SEALSQとGlobalFoundries(GF)は2026年7月8日、耐量子暗号(PQC)のセキュリティIPと量子コンピューター向け極低温CMOSを共同開発する戦略的覚書(MoU)を結んだ。MIPSを交えて、SoCやチップレットに組み込める暗号回路を作る。GFが5月に立ち上げた量子事業には、極低温で量子ビットを制御・読み出す半導体も加わる。
発表のタイミングには理由がある。米政府は6月22日の大統領令で、国家安全保障システムを除く高価値資産・高影響システムについて、鍵確立を2030年末、デジタル署名を2031年末までにPQCへ移行する期限を置いた。主要な暗号方式を選ぶ段階は終わりつつあり、検証済みの実装を調達できるかを競う段階が始まっている。ただし、今回の合意は開発の枠組みであり、製造プロセスや量産日程は決まっていない。
暗号アルゴリズムから再利用できるチップ部品へ
両社がまず作ろうとしているのは、事前認証を想定したPQCセキュリティIPのハードマクロと、Chiplet Hardware Security Module(CHSM)部品だ。ハードマクロとは、特定の半導体プロセスに合わせて回路配置まで固めた再利用可能な設計部品を指す。暗号回路を製品ごとに作り直すより、SoCへ組み込みやすく、面積やタイミングも予測しやすい。
CHSMは、鍵の生成・保管や署名、鍵確立を担う回路を独立したチップレットとして切り出す発想である。GF傘下のMIPSが持つプロセッサーIPとSEALSQのセキュリティ設計を合わせれば、HSMやセキュアエンクレーブ向けに共通部品を供給できる。実現すれば、同じPQC機能をサーバーや産業機器、車載システムへ展開しやすくなる。
もっとも、「pre-certified」は認証済み製品という意味ではない。NISTのFIPS 203と204に沿ってML-KEMやML-DSAを実装しても、暗号モジュール全体がFIPS 140-3の検証を通ったことにはならない。NISTのCryptographic Module Validation Program(CMVP)では、独立した認定試験所がモジュールを試験し、NISTとカナダ当局が提出物を審査する。組み込み先の構成や動作モードを含め、最終製品側にも検証が残る。
2030年の調達期限がハードウェア実装を急がせる
PQCの主要方式はすでに標準になっている。NISTは2024年8月、鍵確立用のML-KEMをFIPS 203、署名用のML-DSAをFIPS 204、ハッシュベース署名のSLH-DSAをFIPS 205として承認した。次の難所は、既存システムのどこでRSAや楕円曲線暗号を使っているかを洗い出し、更新周期に合わせて置き換える作業である。
米大統領令14412は、その作業に期限を入れた。国家安全保障システムを除く連邦政府の高価値資産と高影響システムは、鍵確立を2030年12月31日まで、デジタル署名を2031年12月31日までにPQCへ移行する。NISTは2027年末までに移行パイロットを終え、商務省は180日以内にCMVPの検証手続きを速める。連邦調達規則にも、対象契約者へ2030年末までのPQC対応FIPS準拠を求める改定案が入る予定だ。
需要は米国だけに閉じない。フランスの国家サイバーセキュリティ機関ANSSIは、移行に10年以上かかると見込み、古典暗号とPQCを組み合わせるハイブリッド方式を勧めている。同機関は、2030年以降にPQCを組み込まない製品を新たに買うのは合理的でないとの見解も示す。耐用年数が長い産業機器や自動車では、次の設計更新を逃すと2030年代まで古い暗号を抱えかねない。
この時間差が、ソフトウェア更新より早い段階で半導体IPを準備する理由になる。チップは設計後に試作と評価を重ね、認証を取ってから量産へ進むため、年単位の時間がかかる。2026年にハードマクロを開発し始めても、実際の製品へ入るまでにはいくつもの関門を通らなければならない。
QS7001で見えるSEALSQの現在地
SEALSQにはPQC半導体の実物がある。Quantum Shield QS7001は、80MHzの32ビットRISC-V CPUと暗号アクセラレーターを備え、Kyber 512/768/1024とDilithium 2をサポートする。512Kバイトのフラッシュ、80KバイトのRAM、128KバイトのROMを積み、動作温度はマイナス40℃から105℃まで対応する。産業IoTやスマートメーターのハードウェア・ルート・オブ・トラストを想定したセキュアMCUだ。
しかし、製品ページはCommon Criteria EAL5+の評価が進行中で、認証はまだ付与されていないと明記する。SEALSQの2025年年次報告書によれば、2025年第4四半期に商用ローンチし、開発キットを顧客へ渡した。一方で現時点で売上は発生していない。売上開始の見込みは2026年第4四半期だ。アルゴリズムをシリコンへ載せることと、顧客の量産製品に採用されることの間には、まだ距離がある。
製造関係も区別して読む必要がある。同年次報告書はQS7001の製造パートナーとしてUMCを挙げている。7月8日の発表はGFと新しいIPやCHSMを共同開発するとしているが、QS7001をGFへ移管するとは述べていない。既存製品の供給網を置き換える話ではなく、GFのプロセスと顧客基盤へ展開できる次世代の設計部品を作る合意と見るのが妥当だ。
CryoCMOSは別の時間軸
今回の提携には、PQCとは用途が異なる開発も入っている。CryoCMOSは量子攻撃に耐える暗号回路ではなく、極低温環境で量子ビットを制御し、信号を読み出す古典回路である。量子ビットが増えるほど室温側から延ばす配線も増え、冷凍機への熱流入や信号遅延がシステム拡張を難しくする。制御回路を量子プロセッサーへ近づけることが、その解決策の一つになる。
GFは5月21日、Quantum Technology Solutionsを新設し、FDXプラットフォームでセンシング、制御、読み出しを担うCryoCMOSを製造すると表明した。DiraqやEqual1は、すでにFDXを極低温CMOSとシリコンスピン量子ビットの研究に使っている。GFは超伝導、イオントラップ、光、トポロジカル、スピン方式を横断し、量子プロセッサーから先進パッケージまでを製造対象に据える。
この事業には米政府も資金を付ける。米商務省とGFは、Quantum Technology Solutionsの拡張へ3億7500万ドルを交付する意向書を結び、別契約で政府がGFの約1%を保有する戦略投資も決めた。SEALSQとのCryoCMOS開発は、GFがすでに進める米国内量子製造網へ顧客向けASIC設計を持ち込む入口になる。
ただし、共同発表は「極低温」と記すだけで、動作温度や消費電力、対象となる量子ビット方式を示していない。PQCハードマクロとCryoCMOSが同じチップに載るとも書いていない。二つの開発は「量子」という言葉で結ばれているが、製品、市場、実用化時期は分けて追うべきである。
量産へ進んだかを見分ける三つの確認点
最初の確認点は、GFのどのプロセス向けにハードマクロが提供されるかである。PDKへの収録時期とライセンス条件がまず必要になる。さらに面積・消費電力とML-KEM/ML-DSAの処理性能が出れば、顧客が設計へ組み込める段階に入ったと判断できる。
次は認証だ。PQCアルゴリズム対応という表現より、FIPS 140-3やCommon Criteriaの証明書番号と対象構成を確認したい。事前評価済みIPが設計期間を縮めても、組み込み先まで自動的に認証されるわけではない。
最後はテープアウトと顧客名である。MoUから試作チップ、顧客評価、量産契約へ進んだかは、日程と製造拠点を伴う発表で見分けられる。米政府の期限は需要を作った。SEALSQとGFがその需要を取るには、再利用IPを検証済みのシリコンへ変え、2030年より前の製品更新に間に合わせる必要がある。