AIが産業構造や安全保障の力学さえも塗り替えようとしている現代、その頭脳となる計算基盤を巡る国家間の覇権争いは、かつてない激しさを増している。まさに次世代の戦争の最前線で、日本が次の一手を打った。理化学研究所(理研)は、スーパーコンピュータ「富岳」の後継機、通称「富岳NEXT」の基本設計を富士通に委託すると発表。その心臓部には、同社が独自開発する次世代CPU「FUJITSU-MONAKA-X」が搭載される。
これは世界トップレベルの性能を誇った「富岳」の遺産を受け継ぎつつ、AI時代の要請に正面から応えようとする野心的な挑戦だ。そしてその根底には、日本の技術主権と産業競争力の未来を賭けた、国家戦略が横たわっている。
ベールを脱いだ心臓部「MONAKA-X」の技術的野心
「富岳NEXT」の性能と性格を決定づけるのが、その頭脳となるCPU「FUJITSU-MONAKA-X」(仮称)である。これは、富士通が2027年の市場投入を目指して開発中の汎用CPU「FUJITSU-MONAKA」の技術を基盤とし、スーパーコンピューティング向けにさらに進化させたものだ。

現在明らかになっている「MONAKA」のアーキテクチャは、その野心的な設計思想を雄弁に物語る。
- 製造プロセス: 最先端の2nmプロセスを採用。これにより、電力効率と性能の大幅な向上が期待される。
- コア構成: 最大144個のArmv9命令セットアーキテクチャのコアを搭載。これは「富岳」のA64FXプロセッサ(48コア)の3倍にあたる規模だ。各コアは、Armのベクトル拡張命令SVE2をサポートし、科学技術計算における高い性能を発揮する。
- チップレット構造: 144個のコアは、36コアを持つ4つのCPUタイル(チップレット)に分割して実装される。このモジュール化された設計は、製造における歩留まりを向上させると同時に、将来的な拡張性や異なる機能を持つチップレットとの組み合わせにも道を開く。
- メモリ構造: 各CPUタイルの下には、高速なSRAM(スタティックRAM)を3D積層する。プロセッサコアの直下に大容量キャッシュを配置することで、データアクセスの遅延を極限まで削減する狙いがある。これは「富岳」のA64FXがHBM2(高帯域幅メモリ)を搭載した思想を、さらに進化させたアプローチと言えるだろう。
- インターフェース: メモリはDDR5に対応し、外部との接続にはPCI Express 6.0や、プロセッサやアクセラレータ間の高速接続を実現するCXL 3.0といった最新規格をサポートする。
興味深いのは、富士通が「MONAKA」をあくまで「汎用CPU」と位置づけている点だ。これは、特定のアクセラレータに縛られることなく、例えばAMDのInstinct GPUなど、様々なパートナーの技術と柔軟に連携できるオープンなエコシステムを志向していることを示唆している。富士通のCTOであるVivek Mahajan氏が「多様なパートナーシップを築く」と語るように、「MONAKA-X」は閉じた独自路線ではなく、協調と連携を前提とした戦略の上に成り立っているのである。
なぜ自前主義なのか?「Made with Japan」に込めた国家戦略
世界を見渡せば、HPC(ハイパフォーマンス・コンピューティング)市場は米国のNVIDIAやAMD、Intelといった巨大企業が席巻している。なぜ日本は、莫大な投資を必要とするCPUの自社開発にこだわるのだろうか。その答えは、理研が掲げる「Made with Japan」というスローガンと、「AI for Science」というコンセプトに隠されている。
1. AI時代の新たな羅針盤「AI for Science」
従来のスーパーコンピュータは、主に物理現象を忠実に再現する「シミュレーション」の領域でその力を発揮してきた。しかし、生成AIの爆発的な進化は、科学研究のあり方そのものを変えつつある。膨大な実験データやシミュレーション結果をAIに学習させ、新たな仮説を自動生成させたり、未知の物質の特性を予測させたりする「AI for Science」が、新たな研究パラダイムとして急速に台頭しているのだ。
「富岳NEXT」は、この潮流に真正面から応えることを目指す。「富岳」で培った世界最高峰のシミュレーション能力というアプリケーション資産を継承しつつ、「MONAKA-X」に最先端のAI処理加速機能を組み込むことで、シミュレーションとAIが緊密に連携する新たな計算基盤を構築しようとしている。これは、従来の科学計算能力とAI性能を両立させるという、極めて挑戦的な目標だ。
2. 「戦略的不可欠性」の確保という安全保障
CPUやGPUといった半導体は、現代社会における石油とも言える戦略物資だ。特定の外国技術に完全に依存することは、経済安全保障上の大きなリスクを伴う。海外メディアが指摘するように、自国で先端プロセッサを設計・開発する能力を維持することは、他国に対する技術的な優位性だけでなく、国際社会における「戦略的不可欠性」を確保する上で極めて重要である。
「富岳」の開発で培われた技術と人材を「富岳NEXT」に継承し、さらに発展させる。このサイクルを回し続けることこそが、日本の技術主権を守り、未来の産業競争力の源泉を確保するための国家戦略なのである。
「ゼタスケール」の真実 – AIと科学計算、二兎を追う野心
「富岳NEXT」を巡る報道では、「ゼタスケール級」という言葉が一部で飛び交い、現行最速機の1000倍といったセンセーショナルな見出しも見受けられる。しかし、この数字を鵜呑みにするのは早計だ。この言葉の裏には、HPCの世界における性能指標の複雑さが隠されている。
- FP64(倍精度浮動小数点演算): 伝統的な科学技術計算で用いられる極めて高い精度の計算。スーパーコンピュータの性能ランキング「TOP500」は、このFP64の性能を基準としている。現在のトップクラスであるエクサスケール機は、1秒間に100京回(1エクサフロップス)のFP64演算性能を持つ。
- FP8/FP16(8ビット/16ビット精度): AIの学習や推論で主に用いられる、より低い精度の計算。精度を下げることで、同じハードウェアでも演算速度を飛躍的に高めることができる。
文部科学省の資料によれば、「富岳NEXT」はエクサスケール級のFP64性能を目指すとされている。これが実現すれば、米国が独占する現行のトップ性能に再び肉薄し、世界最速の座を奪還する可能性も視野に入る。
一方で「ゼタスケール」(1秒間に1000京回の1000倍=10垓回)という目標は、この低精度なAI演算性能を指していると考えられる。つまり、「富岳NEXT」は、「科学計算ではエクサスケール、AI処理ではゼタスケール」という、二つの異なる物差しで世界最高性能を狙う、ハイブリッドな野心を抱いているのだ。これは、前述の「AI for Science」を実現するための必然的な設計思想と言えるだろう。
エクサスケール競争のその先へ – 日本が描く未来図
「富岳」は、その圧倒的な計算能力を活かし、新型コロナウイルスの飛沫シミュレーションなどで社会に大きく貢献し、その存在価値を示した。そのバトンを受け取る「富岳NEXT」は、2027年以降の稼働を目指し、消費電力を40メガワット以下に抑えるという厳しい制約の中で開発が進められる。
このプロジェクトの成否は、単にハードウェアの性能だけで決まるものではない。それを使いこなすソフトウェア、アプリケーション、そして世界中の研究者が集うオープンなエコシステムを構築できるかにかかっている。
富士通と理研が率いる「富岳NEXT」プロジェクトは、単なる計算機の開発を超え、AI時代の新たな科学と産業の姿を模索する壮大な航海である。かつて「富岳」が未知のウイルスとの戦いに光明を差したように、「富岳NEXT」は、エネルギー問題、新素材開発、個別化医療といった、我々が直面するさらに複雑で巨大な課題に、どのような答えを示してくれるのだろうか。
Sources
- 国立研究開発法人理化学研究所:「富岳NEXT」の全体システムなどに関わる基本設計の業務実施者を富士通株式会社に決定