ブラックホールに吸い込まれた物質の情報は、完全に失われるのか。それとも、何らかの方法で取り戻せるのか。この半世紀にわたる物理学の難問を巡り、超弦理論や量子重力理論の分野では、2つのブラックホールを時空のトンネルである「ワームホール」で結ぶ理論モデルが研究されてきた。

量子力学では、閉じた系の時間発展において情報は保存されると考えられている。そのため、ブラックホール内部で複雑にかき乱された量子情報も、適切な条件が整えば、別の場所で復元できる可能性がある。こうした考え方から、ワームホールを通じた情報伝送を量子回路で再現する研究が進められている。

今回、インド工科大学バナラス・ヒンドゥー校の理論物理学者、Sudhanva Joshi氏とSunil Kumar Mishra氏が、この「通過可能なワームホール」に着想を得た量子テレポーテーションの仕組みを数学的に分析し、意外な結果を明らかにした。

量子コンピュータが従来のコンピュータでは難しい計算を行う際に重要とされる「量子マジック」を使わなくても、それを豊富に使った場合と、平均的にはまったく同じ精度で情報を転送できるというのだ。

量子マジックとは、簡単にいえば、量子コンピュータの計算を通常のコンピュータでは再現しにくくする性質のことだ。これまで、高度な量子情報処理には重要な役割を果たすと考えられてきた。

ただし、平均的な転送精度が等しくても、結果の安定性まで同じとは限らない。研究チームが左右それぞれ8量子ビットの系を用いて数値検証したところ、量子マジックを持たない演算では、転送精度のばらつきを示す分散が約4万倍にも達した。

この研究成果は、2026年10月8日に改訂されたプレプリント論文(arXiv:2606.19180v3)で報告され、10月13日にはScienceAlertも取り上げている。

ただし、実際のブラックホールを使って情報を転送したわけではない。量子コンピュータによる実機実験でもなく、理想化された量子系を対象とした数理物理学の研究だ。論文も現時点では査読を受けていないプレプリントの段階にある。

それでも今回の結果は、量子情報を正確に転送するために、本当に必要なものは何なのかという根本的な問いに、新たな知見を与えている。

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ブラックホールの思考実験から生まれた量子テレポーテーション

SF作品に登場するテレポーテーションとは異なり、量子テレポーテーションでは物質そのものが瞬間移動するわけではない。また、光速を超えて情報を伝えることもできない。

量子テレポーテーションは、送信者と受信者があらかじめ共有する「量子もつれ(エンタングルメント)」と、通常の通信を組み合わせて、ある量子ビットの未知の状態を別の量子ビット上に再現する技術だ。

量子もつれとは、離れた場所にある複数の量子系が、個別には説明できない強い相関を持つ状態を指す。

この仕組みによって元の量子状態を別の場所へ転送できるが、転送元の状態は測定などの操作によって失われる。未知の量子状態を完全に複製することはできないという、量子力学の「複製不可能定理」に従うためだ。

通常の量子テレポーテーションでは、ベル測定と呼ばれる操作と古典通信を利用する。

一方、ブラックホールに着想を得たテレポーテーションは、量子情報が複雑な多体系の中でどのように広がり、再び取り出せるのかという問題を出発点としている。

その代表的な研究が、2019年にPing Gao氏とDaniel Louis Jafferis氏によって提案された、Sachdev–Ye–Kitaev(SYK)模型を利用する通過可能なワームホールのテレポーテーションプロトコルだ。

この研究は2021年7月に学術誌『Journal of High Energy Physics』へ掲載された。

SYK模型は、多数の粒子が複雑に相互作用する量子系を記述する理論モデルで、量子カオスやブラックホールの性質を研究する際に利用されている。

Gao氏らのモデルでは、左右に分かれた2つの量子系を「熱場二重状態(Thermofield Double State:TFD)」と呼ばれる量子もつれ状態で結びつける。

この状態は、特定の重力理論との対応関係の下で、ワームホールによってつながれた2つのブラックホールとして解釈できる。なお、TFD状態は一般に量子もつれを持つ状態だが、無限温度の極限では最大もつれ状態となる。

片側の系に量子情報を入力すると、複雑な相互作用によって、その情報は系全体へと広がっていく。

この現象を「スクランブリング(Scrambling)」と呼ぶ。

例えば、1つの量子ビットに記録された情報が、多数の量子ビットの複雑な相関の中へ分散してしまう状態を考えると分かりやすい。

情報そのものが消滅したわけではないが、もはや一部の量子ビットを調べるだけでは、元の情報を取り出すことが難しくなる。

しかし、Gao氏らの理論では、左右の量子系の間に適切な相互作用を加えることで、情報を反対側へ転送できることが示された。

重力理論の側では、この相互作用が負のエネルギーによる効果を生み、通常は通り抜けられないワームホールを一時的に通過可能にする現象として解釈される。

量子情報の側から見ると、複雑に分散した情報が、適切な相互作用と復号操作によって別の場所に復元される仕組みだ。

Gao氏らは、特定の条件下でほぼ完全な忠実度を達成できるプロトコルを示している。

今回、Joshi氏とMishra氏が調べたのは、このようなブラックホール着想のテレポーテーションを実現する上で、情報をかき乱す演算にどれほど高度な量子計算能力が必要なのかという問題だった。

その検証の中心となったのが、「量子マジック」と呼ばれる性質である。

「量子マジック」とは何か?普通のコンピュータとの違い

量子マジックという名前から、量子コンピュータに備わる特別な力を想像するかもしれない。しかし、これは超自然的な現象ではなく、量子計算の性質を表す数学的な概念だ。

理解するためには、まず量子コンピュータの計算が、すべて従来のコンピュータより難しいわけではないことを知る必要がある。

量子コンピュータは、量子ビットに対して「量子ゲート」と呼ばれる操作を加えながら計算を進める。

量子ゲートにはさまざまな種類があるが、その中に「クリフォードゲート(Clifford Gate)」と呼ばれる一群がある。

代表的なのは、アダマールゲートやCNOTゲート、位相ゲートなどだ。

これらを組み合わせれば、複数の量子ビットをもつれさせたり、複雑な量子状態を作ったりできる。

ところが、クリフォードゲートだけで構成された特定の量子回路は、通常のコンピュータでも効率よく動作を再現できることが知られている。

この性質を示すのが、「Gottesman–Knillの定理」だ。

クリフォードゲートは量子力学に基づく操作だが、その変化には数学的な規則性がある。そのため、従来のコンピュータでも計算の過程を効率的に追跡できる。

では、量子コンピュータにしかできないような、より幅広い計算を実現するには何が必要なのだろうか。

そこで登場するのが、「非クリフォードゲート(Non-Clifford Gate)」だ。

代表的なものに「Tゲート」がある。

クリフォードゲートだけでは実現できない操作を加えることで、量子コンピュータが扱える計算の種類を広げられる。

その一方で、通常のコンピュータでは、計算過程を効率よく追いかけることが難しくなる。

このような、クリフォードゲートだけでは再現できない性質を、量子情報科学では「量子マジック(Quantum Magic)」または「非スタビライザー性(Non-stabilizerness)」と呼ぶ。

身近な例に置き換えるなら、クリフォードゲートだけの計算は、どれほど複雑に見えても、決まった規則に従って手順を整理できるパズルのようなものだ。

一方、非クリフォードゲートを加えると、その規則だけでは簡単に整理できない、より複雑なパズルになる。

量子マジックは、後者のような計算を可能にするための重要な資源だ。

ただし、量子マジックの量は、量子コンピュータの速さや正確さを直接表す点数ではない。

量子マジックが多ければ、必ず計算が速くなるわけではなく、少なければ精度が下がるとも限らない。

例えば、量子もつれを作ること自体には、量子マジックが必ずしも必要ではない。実行したい処理によって、必要な量子計算の性質は異なるからだ。

今回の研究で問われたのは、まさにこの点だった。

ブラックホールのように量子情報を複雑にかき乱し、その後に復元するには、本当に量子マジックが必要なのだろうか。

研究チームは、この疑問を調べるため、2種類の演算を比較した。

1つは、量子マジックを持たない「クリフォードスクランブラー」。もう1つは、より一般的な量子演算を無作為に選ぶ「ハール無作為スクランブラー」だ。

ハール無作為スクランブラーは、通常、豊富な量子マジックを持つ。

両者は量子情報をかき乱すことができるが、従来のコンピュータでその動作を再現する難しさが大きく異なる。

研究チームは、この2種類の演算をブラックホール着想のテレポーテーション回路に組み込み、情報をどれほど正確に復元できるかを比較した。

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量子マジックがなくても平均的な転送精度は同じ

研究チームは、無限温度という理想化された条件の下で、テレポーテーション回路の振る舞いを数学的に解析した。

その結果、量子マジックを持たないクリフォードスクランブラーと、量子マジックを豊富に含むハール無作為スクランブラーの平均忠実度が、厳密に一致することを示した。

ここでいう「忠実度(Fidelity)」とは、転送先で復元された量子状態が、元の状態とどれほど一致しているかを示す指標だ。

忠実度が1なら、理想的には完全に一致していることを意味する。

今回の比較は、1つの演算を実行した結果ではなく、それぞれの方式から多数の演算を選んだときの平均的な性能を調べたものだ。

つまり、古典コンピュータでも再現しやすい操作を使った場合と、通常は再現が難しい複雑な操作を使った場合とで、平均的には同じ精度で情報を転送できることが分かった。

この結果は、量子マジックを多く使うほど情報転送が正確になる、という単純な関係が成り立たないことを示している。

なぜ平均忠実度が一致するのか

平均忠実度が一致する理由は、2種類の演算が持つ統計的な性質にある。

研究チームの解析によると、このテレポーテーションプロトコルの平均忠実度は、スクランブラーの「3次モーメント」までの情報によって決まる。

3次モーメントとは、演算を何度も選んだときに得られる統計的な特徴の一つだ。

クリフォード演算の集合は、この3次までの統計的な特徴について、ハール無作為演算と一致することが数学的に知られている。

この性質を「ユニタリ3デザイン(Unitary 3-design)」と呼ぶ。

今回のテレポーテーションの平均忠実度は、この一致する範囲の情報だけで決まっていた。

そのため、量子マジックの量が大きく異なっていても、平均忠実度は同じ値になったのである。

これは数値計算で偶然見つかった一致ではなく、数学的に導かれた結果だ。原論文の第3節では、この関係が厳密に証明されている。

研究チームはさらに、クリフォード回路に非クリフォードゲートを加えて量子マジックを増やしても、平均忠実度が変わらないことを示した。

ただし、量子マジックがゼロとされているのは、基本的に情報をかき乱すクリフォード演算についてだ。

テレポーテーションの回路全体には、左右の量子系を結びつける相互作用も含まれる。任意の条件で回路全体の量子マジックが必ずゼロになるという意味ではない。

平均値が同じでも、結果の安定性には約4万倍の差

しかし、平均的な転送精度が一致することは、毎回同じように成功することを意味しない。

例えば、5回のテストですべて80点を取った場合、平均点は80点になる。

一方、あるテストでは100点、別のテストでは60点というように成績がばらついていても、平均点が80点になることはある。

同じ平均点でも、毎回安定して80点を取れる場合と、成績が大きく変動する場合では、その性質は異なる。

今回の量子テレポーテーションでも、まさに同じことが起きていた。

研究チームは、平均忠実度だけでなく、個々の演算の結果がどれほどばらつくかを表す「分散(Variance)」も調べた。

その結果、クリフォードスクランブラーとハール無作為スクランブラーでは、大きな違いが見つかった。

ハール無作為スクランブラーでは、系のサイズが大きくなるにつれて、忠実度のばらつきが急速に小さくなる。

つまり、無作為に選んだ個々の演算でも、比較的安定した結果を得られるようになる。

一方、クリフォードスクランブラーでは、系を大きくするとばらつきは減るものの、その減少はハール無作為演算ほど速くない。

原論文の第5節によると、左右それぞれ8量子ビットの設定で数値計算を行ったところ、クリフォードスクランブラーの忠実度分散は0.0208となり、ハール無作為スクランブラーの約4万倍に達した。

この「4万倍」は、転送の失敗率が4万倍になるという意味ではない。あくまで、個々の演算で得られる忠実度が平均値からどれほどばらつくかを比較した数字だ。

両者の主な違いを整理すると、次のようになる。

比較項目 クリフォードスクランブラー ハール無作為スクランブラー
量子マジック なし 一般に豊富
通常のコンピュータでの再現 効率的に再現できる 一般に再現が難しい
平均的な情報転送の精度 ハール無作為演算と同じ クリフォード演算と同じ
転送精度の安定性 演算によって比較的大きくばらつく ばらつきが非常に小さい
片側8量子ビットでの忠実度分散 ハール無作為演算の約4万倍 基準値1
系を大きくした場合 典型的な忠実度は1に近づく 忠実度が1に近づき、ばらつきも急速に減る

この比較から、量子マジックがなくても平均的には高い精度を実現できる一方、毎回安定した結果を得るという点では、演算の種類によって大きな差が生じることが分かる。

ただし、この差を量子マジックの量だけで説明することはできない。

クリフォード演算では、情報をかき乱す際の変化に強い規則性がある。そのため、選ばれた演算によって、情報の広がり方や転送結果が比較的大きく変わる。

一方、ハール無作為演算では、情報が多数の成分へ複雑に分散する。個々の演算の内部ですでに多様な成分が混ざり合っているため、異なる演算を選んでも結果の差が小さくなりやすい。

つまり、両者は同じ平均忠実度を達成していても、そこに至る仕組みが異なるのである。

研究チームはさらに、モデルの規模を大きくすると、クリフォードスクランブラーでも典型的な忠実度が1へ近づくことを示した。

特定の条件では、回路全体の量子マジックが系のサイズに反比例して減少する一方、平均忠実度は1に近づく。

量子マジックを増やさなくても、高精度な情報転送が可能になるということだ。

ただし、忠実度のばらつき方には違いが残る。平均的に高い精度を実現できることと、個々の回路で安定した性能を得られることは、分けて評価する必要がある。

重要なのは量子マジックの量よりも、情報の復元方法

では、量子マジックの量が転送精度を決めないとすれば、何が重要なのだろうか。

Joshi氏とMishra氏の分析では、情報をかき乱す「スクランブラー」と、かき乱された情報を元に戻す「復号器(デコーダー)」の関係が、重要な役割を果たしていた。

スクランブリングによって情報が多数の量子ビットに広がると、元の情報は簡単には取り出せなくなる。

しかし、どのような方法で情報がかき乱されたかを踏まえ、それに対応する操作を行えば、元の情報を復元できる可能性がある。

身近な例でいえば、複雑な方法で暗号化した情報を、正しい鍵で復号するようなものだ。

どれほど高度な方法で情報を処理しても、元に戻すための操作が適切でなければ、必要な情報を取り出すことはできない。

今回の研究でも同じ傾向が確認された。

研究チームは、スクランブラーと無関係な復号器を使用した場合、量子マジックを豊富に持つ演算を用いても、平均忠実度が「情報転送なし」の基準値にとどまることを示した。

今回のモデルでは、この基準値は1/4となる。

つまり、量子マジックを大量に使って情報を複雑にかき乱しても、それに対応した復元方法がなければ、うまく情報を転送できないということだ。

重要なのは、情報をどれほど複雑にかき乱せるかだけではなく、どのようにかき乱し、どのように復元するかという一連の操作の整合性にある。

研究チームはさらに、転送する情報から離れた部分に量子マジックを追加しても、忠実度の統計的な性質が変わらない場合があることを示した。

これは、回路全体に量子マジックがどれほど含まれているかだけでは、情報転送の性能を正しく評価できないことを意味する。

今回確認されたクリフォード演算とハール無作為演算の分散の違いも、単に量子マジックの多寡だけで決まるものではない。

それぞれの演算が持つ、より高次の統計的な性質の違いが反映されている。

量子マジックは、量子コンピュータに高度な計算を行わせるための重要な資源だ。しかし、今回のような特定の情報転送では、それだけが性能を決めるわけではないということだ。

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論文の改訂で変わった「量子マジックは必要か」という結論

今回の研究では、論文の改訂履歴にも注目する必要がある。

arXivに登録された論文番号「2606.19180」は、2026年6月17日に初版が投稿されている。

当初のタイトルは『Quantum magic is necessary but not sufficient for wormhole-inspired teleportation(ワームホール着想のテレポーテーションには量子マジックが必要だが、それだけでは十分ではない)』だった。

初版では、SYK模型を使ったワームホール着想のテレポーテーションを対象に、「スタビライザー・レニー・エントロピー(SRE)」という指標を用いて量子マジックの変化を調べていた。

その分析では、情報の転送に必要なのは、単に大量の量子マジックを生成することではなく、適切な構造を持つ量子マジックの変化や再分配であるという結論が示されていた。

しかし、10月8日に公開された第3版では、論文の構成と中心的な結論が大きく変更された。

現在のタイトルは『Clifford and Haar scramblers yield equal mean fidelity but unequal fluctuations in black hole-inspired teleportation(ブラックホール着想のテレポーテーションでは、クリフォード演算とハール無作為演算が同じ平均忠実度を示す一方、ばらつきは異なる)』となっている。

改訂版では、特定のSYK模型に依存した議論から、より一般的な量子情報理論の枠組みへと分析の重点が移された。

具体的には、クリフォード演算とハール無作為演算の統計的な性質を比較し、平均忠実度が一致する条件と、分散に違いが生まれる仕組みを数学的に明らかにした。

初版では量子マジックの必要性が強調されていたのに対し、現行版では、少なくとも今回対象としたプロトコルの平均忠実度に関しては、スクランブラーの量子マジックが不可欠ではないことが示されている。

ただし、これは初版で扱ったSYK模型のあらゆる条件について、量子マジックが不要だと証明したことを意味しない。

現行版では、重力理論との対応を前提としない形で、量子情報転送に必要な条件を改めて検討している。

今回ScienceAlertが報じた研究成果も、この2026年10月8日付の改訂版に基づくものだ。

量子コンピュータによるワームホール模擬実験との違い

今回の成果を評価する上では、数学的なモデルで得られた結論と、実際の量子コンピュータで検証された結果を区別する必要がある。

Joshi氏とMishra氏の研究は、無限温度などの理想化された条件を用いて、量子回路の性質を解析したものだ。

量子マジックを持たないスクランブラーでも高い平均忠実度を達成できることを示したが、実機上で同じ性能が得られると確認したわけではない。

実際の量子コンピュータでは、環境との相互作用によって量子状態が乱れる「デコヒーレンス」や、量子ゲートの操作誤差、測定ノイズなどが発生する。

理論上は高い忠実度を達成できる回路であっても、こうした誤差によって性能が大きく低下する可能性がある。

ワームホールの振る舞いを量子コンピュータで模倣する研究には、すでに重要な先例がある。

2022年11月、Daniel Jafferis氏やMaria Spiropulu氏らの研究チームは、Googleの量子プロセッサ「Sycamore」を使い、通過可能なワームホールの振る舞いを模倣した実験結果を発表した。

この成果は同年12月号の学術誌『Nature』に掲載された『Traversable wormhole dynamics on a quantum processor』で報告されている。

研究チームは、機械学習などを利用して簡略化したSYK模型を構築し、9量子ビットと164個の2量子ビットゲートからなる回路で、その振る舞いを再現した。

実験では、ワームホールを通過する信号に対応する特徴的な情報伝送の振る舞いが観測された。

ただし、実際の時空にワームホールを作り出したわけではない。あくまで量子プロセッサ上に構築した回路で、対応する量子系の振る舞いを模倣したものだ。

また、この実験はノイズの影響を非常に受けやすかった。

Googleの研究チームによる解説では、仮にノイズが実際の1.5倍に増えていれば、観測された信号は完全に見えなくなっていたと説明されている。

量子ゲートのエラー率がわずかに悪化するだけでも、微弱な情報伝送の信号がノイズに埋もれてしまうということだ。

この先行研究は、ブラックホールの理論に着想を得た量子回路を実際のハードウェアで動かすことが、いかに難しいかを示している。

一方、今回のJoshi氏らの研究では、そうした実機特有の誤差やデコヒーレンスを考慮した性能評価は行われていない。

無限温度という理想化された条件で得られた数学的な結論が、有限温度やノイズのある実機環境でもどこまで成り立つのかは、今後の検証課題だ。

研究チームも、今回の成果を、将来的に量子ハードウェア上でプロトコルを検証するための理論的な基盤と位置づけている。

量子情報の復元に必要なのは、複雑な計算だけではない

今回の研究が示した重要な成果は、ブラックホールに着想を得た量子テレポーテーションにおいて、量子マジックの量と情報転送の性能が単純には対応しないという点だ。

量子マジックを持たないクリフォードスクランブラーでも、適切な条件の下では、ハール無作為スクランブラーと完全に同じ平均忠実度を達成できる。

さらに、系のサイズを大きくすると、量子マジックがほとんどない回路でも、典型的な転送忠実度が1へ近づくことが示された。

一方で、個々の回路の性能を安定させるという点では、大きな違いが残る。

左右それぞれ8量子ビットの設定では、クリフォード演算の忠実度分散はハール無作為演算の約4万倍に達した。

また、情報をかき乱すスクランブラーと復号器が適切に対応していなければ、豊富な量子マジックを利用しても、高い平均忠実度は得られない。

つまり、情報転送を実現するためには、量子計算を複雑にすることだけでなく、情報の広がり方を理解し、それに合った復元方法を用意することが重要になる。

こうした知見は、将来、量子マジックを大量に必要としない回路を用いて、ブラックホールの情報スクランブリングや量子情報の復元を実験的に研究する際の手掛かりになる可能性がある。

ただし、量子マジックの少ない回路が、必ずしも実装の容易な回路を意味するわけではない。高精度な操作を実現するために必要なゲート数や、ノイズへの耐性なども考慮しなければならない。

また、今回の論文は査読前のプレプリントであり、理論の妥当性や適用範囲については、今後の研究による検証が必要だ。

特に、実際の量子ハードウェアで忠実度のばらつきをどこまで制御できるのか、スクランブラーと復号器の整合性をどのように維持するのかが、重要な課題になるだろう。

ブラックホールに落ちた情報はどうなるのかという、宇宙の極限環境から生まれた問いは、今や量子情報科学の具体的な計算問題としても研究されている。

今回の成果は、量子情報の復元に必要なのが、単に高度で複雑な量子演算ではなく、情報の拡散と復号を結びつける適切な仕組みであることを示している。