理モデルには限界がある。タイヤのゴムが変形する非線形な挙動や、刻一刻と変化する路面摩擦係数(μ)など、現実世界の不確定要素をすべて数式に組み込むことは不可能に近いからだ。結果として、極限状況下での推定精度が低下し、制御の遅れや誤作動を招くリスクが残されていた。
「物理AI」:法則と学習のハイブリッドアプローチ
ナム教授らの研究チームが提示した解決策は、従来の物理モデルを捨て去ることではなく、それをAIで補強するという「ハイブリッド推定フレームワーク」である。これを彼らは「フィジカルAI」ベースの車両状態推定技術と呼ぶ。
このアプローチの核心は、物理法則に基づく「堅実さ」と、データから学習するAIの「適応力」を融合させた点にある。
1. 物理モデルの役割:骨組みを作る
システムに組み込まれた物理タイヤモデルは、車両運動の基本的な「あるべき姿」を記述する。物理法則は普遍的であるため、学習データが存在しない未知の状況であっても、ある程度妥当な予測を提供し、AIが荒唐無稽な答えを出すことを防ぐ「ガードレール」の役割を果たす。
2. AIの役割:隙間を埋める
一方、ガウス過程回帰(Gaussian Process Regression: GPR)を用いたAIモデルは、物理モデルでは記述しきれない複雑な現象を担当する。タイヤの非線形な変形特性や、環境変化による微細な挙動の変化を、センサーから得られるデータに基づいてリアルタイムで学習・補正するのだ。
このシステムには、タイヤにかかる横方向の力(ラテラルフォース)を測定するセンサーからのデータが常時入力され、AIモデルの推論を精緻化し続ける。
技術的深層:UKFとGPRの統合
この研究の技術的なブレイクスルーは、無香カルマンフィルタ(Unscented Kalman Filter: UKF)という強力な状態推定アルゴリズムに、前述のGPRを統合した点にある。
UKF(無香カルマンフィルタ)の採用
カルマンフィルタは、アポロ計画でも使用されたことで知られる、ノイズの混じった観測データから真の状態を推定するためのアルゴリズムである。特にUKFは、車両の挙動のような「非線形」なシステムに対して高い性能を発揮する。しかし、UKF単体では、あらかじめ定義された物理モデルの精度に依存してしまう弱点があった。
GPR(ガウス過程回帰)による補完
そこで研究チームは、UKFの観測プロセスにGPRを組み込んだ。GPRは、データから関数の形そのものを確率的に推定する手法であり、不確実性を扱いながら非線形な関係をモデル化することに長けている。
この「GPR-UKFオブザーバー」と呼ばれる統合システムは、以下のプロセスで高速かつ高精度な推定を実現する。
- 物理的予測: まず物理モデルに基づき、次の瞬間の車両状態を予測する。
- AIによる補正: センサーデータとGPRを用いて、物理モデルの予測に含まれる誤差(タイヤの非線形特性などに起因するもの)を推定し、修正を加える。
- 状態更新: 最終的に、ノイズを除去しつつ、物理的整合性とデータ適合性の両方を満たす「真の横滑り角」を出力する。
これにより、従来の純粋な物理モデル手法よりも柔軟性が高く、かつ純粋なAI(ディープラーニング)手法よりも信頼性が高い、理想的な推定が可能となった。
実証実験:シミュレーションを超えた実用性
本研究の特筆すべき点は、机上の計算に留まらず、実際のEVプラットフォームを用いた走行テストでその有効性が実証されていることだ。
研究チームは、様々な路面状況、速度域、コーナリング条件において実車実験を行った。その結果、開発された物理AIアルゴリズムは、環境が激しく変化する状況下でも高い推定精度を維持し続けることが確認された。これは、特定の条件下でしか機能しない実験室レベルの技術ではなく、実際の産業現場、すなわち我々が日々運転する道路上での適用に耐えうる技術であることを示唆している。
モビリティの未来への示唆
『IEEE Transactions on Industrial Electronics』に掲載されたこの成果は、単なる制御工学の進歩に留まらず、次世代モビリティ社会の基盤技術として広範な影響を及ぼす可能性がある。
1. 自動運転の安全性革命
完全自動運転車において、システムが「自分が滑り始めている」ことを人間以上の感度で察知できれば、事故発生率は劇的に低下する。スピンが発生する直前の微細な横滑りを検知し、瞬時に各車輪のトルクを調整して姿勢を立て直すといった、プロドライバー並み、あるいはそれ以上の回避行動が可能になるからだ。
2. EVのエネルギー効率向上
正確な車両状態の把握は、無駄なエネルギー消費を抑えることにもつながる。タイヤの不要な滑りはエネルギーのロスそのものである。グリップ限界ギリギリの効率的な領域で車両を制御することで、電費(電力消費効率)を最適化し、EVの航続距離延長に貢献することも期待される。
3. コントロールアーキテクチャのパラダイムシフト
ナム教授は次のように述べている。「物理モデルとAIを組み合わせた新しいアプローチを通じて、EVの走行状態をより高い精度と信頼性で推定できるようになった。この研究は、次世代の自動運転およびEV技術の核心的な基盤となるだろう」。
この言葉が示唆するのは、今後の車両制御システムが、固定的なプログラムから、物理法則を理解しつつ環境に適応する「学習する物理システム」へと進化していく未来である。
信頼できるAIへの道
自動運転やEVの普及に伴い、ソフトウェアへの依存度は高まる一方だ。しかし、命を預かるモビリティにおいて、ブラックボックス化したAIにすべてを委ねることへの懸念は根強い。
DGIST、上海交通大学、東京大学によるこの共同研究は、「説明可能な物理法則」と「適応力のあるAI」を融合させることで、その懸念に対する一つの回答を提示した。物理AIによるリアルタイム状態推定は、機械が物理世界をより深く「理解」するための重要なステップであり、より安全で効率的な移動の自由を人類にもたらすための鍵となる技術である。
論文
- IEEE Transactions on Industrial Electronics: Physically Informed Sideslip Angle Estimation for Electric Vehicles Using Lateral Tire Force Sensors and a GPR-UKF Observer
参考文献



