深層学習の父と呼ばれ、Turing賞を受賞した研究者であり、MetaのAI開発を率いていたYann LeCun氏は昨年11月に同社を去ったことは当時大きく報じられた。そしてそのLeCun氏が、ついに自ら創業した新たなAIスタートアップAdvanced Machine Intelligence(AMI Labs)の正式ローンチを2026年3月10日に発表した。調達額は10億3,000万ドル(約890億円)。欧州スタートアップ史上最大のシードラウンドという記録とともに、AI業界にまた新たな新風を吹き入れる動きとなりそうだ。

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「テキストだけでは世界は理解できない」という根本的な問い

AMI Labsが掲げるビジョンは、現在の生成AIの主流であるLarge Language Model(LLM)への真っ向からの異議申し立てだ。ChatGPTやGeminiに代表されるLLMは、インターネット上のテキストデータを大量に学習することで人間の言語を模倣する。だが、LeCun氏が長年にわたって主張してきたのは、テキストだけから学習するAIは、物理世界の因果関係を理解できないという点だ。

その代替として同社が構築を目指すのが「世界モデル(World Model)」である。カメラや各種センサーから収集した現実世界のデータをもとに学習し、自らの行動がどのような結果をもたらすかを予測できるAIシステムを指す。AMI LabsのWebサイトにはLLMで採用されているTransformerアーキテクチャのような「生成的アプローチ(generative approaches)」を避けると明記されており、代わりにLeCun氏が2022年に提唱したJEPA(Joint Embedding Predictive Architecture)を基盤とする新しいアーキテクチャを採用する方針が示されている。

JEPAの技術的な特徴は、入力データの「予測不可能な詳細を無視する」能力にある。Transformerモデルが単一ピクセルのような細粒度の表現を扱うのに対し、JEPAはより高次の抽象的な表現、つまり画像全体のような概念レベルの情報を圧縮した形で扱う。これにより、視覚的な世界の構造を効率よく学習できると期待されている。

シードラウンドで35億ドル評価額、その根拠

AMI Labsの調達10億3,000万ドルは、プレマネー評価額35億ドルをベースに実施された。プレスリリースによれば、ラウンドを共同リードしたのはCathay Innovation、Greycroft、Hiro Capital、HV Capital、Jeff BezosのBezos Expeditionsの5社だ。

戦略的投資家の顔ぶれがさらに興味深い。NVIDIASamsungが参加していることは、AMI Labsが描く世界モデルのビジネス仮説に半導体・デバイスメーカーが賭けを置いた事実を示している。シンガポールの政府系ファンドTemasek、自動車大手Toyota Ventures、フランスのBpifrance Digital Ventureも名を連ねており、産業応用への期待の広がりが見て取れる。個人投資家としてはEric Schmidt、Mark Cuban、Tim & Rosemary Berners-Lee、Jim Breyer、Xavier Niel、Mark Leslieが参加した。

フランス国内からもAssociation Familiale Mulliez(ムリエ一族が所有する産業コングロマリット)、Groupe Industriel Marcel Dassault(航空宇宙・防衛企業Dassault Groupの投資部門)、Publicis Groupeが資本を投じており、AMI Labsが単なるシリコンバレー発のAIスタートアップとは異なる、欧州産業界との深い結びつきを持つ企業として設計されていることが伺える。

当初、AMI Labsは昨年12月時点で5億ユーロ(約560億円)の調達を目指していたとBloombergが報じていた。それが最終的に8億9,000万ユーロ(約1,050億円)規模まで膨らんだ背景には、投資家の需要過剰があった。TechCrunchの取材にCEOのAlexandre LeBrun氏が答えたところによれば、高い関心を逆手に取り、資金の出し手を質で選別できる立場にあったという。

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Metaの後継者ではなく、Metaの批判者として

LeCun氏の立場は特異だ。Metaでは10年以上にわたってAI研究部門(FAIR)を率い、Llama LLMシリーズの開発を統括した。オープンソース化されたLlamaは現在も世界中の開発者に使われている深層学習フレームワークPyTorchの誕生にも深く関わっている。その彼が今、LLMそのものの限界を公言してMeta外に拠点を移した。

MetaはAMI Labsへの投資家として名を連ねていないが、TechCrunchの報道によれば両者はパートナーシップを組む見通しだ。LeCun氏にとってAMI Labsは、かつての雇用主との決別ではなく、研究の続きを別の形で進める場という位置づけに近い。

組織設計もその姿勢を反映している。LeCunはCEOではなく、会長(Board Chair)として名を連ねる。CEOにはフランスのデジタルヘルス系スタートアップNablaの前CEOで、現在はNabla会長を務めるAlexandre LeBrunを据えた。Chief Science OfficerにはMeta・Google出身の研究者Saining Xieが、Chief Research and Innovation OfficerにはPascale Fungが、VP of World ModelsにはMontreal在住の研究者Michael Rabbatがそれぞれ就任。Metaのヨーロッパ担当VPだったLaurent SollyがCOOを務め、幹部陣は研究寄りと事業寄りのバランスが意識的に設計されている。

医療ロボットから航空機部品まで、想定される産業応用

「信頼性、制御性、安全性が本当に問われる産業」と公式サイトが記す通り、AMI Labsが狙うのは生成AIが苦手とする高リスク領域だ。LLMが医療現場でハルシネーション(事実に基づかない情報の生成)を起こせば、文字通り生命に関わる。LeBrunがNabla CEOとして医療AIを手がけてきた経験から導き出した結論は、LeCunの研究仮説と一致していた。それがこのタッグの出発点だ。

LeCun氏はWiredの取材に対して航空機部品の設計最適化をユースケースの一例として挙げた。AMI Labsの採用ページにはロボットのユースケースとして、環境の将来状態を予測し「行動の連鎖を計画する」モデルの開発が記されている。荷物の仕分けや準備といった工場向けタスクへの応用が念頭に置かれているとみられる。

LeBrunはTechCrunch氏に対して「ラボに閉じこもったままでは世界モデルは作れない。どこかの時点で、リアルなデータとリアルな評価環境にモデルを投入しなければならない」と語っている。そのため、AMI Labsは収益化の見通しが立たない段階から潜在顧客との関係を積極的に構築する方針だ。最初のパートナーとして開示されているのは、LeBrunが会長を務めるNablaである。医療向け世界モデルの実証実験を通じて、アーキテクチャの有効性を検証していく算段だ。

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「世界モデルはLLMの次のバズワードになる」

LeBrun氏がTechCrunchに放った言葉は率直だった。「私の予測では、6ヶ月後にはあらゆる企業が資金調達のために自社を世界モデル企業と名乗り出す」。笑いながらの発言だったと記事は記しているが、その言葉の背後には現実的な警戒感がある。

実際、この分野に流れ込む資金は急増している。Fei-Fei Li氏が率いるWorld Labsは2026年2月だけで10億ドルを調達した。SpAItialは欧州スタートアップとしては異例の1,300万ドルのシードラウンドを成立させている。今回のAMI Labsの調達は、これらを大幅に上回る規模だ。バズワード化のリスクを自覚しながらも、それを超えたものを作ると言い切れるだけの根拠がLeCun氏にはある。

AMI Labsが他のプレイヤーと一線を画すのは、研究姿勢だ。LeBrun氏は「研究成果を論文として公開し、コードの多くをオープンソースで提供する」と明言している。Meta/FAIRでの経験から、オープンな研究エコシステムを形成することが長期的には競争優位につながるという信念がある。クローズドな研究が業界標準になりつつある現状に対する、意識的なカウンターでもある。

パリ発、シンガポール経由、NYU直結という地理的設計

AMI Labsはパリを本拠地としながら、ニューヨーク、モントリオール、シンガポールの4拠点体制でスタートする。各拠点の選定には明確な論理がある。パリは欧州の研究コミュニティと産業資本へのアクセス拠点、ニューヨークはLeCun自身がNYUで教鞭をとる場所、モントリオールはVP of World ModelsのRabbatの拠点であるとともに、カナダのAI研究クラスターの中心地だ。シンガポールはアジア市場への接点として機能する。Temasekや東南アジアのインターネット企業Seaが投資家に名を連ねていることと整合的だ。

フランス大統領Emmanuel Macron氏はソーシャルメディア上で「LeCun氏はAIに新たな章を開く。これが研究者、建設者、勇気ある者たちのフランスだ」とコメントした。AIの主戦場がアメリカと中国の二極構造に見えるなか、欧州から世界的インパクトを持つ基礎研究機関を育てようという政治的意志が、この資金調達の背景に透けて見える。

LLMが「使えない」領域の争奪戦が始まる

AMI Labsのローンチが示唆するのは、AI投資の論点が生成AIの改良から、その外側にある未開拓領域へとシフトしつつあるということだ。LLMはすでに自然言語処理において事実上の標準技術となり、主要プレイヤーの顔ぶれも固まりつつある。その状況下で、物理世界の理解、長期的な行動計画、ハルシネーションのない予測という課題に資本が向かうのは自然な流れだ。

もちろんAMI Labsが直面するハードルも小さくない。LeBrun氏自身が認めるとおり、世界モデルは基礎研究から始まる事業であり、「3ヶ月でプロダクト、6ヶ月で売上、12ヶ月で年間経常収益1,000万ドル」というスタートアップの典型的なタイムラインとは全く異なる。10億ドルの資金があっても、研究成果が商業的価値に転換されるまでには数年単位の時間がかかる可能性がある。

それでも世界の大手投資家がこれだけの資本を投じたのは、世界モデルが実現した暁の市場規模が、現在の生成AI市場を凌駕しうるという読みがあるからだ。ロボット、医療、製造、自動化、ウェアラブルデバイスという産業群は、いずれも「テキスト生成」よりはるかに大きな経済価値を持つ。LeCun氏が正しければ、LLM中心の現在のAI地図は数年後に大幅な書き換えを迫られる。


Sources