かつてAdobe200億ドルという巨額でその才能に惚れ込みながらも、規制の壁に阻まれ破談となったデザインソフトウェアの寵児、Figma。そのFigmaが、ついに独立した航海へと乗り出す。同社は新規株式公開(IPO)に際し、最大で164億ドル(約2.6兆円)という野心的な企業価値評価を目指していることを明らかにした。この動きは、冷え込んでいたテックIPO市場に確かな熱気をもたらすだけでなく、その「異例」とも言えるIPOの構造から、Figmaのしたたかな戦略と未来への強い意志が透けて見える。

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驚異的な成長が支える164億ドル評価の説得力

Figmaが提示したIPOの具体的な内容は、その自信を裏付けるものだ。

  • 公開規模:3,710万株を1株あたり25ドルから28ドルの価格帯で販売。
  • 調達額: 価格帯の上限で実現した場合、最大で約10.3億ドル(約1,650億円)に達する見込み。
  • 企業価値評価額: 完全希薄化後ベースで146億ドルから164億ドル。
  • 上場先: ニューヨーク証券取引所(NYSE)で、ティッカーシンボルは「FIG」。

この強気な評価を支えているのは、同社の圧倒的な成長力に他ならない。提出された目論見書によれば、業績はまさに右肩上がりだ。

2025年第1四半期(1-3月期)の収益は前年同期比46%増の2億2,820万ドルに達し、純利益に至っては同期間で3倍以上となる4,490万ドルを記録した。続く第2四半期(4-6月期)の速報値でも、収益は39%41%増と高成長を維持し、営業利益率も前年同期の3%から4〜5%へと改善する見込みであることが示されている。

この成長の原動力は、Figmaが単なる「デザイナー向けツール」の枠を大きく超えている点にある。Figmaのユーザーは1,300万人を超えるが、そのうち3分の2はプロのデザイナーではないという。エンジニア、プロダクトマネージャー、マーケターといった、デザインに直接関わらない職種の人々が、コラボレーションのハブとしてFigmaを日常的に利用しているのだ。特に2023年に導入された、デザイナーと開発者の連携をスムーズにする「Dev Mode」は、今や月間アクティブユーザーの約30%を占めるまでに成長し、この「越境」戦略の成功を象徴している。

さらに、エンタープライズ市場への浸透も著しく、Fortune 500に名を連ねる企業の95%が顧客に含まれているという事実は、Figmaが単なる人気ツールではなく、現代の製品開発に不可欠なインフラとなりつつあることを示している。

Adobeとの破談から1年半、市場が下す新たな審判

今回のIPOを語る上で、2022年に発表されたAdobeによる200億ドルの買収提案と、その後の破談は避けて通れない。規制当局からの厳しい視線を受け、この世紀のディールは2023年末に白紙撤回された。

今回の目標評価額164億ドルは、Adobeが提示した200億ドルには及ばない。しかし、これは失敗を意味するものではない。むしろ、2024年に行われたテンダーオファー(既存株主向けの株式売買)での評価額12.5億ドルから大幅に上昇しており、市場がFigmaの独立した成長ストーリーに強い期待を寄せていることの証と言える。Adobeという巨人の傘下に入ることなく、自らの力で航海を続ける道を選んだFigmaに対し、市場が新たな「信任」を与えようとしているのだ。

この破談は、結果としてFigmaに独自の進化を遂げる時間と自由を与えた。その成果が、前述の好調な業績となって表れていると言っても過言ではないだろう。

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「異例」の株式放出が映し出す二つのシグナル

今回のFigmaのIPOで最も注目すべきは、その株式放出の構造である。売り出される約3,710万株のうち、会社が新たに発行する新株は約1,250万株に過ぎない。残りの約2,470万株、つまり全体の3分の2近くが、CEOや初期投資家といった既存株主による売出なのだ。これは、企業の資金調達を主目的とする一般的なIPOとは一線を画す。この異例の構造からは、二つの重要なシグナルを読み取ることができる。

第一のシグナルは、市場環境へのしたたかな適応だ。
長らくテックIPOが低迷し、ベンチャーキャピタル(VC)は投資先からの資金回収(エグジット)が困難な「流動性飢餓」の状態にあった。今回のIPOで初期投資家たちにまとまった売却機会を提供することは、彼らの長年の支援に報いると同時に、VC市場に渇望されていた現金を還流させる意味合いを持つ。
一方で、これはFigmaの株に対する旺盛な需要を見越した戦略でもある。もし会社の新株発行のみであれば、市場の買い需要を満たすには供給が不足しかねない。既存株主の保有株を放出することで、IPOの規模を確保し、市場の期待に応えようという意図が見える。

第二のシグナルは、経営陣の揺るぎない自信と長期ビジョンだ。
共同創業者兼CEOのDylan Field氏も、自身の保有する株式のうち235万株を売却し、最大で約6,580万ドル(約105億円)を手にする計画だ。しかし、これは決して「売り逃げ」ではない。彼はIPO後も、1株あたり15の議決権を持つ「クラスB株」と共同創業者の議決権代理行使により、全議決権の74%を掌握し続ける。これは、短期的な利益確定よりも、会社の長期的な舵取りへの強いコミットメントを示すものだ。一部をキャッシュ化しつつも、経営の支配権は決して手放さない。この姿勢こそが、Figmaの未来に対する彼の自信の表れと言えるだろう。

AI、M&A、そしてビットコイン – Figmaが描く未来図

IPOによって得られるであろう潤沢な資金と、強固な経営基盤を武器に、Figmaは次なる成長フェーズへと向かう。その未来図を読み解く鍵は、いくつかの興味深い動きの中に見出せる。

まず、AIへの本格的な取り組みだ。新たに取締役に名を連ねたのは、Instagramの共同創業者で、現在はAIモデル開発企業Anthropicの最高製品責任者を務めるMike Krieger氏と、言語学習アプリDuolingoの共同創業者兼CEOであるLuis von Ahn氏だ。この人選は、FigmaがデザインプロセスにAIを深く統合し、グローバルな成長をさらに加速させようとしている明確なシグナルである。

次に、M&Aによる「大きな賭け」の可能性だ。Reutersの報道によれば、CEOのField氏はM&Aに対して積極的な姿勢を示唆している。IPOで得た資金を元手に、自社のプラットフォームを補完する技術やチームを獲得し、一気に事業領域を拡大する未来も十分に考えられる。

そして、最もユニークなのが、暗号資産への投資だ。Figmaは3月末時点で約7,000万ドルをビットコインETFに投資しており、さらに3,000万ドルの追加投資を計画している。また、目論見書には「ブロックチェーン普通株式」の発行権限を承認したという記述もある(現時点で具体的な計画はない)。これは、テック企業としては異例の動きであり、単なる余剰資金の運用というだけでなく、Web3時代のクリエイターエコノミーを見据えた、未来への布石である可能性も否定できない。

もちろん、未来は追い風ばかりではない。AIによるデザイン自動化ツールの進化が、皮肉にもFigmaのようなプラットフォームへの依存度を低下させるリスクも指摘されている。また、収益の過半を米国外から得ている同社にとって、国際的な経済情勢や貿易摩擦は無視できない不確実要素だ。

しかし、FigmaはこのIPOによって、Adobeとの歴史的な交渉を経て自らの真価を市場に問い、圧倒的な業績と「デザイナー以外」をも巻き込むエコシステムを武器に、デザインソフトウェア業界の絶対的盟主としての地位を固める動きを進めるに違いない。その異例とも言えるIPOの構造は、現在の市場環境と投資家の期待、そして経営陣の自信が織りなす、計算し尽くされた戦略の結晶と言えるだろう。この航海は、果たして今後のテックIPOの新たな羅針盤となるのだろうか。


Sources