革新的な掃除機やドライヤーで知られる英国 Dysonが、今、最も力を注ぐ分野の一つが「農業」だ。一見、意外に見える組み合わせだが、同社が英国リンカンシャー州の広大な農地で稼働させている巨大なガラスハウスには、これまでに培ってきたDysonエンジニアリングの粋が結実した「観覧車型」の垂直栽培システムが構築されており、既に収穫量を実に250%も向上させ、年間1,250トンのイチゴを生産すると言う、驚異的な結果を叩き出しているとのことだ。
これは、製造業のDNAが食料生産のあり方を根底から覆す「農業の精密化」という、新たな潮流を生み出す動きであり、英国が抱える冬期のイチゴ輸入依存問題(実に90%を海外に頼り、平均2,351マイルの長距離輸送を伴う)や、従来の農業が地球環境に与える負荷といった課題に対するDysonならではの鮮やかな回答を提示する物と言えるだろう。
「工業化」から「精密化」へ:Dyson流農業の核心技術
20世紀の農業が「工業化」による規模拡大を追求したとすれば、Dysonの挑戦は「精密化」による質と効率の最大化を目指すものだ。その象徴が、リンカンシャー州の26エーカー(約10.5ヘクタール)の敷地に建設されたガラスハウスで試験運用され、目覚ましい成果を上げた「ハイブリッド垂直栽培システム」である。
観覧車が育てる未来のイチゴ

通称「フェリスホイール(観覧車)」と呼ばれるこのシステムは、まさに圧巻の一言だ。高さ5.5メートル、長さ24メートルにも及ぶ2基の巨大なアルミニウム製リグが、イチゴの苗が植えられたトレイをゆっくりと回転させる。この回転により、全ての株が最適な自然光を均等に浴びることができる。日照時間の短い冬期にはLEDライトがそれを補い、一年中、理想的な光環境を維持する。
Dysonのエンジニア、Robert Kyle氏が「Dysonが作った史上最大の装置」と語るこのシステムは、単に空間を有効活用するだけではない。12ヶ月にわたる試験運用で、従来の水平栽培に比べて収穫量を250%も増加させるという驚異的な結果を実証した。これは、農業生産性におけるブレークスルーと言って過言ではないだろう。
24時間働く「精密な農夫」たち
このハイテク農場では、人間の代わりにロボットが精密な作業を担う。
- 自動収穫ロボット: 16台のロボットアームが、搭載されたビジョンセンサーでイチゴの色づきを瞬時に判断。完熟した実だけを選び、繊細な手つきで一つひとつ丁寧に収穫する。創業者であるSir James Dyson氏によれば、これらのロボットはわずか1ヶ月で20万個ものイチゴを収穫したという。
- 病害予防ロボット: 夜間、ロボットが通路を静かに移動しながら、植物に特殊なUVライトを照射する。これにより、農薬を使うことなく、イチゴ栽培で問題となりがちなカビの発生を効果的に抑制する。
- 害虫駆除ロボット: 殺虫剤の代わりに、アブラムシなどの害虫を捕食する「天敵昆虫」をロボットが定期的に放出。生態系のバランスを利用した、持続可能な害虫管理を実現している。
これらのロボット群は、まさに24時間365日働く「精密な農夫」であり、Dysonが製造業で培ってきた機械工学、ロボティクス、そしてセンシング技術の粋を集めたものだ。
なぜ「掃除機の王者」は土に還ったのか? 英国の課題とDysonの戦略

Dysonの農業参入の背景には、同社の技術的野心だけでなく、英国が直面する食料安全保障という深刻な課題が存在する。
英国では、特に冬季において消費されるイチゴの実に90%が輸入品に依存している。それらのイチゴは、平均して2,351マイル(約3,780km)もの距離を輸送されており、莫大なフードマイレージとそれに伴う環境負荷を生み出しているのが現状だ。
この状況に対し、Sir James Dyson氏は明確な問題意識を持っている。「英国が自国の食料を育てることは非常に重要だと考えている」と彼は語る。「モノづくりと作物を育てることは似ている。私は製造業者として、どうすればもっと効率的にできるか、どんな技術を導入すれば品質や味を向上させ、土地をより有効に使えるか、という視点で農業にアプローチしているのです」。
彼の言葉は、この事業が単なる思いつきの多角化ではなく、国家的な課題をテクノロジーで解決しようとする、Dyson本来の企業哲学に基づいていることを示している。実際に、この施設で生産されたイチゴは、すでに英国の大手小売業者であるMarks and Spencerなどで販売されており、商業的な持続可能性も視野に入れた、現実的なビジネスモデルが構築されているのだ。
究極のサステナビリティ:エネルギーさえも「地産地消」する循環型エコシステム

Dyson Farmingの最も注目すべき点は、その徹底した持続可能性へのこだわりだ。単にハイテクなだけでなく、環境と調和した「循環型農業」のモデルケースを提示している。
その心臓部となるのが、ガラスハウスに隣接する「嫌気性消化装置」だ。この装置は、周辺の畑から出る作物残渣などを微生物の力で分解し、バイオガスを生成する。
- エネルギー生産: 生成されたバイオガスでタービンを回し、発電する。その発電量は、一般家庭約10,000世帯分の電力に相当し、施設自身の動力源となるだけでなく、余剰分は地域へ供給される。
- 熱の再利用: 発電の過程で生じる余剰熱は、ガラスハウスの暖房に利用される。これにより、化石燃料を使うことなく、冬季でもイチゴの生育に最適な温度が保たれる。
- 有機肥料の生産: 分解後の副産物である消化液(digestate)は、栄養豊富な有機肥料として畑に戻され、土壌を豊かにし、次なる作物の収穫を支える。
- 水の循環: 長さ760メートルに及ぶ広大なガラスハウスの屋根で雨水を集め、貯水池に保管。これを植物への水やり(灌漑)に利用する。
農作物の残渣がエネルギーとなり、そのエネルギーと熱が新たな作物を育て、副産物が再び土壌を豊かにする。この完璧な循環ループは、エネルギーと資源の「地産地消」を実現し、環境負荷を最小限に抑える未来の農業の姿を具体的に示している。
垂直農業の地平線とDysonの次なる一手
Dysonの取り組みは、世界の農業技術開発競争においてもユニークな立ち位置を占めている。近年、注目を集める垂直農業は、主に都市部の閉鎖された倉庫内で、完全に人工光のみで栽培する「植物工場」モデルが主流であった。
しかし、Dysonのアプローチは、広大な土地で自然光を最大限に活用し、それをテクノロジーで補完・最適化する「ハイブリッド型」だ。これは、初期投資や運営コストを抑えつつ、大規模生産を可能にする点で、よりスケーラブルで現実的な解決策となる可能性を秘めている。
Dyson FarmingのDaniel Cross氏は、「この成功はイチゴだけに適用される必要はない」と語り、この革新的な栽培システムが他の作物へ応用される可能性を示唆している。葉物野菜、ハーブ、あるいはさらに付加価値の高い医薬品原料など、その応用範囲は無限大だ。
Dysonの挑戦は、まさに成長を続ける自律農業機器市場への号砲と言えるだろう。ハードウェア(栽培リグ、ロボット)、ソフトウェア(環境制御、データ分析)、そしてエネルギー(循環システム)が統合されたDysonの農業は、もはや単一の技術ではなく、一種の「農業用オペレーティングシステム(OS)」として機能し始めている。
かつてSir James Dysonがサイクロン技術で掃除機を再発明したように、今、彼は製造業の精密なDNAを農業に注入し、「食」の未来を再発明しようとしている。その挑戦は、気候変動や人口増加といった人類規模の課題に対し、テクノロジーがいかにして希望ある答えを提示できるかを示す、力強いメッセージとなっている。
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