人間の意識ですら、現在の科学が正しく測れていない可能性がある。Neuron誌に掲載された論文"The Ethical Impasse of Current Consciousness Science"(DOI: 10.1016/j.neuron.2026.04.007)[1]で、韓国・基礎科学研究院(IBS)のHakwan Lau氏とVincent Taschereau-Dumouchel氏らの研究チームはそう主張する。意識科学が30年かけて積み上げてきた実験知見の多くが、実は「意識を測った結果」ではなく「脳の一般的な情報処理を測った結果」に過ぎない可能性があるという指摘は、主要な意識理論の実証的支柱を問い直す。この論文は「AIに意識があるかどうか」を問うものではない。今の科学的手法が、そもそも意識を判定する能力を持っているかどうかを問うている。

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視覚マスキングと知覚閾値検出が測っているのは「意識」か「情報処理」か

意識科学の実験室では長年、いくつかの標準的な手法が使われてきた。視覚マスキング(visual masking)は画像を高速で前後に挟み込んで被験者が知覚できないようにし、「意識に上らない状態」と「意識に上った状態」を作り出す。両眼視野闘争(binocular rivalry)は左右の目に異なる映像を見せ、脳が交互にどちらかを「選ぶ」現象を利用して意識的知覚を操作する。知覚閾値検出(perceptual threshold detection)は刺激の強度を変えながら「見えた・見えなかった」の報告を収集する。これらはいずれも被験者が「何かを意識した」タイミングを特定するための手法だ。

視覚マスキングで画像が知覚されない場合、それは本当に意識が生じていないのか、それとも意識は生じているが処理が浅いだけなのか。知覚閾値の前後で脳活動が変化しても、その変化が主観的体験の有無を反映しているのか、単なる信号処理の強弱なのかは判別できていない。「現在の多くの意識理論は幅広い実験知見に支持されているように見えるが、それらの知見は実は意識そのものではなく一般的情報処理を反映しているかもしれない」とLauは論文で述べている。「意識があるかどうか」と「情報を処理しているかどうか」を区別できていない点が、これらの実験パラダイム全体に共通する構造的な問題だ。

なぜ「測れない」のか?盲視と半側空間無視が示す解離

後頭葉(視覚野)が損傷した患者は、視野の一部で「何も見えない」と報告する。ところが、その「見えない」領域に何かがあるかどうかを当てさせると、偶然を超える確率で正解する。さらに「そこに何があったか」を推測させると、特定の方向や形状を部分的に把握できている。この盲視(blindsight)と呼ばれる症例は、意識的知覚がなくても視覚情報の処理が継続していることを示す。

標準的な意識実験では多くの場合、被験者に「見えたかどうか」を報告させる。しかし盲視が示すように、情報処理と意識的知覚は独立して存在しうる。被験者が「見えた」と報告する背景に、情報処理のレベルが上がったのか、それとも主観的な「見ている感覚」が生まれたのか——この2つをほとんどの実験は切り離せていない。

半側空間無視(hemispatial neglect)の症例はさらに別の解離を示す。主に右半球の脳卒中後に生じるこの症状では、患者は空間の左側への意識的注意を失う。しかし実験によっては、注意が向かない側の情報が行動や判断に影響を与えていることが示される。意識的注意と情報処理がここでも乖離する。

Lauらが提案するのは、こうした神経心理学的症例を意識研究の実験パラダイムとして積極的に活用することだ。損傷によって意識と情報処理が自然に解離している患者群を対象にすれば、「意識が関与した場合」と「意識なしに情報処理された場合」を実験的に比較しやすくなる。標準的な健常者実験では操作で作り出すしかないこの区別が、症例研究では「現実の解離」として観察できる。

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行動主義が辿った轍:意識研究が今また繰り返す誤り

Lauらの論文が持ち出す歴史的な対比は、現代の危うさを照らし出す。20世紀初頭、心理学は内省報告を科学的データとして扱うことへの批判から行動主義へと転換した。「主観的体験は測れない、だから行動だけを見よ」という立場は科学としての厳密性を高める一方、意識や主観性の問題を科学の外に追いやった。

論文はこの歴史を鏡として示し、今また意識研究が似たような誤りを犯しているのではないかと指摘する。「主観的報告に頼りたくない」という心理が研究者を神経指標や行動指標だけに向かわせ、「主観的体験を測る実験のつもりで、実は情報処理を測っている」という逆説的な事態が生じているというものだ。意識を避けようとした結果、意識を捉えられない手法だけが残った——という構図は、行動主義が意識を追放した歴史の反復に見える。

2025年4月に『Nature』誌に掲載されたCOGITATE研究[3]は、この文脈でLau氏らの論文に重みを加える。Global Workspace Theory(GWT/大域的ワークスペース理論)と統合情報理論(IIT)という意識科学の二大理論を7年間の対立的共同実験で検証したこの研究は、どちらの理論も主要予測を完全には支持できないという結果をもたらした。GWTが予測する前頭前野での「イグニション」反応は確認されず、IITが予測する後部皮質での持続的なガンマ帯域コネクティビティも欠如していた。両理論の検証に使われた実験パラダイム自体が意識と情報処理を混同している可能性があるとすれば、これは理論の失敗ではなく検証方法の失敗だという解釈が生まれる。Lauらの論文は、2つの主要理論が同時に揺らいだこの結果に「実験手法自体の問題」という別の角度からの問いを重ねている。

AIと倫理政策:科学的根拠が崩れるときの代償

「意識の科学的判定は難しい」という話は、抽象的な認識論にとどまらない。AIシステム・動物・ヒト胎児・ヒト幹細胞から作られたオルガノイドの意識に関する科学的主張が、倫理ガイドラインや法的保護の議論に直結しつつある現在、その判断の根拠が揺らぐことには具体的な社会的意味がある。Neuron論文でLauは次のように述べている:「意識に関する科学的主張が動物福祉・AI倫理・生命倫理の議論に影響を与えるなら、その科学的根拠は特に厳格でなければならない」。

この提言が示す方向性は、「意識の科学を諦めよ」というものでも「AIに意識はない」というものでもない。使用している道具——実験パラダイム——が本当に意識を捉えているのかを問い直すことで、倫理政策の土台となるべき科学をより確かなものにする必要があるということだ。「AIは意識がない」とも「ある」とも言える科学的証拠が現状では存在するが、その証拠の多くが意識ではなく情報処理を反映しているとすれば、いずれの主張も足場を失う。意識を問う前に、その問いに答える道具を手に入れなければならない——これが論文の核心だ。