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“心を読む”AI「Centaur」は人間の行動を驚異的な精度で予測する

Y Kobayashi

2025年7月4日

もしAIが、あなたが次にどの商品を選ぶか、どのボタンを押すかといった日常の選択から、リスクを伴う重大な決断までを予測できるとしたら?だがもはやSFの世界の話ではないかも知れない。ドイツのヘルムホルツ・ミュンヘン研究所の研究チームが開発したAIモデル「Centaur」が、まさにその可能性の扉を開き、科学界に大きな波紋を広げているのだ。1000万件を超える人間の意思決定データから学習したこのAIは、驚異的な精度で我々の行動を予測するだけでなく、その内部的な働きが人間の脳活動と同期するという、驚くべき特性まで見せ始めたのだ。Centaurは人類が自らの「心」を理解するための画期的なツールとなるのか、それとも制御不能な「デジタルな双子」の始まりなのか。

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「考えるAI」Centaurの誕生

2025年7月2日、科学誌『Nature』に掲載された一編の論文が、認知科学とAI研究の分野に激震を走らせた。「A foundation model to predict and capture human cognition(人間の認知を予測し捉えるための基盤モデル)」と題されたその研究は、ヘルムホルツ・ミュンヘン研究所のMarcel Binz博士らが主導する国際研究チームの成果を報告するものだった。

彼らが発表したAIモデル「Centaur」は、ギリシャ神話に登場する半人半馬の賢者ケンタウロスにちなんで名付けられた。これは、人間の知性とAIの計算能力という二つの要素を融合させたモデルの特性を象徴している。Centaurは、Meta社が開発した最先端の基盤モデル「Llama 3.1(70B)」をベースに、研究チームが独自に構築した巨大なデータセットで微調整(ファインチューニング)することで生み出された。

認知科学の世界では長年、ある種のジレンマが存在した。人間の思考プロセスを理論的に「説明」できるモデルは、実際の行動を「予測」する能力に欠け、一方で行動をうまく「予測」できるモデルは、なぜそうなるのかを「説明」できない、という二律背反だ。Centaurは、この長年の壁を打ち破る可能性を秘めていると、研究チームは主張する。

1000万の選択がAIに「心」を教えた? – 巨大データセット「Psych-101」の正体

Centaurの驚異的な能力の源泉は、その訓練に使われた前例のない規模のデータセット「Psych-101」にある。これは単なるビッグデータではない。人間の認知の多様性を体系的に集積した、いわば「人間の意思決定の巨大な図書館」だ。

  • データ規模: 160種類もの心理学実験。
  • 参加者: 6万人以上。
  • 総選択数: 1000万件以上。

このデータセットには、リスクを取るか安全策を取るかのギャンブル課題、複数の情報から最適なものを選ぶ多属性意思決定、記憶力を試すゲーム、道徳的なジレンマに関する問題解決など、人間が日常的・非日常的に直面する多種多様な状況が含まれている。

研究チームは、これらの実験データを単なる数値の羅列ではなく、「あなたは今、2つのスロットマシンのどちらかを選びます…」といった自然言語の形式に書き起こした。これにより、AIは実験の文脈やルールを理解し、その中で人間がどのような選択を行ったかを学んでいったのだ。この骨の折れる作業こそが、Centaurが単なるパターン認識を超え、文脈に応じた人間の行動をシミュレートする能力を獲得する鍵となったのである。

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予測精度の壁を突破 – Centaurが見せた3つの驚異

Psych-101で訓練されたCentaurは、従来の認知モデルの常識を覆すほどの性能を示した。その能力は、大きく3つの点で際立っている。

専門モデルを圧倒する汎用性

研究チームが、ギャンブル課題の予測に特化した「プロスペクト理論」モデルなど、各分野で定評のある14種類の専門的な認知モデルとCentaurの予測精度を比較したところ、衝撃的な結果が出た。検証した32のタスクのうち、実に31のタスクでCentaurが既存の専門モデルを上回ったのだ。これは、特定のタスクに特化して設計されたモデルよりも、広範なデータから学習した汎用モデルの方が、人間の行動をより正確に予測できることを示唆している。

未知のタスクさえ予測する「汎化能力」

Centaurの真価は、訓練データに含まれていない、全く新しい状況への適応能力にある。研究チームは、以下のようなテストでその「汎化能力」を試した。

  1. カバー・ストーリーの変更: 「宇宙船で宝を探す」という設定を「魔法の絨毯で冒険する」という話に変えても、Centaurは人間の行動を正確に予測した。
  2. タスク構造の変更: 2つの選択肢しかなかったタスクに3つ目の選択肢を加えても、Centaurは柔軟に対応した。
  3. 全く新しい領域: 訓練データに含まれていなかった「論理的推論」のタスクでさえ、Centaurは人間の行動パターンを予測することに成功した。

これは、Centaurが単に学習したデータを暗記しているのではなく、その背後にある人間特有の意思決定の「原則」や「戦略」を学び取っている可能性を示している。

行動から思考のプロセスへ – 反応時間のシミュレーション

さらに驚くべきことに、Centaurは人間がどの選択肢を選ぶかだけでなく、その決定に「どれくらいの時間がかかるか(反応時間)」まで、高い精度で予測できた。反応時間は、意思決定の迷いや確信度を反映する重要な指標だ。これを予測できるということは、Centaurが選択の結果だけでなく、そこに至る思考のプロセスの一部をもシミュレートしていることを意味する。

最大のサプライズ – 行動の学習が「脳の働き」を模倣し始めた

Centaurの研究における最も衝撃的な発見は、神経科学の領域からもたらされた。研究チームは、Centaurが行動データのみで訓練されたにもかかわらず、その内部的な情報処理のパターンが、実際の人間の脳活動とどのように関連しているかを検証した。

機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いて、人間が意思決定タスクを行っている際の脳活動を計測したデータと、同じタスクをシミュレートするCentaurの内部のニューラルネットワークの活動パターンを比較した。その結果、両者の間に明確な相関関係が見出されたのだ。

これは画期的なことである。Centaurは脳の構造や神経細胞の発火パターンを直接学習したわけではない。あくまで「人間の行動(選択)」を模倣するように訓練されただけだ。にもかかわらず、その内部表現は、我々の脳が情報を処理する方法と驚くほど似通っていた。

この発見は、「効率的にタスクをこなすための情報処理の最適解は、生物の脳も人工知能も、ある程度似たような構造に行き着くのではないか」という仮説を強力に後押しする。Centaurは、人間の認知と脳の仕組みを解き明かすための、かつてない強力な「認知のロゼッタストーン」になる可能性を秘めている。

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科学的発見を加速する「触媒」 – Centaurが示した新境地

Centaurは単に行動を予測するだけでなく、科学的発見そのものを加速させる「触媒」としての役割も期待されている。研究チームは論文の中で、その具体的な事例を一つ示している。

彼らはある多属性意思決定課題(複数の評価軸で商品を比較する課題)において、まずCentaurに人間の行動データを分析させ、その行動パターンを言語で説明させた。するとCentaurは、「参加者はまず評価の高い選択肢の数で判断し、もし同数なら、最も信頼できる専門家の評価を重視する」という、これまで認知されていなかった二段階のハイブリッド戦略を「発見」した。

研究チームがこの新しい戦略を計算モデルとして定式化したところ、従来考えられていたどのモデルよりも人間の行動をうまく説明できたという。これは、AIがデータから新たな仮説を生成し、人間がそれを検証・洗練させるという、新しい科学の探求プロセスが現実のものとなったことを示す好例だ。Centaurは、認知科学者が実験を行うための「仮想実験室」として機能し、研究のサイクルを劇的に高速化するかもしれない

「本当に人間を模倣しているのか?」噴出する懐疑論と3つの課題

輝かしい成果が報告される一方で、科学界からは冷静かつ厳しい目も向けられている。Centaurの主張に対して、複数の専門家が疑問や懸念を表明しており、議論は熱を帯びている。

人間離れした能力が示す「認知」との隔たり

一部の批判者は、Centaurが人間には到底不可能な能力を持つ点を指摘する。例えば、AIは数百桁の数字を瞬時に記憶し、ミリ秒単位で応答できる。こうした超人的な能力は、Centaurが用いる情報処理プロセスが、根本的に人間の認知とは異なるものである証拠ではないか、というわけだ。AIが示す予測精度は、人間的な「思考」の結果ではなく、膨大な計算能力による力技の産物かもしれない。

データセットの偏り – 「WEIRDバイアス」というアキレス腱

Psych-101データセットの偉大さの裏には、大きな課題も潜んでいる。それは、参加者の多くが「WEIRD」と呼ばれる層に属していることだ。WEIRDとは、西洋的(Western)、教育水準が高い(Educated)、産業化社会(Industrialized)、裕福(Rich)、民主主義的(Democratic)な社会の出身者を指す。

世界の人口のごく一部に過ぎないこの層のデータに基づいて「人間の認知モデル」を構築することは、大きなバイアス(偏り)を生む危険性がある。文化や社会背景が異なれば、意思決定のパターンも大きく異なる可能性がある。この点は研究チーム自身も認識しており、今後の課題としてデータセットの多様化を挙げている。

誇張された予測精度? – 専門家からの冷静な指摘

一部の専門家からは、予測精度の評価そのものに疑問が呈されている。例えば、あるタスクでの予測精度が64%だったとして、それは本当に「驚異的」と言えるのだろうか、という問いだ。人間自身の行動にも揺らぎや一貫性のなさがあることを考えれば、この数値をどう解釈するかは慎重であるべきだ、という冷静な見方である。

テック企業の野心と倫理的課題への挑戦

Centaurが示す未来は、希望に満ちているだけではない。人間の思考を予測する技術は、明らかな「諸刃の剣」だ。マーケティングや製品設計に応用されれば、我々の生活はより便利になるかもしれない。しかし、その一線を越えれば、個人の嗜好や弱点を突いた巧妙な操作や、プライバシーの深刻な侵害につながる恐れがある。

研究者であるClemens Stachl教授は、「大手テクノロジー企業は、オンラインショッピングやSNSで我々の行動を予測するために、すでに同様のモデルを使用している」と警鐘を鳴らす。TikTokのレコメンドエンジンのように、ユーザーをアプリに引きつけ続ける技術は、まさにその一例だ。これらの企業が保有するモデルは、厳重な企業秘密であり、その能力や倫理的な運用状況は外部からうかがい知ることはできない。

この点において、ヘルムホルツ研究所の研究チームが取った姿勢は評価されるべきだろう。彼らはCentaurのモデルとPsych-101データセットを、研究目的で広く公開する道を選んだ。これは、技術の透明性を確保し、学術コミュニティ全体でその可能性とリスクを検証しようという明確な意思の表れだ。「私たちは、産業界では焦点が当たりにくい基礎的な認知の問いを追求する自由がある」というビンツ博士の言葉は、公的機関がこの研究を主導する意義を物語っている。

私たちは「心」を理解する新たな扉の前にいる

AIモデル「Centaur」の登場は、間違いなく認知科学における一つの転換点である。それは、人間の行動を高い精度で予測し、脳の働きとの関連まで示唆するという、かつてない可能性を我々の前に提示した。精神疾患のメカニズム解明、より効果的な教育方法の開発、そして何よりも「人間とは何か」という根源的な問いへの新たなアプローチを可能にするかもしれない。

しかし同時に、この技術は多くの未解決の問いと倫理的な課題を突きつけている。モデルの限界、データの偏り、そして悪用のリスク。これらの課題から目を背けることは許されない。

Centaurが切り開いた扉の先にある未来が、ユートピアになるかディストピアになるかは、まだ誰にも分からない。確かなのは、私たちは今、「心」という最も深遠な謎を解き明かすための、全く新しい、そして極めて強力なツールを手にしたということだ。このツールをどう使いこなし、人類の幸福のために役立てていくのか。その責任は、科学者だけでなく、社会全体、つまり私たち一人ひとりにかかっているのである。


論文

参考文献

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