かつて革新的なUIで話題をさらったブラウザ「Arc」。その開発元であるThe Browser Companyが、AIをWeb体験の核に据えた全く新しいブラウザ「Dia」のMac向けベータ版をリリースした。The Browser Companyは、Arcが直面した「斬新すぎた」という挫折からの学び、そしてAIがインターネットの未来そのものであるという、信念の下、壮大な賭けに出た。単なる情報の閲覧ツールから、ユーザーの思考と行動をサポートする真の「相棒」へ――Diaは、ブラウザの新たな未来像を提示しているのかもしれない。
なぜArcは終わり、Diaは始まったのか?「普通」への回帰という戦略
The Browser CompanyのCEO、Josh Miller氏は、前作Arcが一部の熱狂的なファンを獲得した一方で、多くのユーザーにとっては「斬新すぎた」と率直に認めている。サイドに配置されたタブ、無限の整理方法。そのユニークなUXは、慣れ親しんだブラウザ体験からの逸脱が大きく、結果として大規模な普及には至らなかった。Miller氏が指摘するこの「急すぎる学習曲線」が、Arcの開発を停止し、Diaへと舵を切る大きな理由となった。
Miller氏がThe Vergeに語ったところによると、Diaは意図的に「Chromeにチャットボットが付いた」ような、より親しみやすいインターフェースを採用しているという。水平に並んだタブ、多くのユーザーが慣れ親しんだChromiumベースの操作感。これは、Arcの失敗から得た「ユーザーに新しい行動を強いるのではなく、慣れ親しんだ行動の中に新しい価値を溶け込ませる」という深い内省に基づいた戦略的判断だ。

一見すると、チャットボットとの対話もまた「斬新な」行動に思えるかもしれない。しかしMiller氏は、ChatGPTが史上最速で普及したアプリケーションであり、特に若者にとってはAIとの対話がすでに第二の天性となりつつあると指摘する。このトレンドを確信するならば、ブラウザの中心にAIを据えるというDiaのコンセプトは、もはや斬新なのではなく、必然と言えるのかもしれない。
Diaの心臓部:開いているタブすべてを理解するAIアシスタント
Diaの最も際立った特徴は、ブラウザの右側に位置するAIアシスタントだ。これは単にWebページの上に浮かぶチャットボットではない。ユーザーが開いているすべてのタブ、閲覧履歴、さらにはログイン済みのサイト情報までを文脈として理解し、対話できる能力を持つ。

複数タブを横断する「@メンション」機能
Diaの真価は、複数の情報源をシームレスに扱える点にある。The Browser Companyが初期のアルファテスターに向けたテストを紹介する動画では、Diaが複数のタブにまたがる資料を横断的に読み込み、ドラフトを作成するデモを紹介している。
同社によれば、Diaによって以下のような使い方が可能になる。
- 研究・調査: 複数の論文PDFやWeb記事をタブで開き、「
@all open tabs
(開いているすべてのタブ)を基に、量子コンピューティングの最新動向を要約して」と指示する。 - 旅行計画: 複数のホテルの予約サイト、フライト情報、観光地のレビューページを開き、「これらの情報から、予算3万円以内で最も評価の高い1泊2日の旅程を組んで」と依頼する。
- 仕事: Slackのスレッド、関連するGoogle Docs、メールの内容をまとめて参照し、「これらの議論を基に、クライアントへの進捗報告メールの草稿を作成して」と指示する。
これは、従来のように情報をコピー&ペーストしたり、アプリ間を行き来したりする手間を完全に排除する。DiaのAIはブラウザが見ているものをすべて見ており、ユーザーの思考の延長線上で機能するのだ。
App Storeを目指す「スキル」と賢い「ルーティング」
The Browser Companyは、一つの万能AIを作るのではなく、「スキル(Skills)」と呼ばれる特定タスクに特化したAI機能のエコシステム構築に注力している。これは、同社のCTOであるHursh Agrawal氏が「ルーティングシステム」と呼ぶ技術によって支えられている。
- スキル (Skills): 例えば、ユーザーが「コートを探して」と尋ねると、Diaは「ショッピングスキル」を起動する。このスキルは、ユーザーがAmazonや他のECサイトで見ていた商品の履歴を記憶しており、よりパーソナライズされた提案を行う。メール作成時には「ライティングスキル」が起動し、ユーザーの過去のメール文面や好みの作家の文体を反映したドラフトを作成する。
- ルーティングシステム (Routing System): ユーザーの入力(インテント)に応じて、最適なスキルを自動的に選択し、適切なUIと共に提供する。これにより、ユーザーはタスクごとにAIモデルを意識することなく、シームレスな体験を得られる。
これは、iPhoneのApp Storeが特定の目的を持つ無数のアプリで構成されていることに似ている。Diaは、AIの世界におけるプラットフォームとなることを目指しているのだ。
ブラウザだからこそ可能な未来:Cookieが拓く「AIエージェント」の扉
Diaが他のAIチャットと一線を画す、より強力で、そして少し不気味なほどの可能性を秘めているのが「Cookie」の活用だ。ブラウザはユーザーがログインした全てのWebサイトのCookieを保存している。これは、Diaが単にWebページを見るだけでなく、ユーザーに代わってログイン済みのサイトと対話できることを意味する。
Agrawal氏によれば、The Browser Companyはすでにこの技術を使って会議の予約やレストランの予約を自動で行うエージェントツールを内部で開発していたという。しかし、ブラウザが勝手に操作しているような感覚がユーザーに不安を与えるため、現時点ではDiaに全面的なエージェント機能は搭載されていない。
だが、これは未来への布石だ。将来的には、私たちのブラウザがパーソナルなAIエージェントたちの司令塔となり、私たちの指示一つでWeb上のあらゆるタスクを代行してくれる世界が来るかもしれない。その時、最もユーザーを理解しているブラウザこそが、デジタルライフの中心となるだろう。
プライバシーという最大の課題への挑戦
ただし、これほどのパワーは、深刻なプライバシー懸念と表裏一体である。自分の個人情報や健康情報、金融情報までブラウザが「知っている」と認識させられた時、ユーザーはそれを「便利」と捉えるか「恐怖」と捉えるか。
この点についてAgrawal氏は、Diaの開発当初からプライバシーとセキュリティが核であったと繰り返し強調している。
- データはローカルに: ユーザーのデータはすべてローカルコンピュータ上で暗号化されて保存される。
- サーバー処理は一瞬: 処理のためにサーバーに送信されたデータも、ミリ秒単位で処理された後すぐに消去される。
- 機微な情報の除外: 健康や金融など、特に機微な情報は保存・記憶しないように設計されている。
将来的には、ほとんどの処理をローカルで完結させることを目指しているという。ユーザーの信頼なくして、AIブラウザの未来はありえない。そのことをThe Browser Companyは深く理解しているようだ。
AIブラウザ戦国時代、Diaの勝算は「パーソナライゼーション」
すでにGoogleはGeminiをChromeに統合し、PerplexityもAIブラウザを開発するなど、AIブラウザを巡る競争は激化している。この戦国時代において、Diaが賭けているのは究極の「パーソナライゼーション」だ。
Miller氏は、これを音楽ストリーミングアプリに例える。「私がApple Musicに乗り換えないのは、Spotifyが長年かけて蓄積してきた私の音楽の好みを、Apple Musicは知らないからです」。
Diaも同様に、ユーザーがタブを開くたびに、より賢く、よりパーソナルな存在になっていくことを目指す。人々が最終的にDiaを愛するのは、タブの整理がうまいからではなく、Diaが「自分」を誰よりも理解してくれるパートナーになるからだ、と。
Arcの挑戦と挫折を経て、The Browser Companyがたどり着いたAIファーストという答え。Diaは、単なる新しいブラウザではなく、Webと人間の関係性を再定義しようとする壮大な実験だ。そのベータ版が、今、私たちの手元に届けられた。少しでも興味のあるユーザーは試してみる価値があるのではないだろうか。Diaは現在ウェイトリストを用意して、あなたのベータテスト参加を受け付けている。
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