かつてAdobeが200億ドルという巨額を投じて手に入れようとしたデザインコラボレーションツール、Figma。規制の壁に阻まれた歴史的な買収劇から約2年、同社はついに、自らの足で公開市場の扉を叩くことを決断した。ニューヨーク証券取引所(NYSE)にティッカーシンボル「FIG」で上場を目指すという今回のIPO申請は、Adobeという巨人の影から完全に脱し、デザイン業界の未来を自ら定義しようとするFigmaの野心的な独立宣言と言えるだろう。S-1申請書から浮かび上がる驚異的な成長力、そして「AIとM&A」という二大エンジンを軸にした壮大な戦略は、同社が200億ドルの評価額という“呪縛”を解き放ち、新たな業界標準となる可能性を十分に示唆しているのではないだろうか。
蹉跌からの復活劇、ついに公開市場へ
FigmaのIPOへの道のりは、決して平坦なものではなかった。2022年、ソフトウェア業界の巨人Adobeによる200億ドルでの買収合意は、世界中のテクノロジー業界を驚かせた。しかし、この巨大な結合は、英国および欧州連合(EU)の規制当局から「市場の競争を著しく阻害する」との強い懸念を招き、2023年末に両社は買収の断念を余儀なくされた。
この破談は、一見するとFigmaにとって大きな挫折に映ったかもしれない。しかし、CEOのDylan Field氏は当時から冷静だった。「ベンチャーが出資するスタートアップが進む道は2つ。買収されるか、上場するかだ」。彼の言葉通り、Figmaは買収という道を徹底的に探った後、もう一つの選択肢であるIPOへと、驚くべきスピードで舵を切った。Adobeから受け取った10億ドルの契約解除金を元手に、Figmaは独立企業としての成長を加速させ、今回のIPO申請へと至ったのである。これは、逆境をバネに、より強固な企業として再起するシリコンバレーの王道ストーリーそのものだ。
S-1が暴く「200億ドルの価値」を裏付ける驚異的な成長力
今回公開されたS-1申請書は、Figmaの事業がいかに健全で、力強い成長を遂げているかを雄弁に物語っている。投資家が最も注目するであろう数字を見ていこう。
- 売上高の急成長: 2024年の通期売上は7億4900万ドルに達し、前年比で48%という驚異的な伸びを記録。直近の2025年第1四半期においても、売上は前年同期比46%増の2億2820万ドルと、その勢いは衰えていない。
- 高い収益性: 2025年第1四半期の純利益は4480万ドルを計上。前年同期の1350万ドルから3倍以上に増加しており、事業規模の拡大と収益性の向上が両立していることを示している。
- 強固な大口顧客基盤: 年間経常収益(ARR)が10万ドルを超える大口顧客は1,031社にのぼり、この数字は前年から47%も増加している。これは、単にユーザー数を増やすだけでなく、大企業への導入が進み、組織全体で不可欠なツールとして定着していることの証左だ。顧客リストにはNetflix、ServiceNow、Stripeといった名だたる企業が並ぶ。
これらの数字は、Adobeが提示した200億ドルという評価額が決して過大評価ではなかったこと、そして規制当局がなぜ市場の独占を懸念したのかを明確に裏付けている。Figmaは、独立した企業として、自らの力でその価値を証明し続けてきたのだ。
非デザイナーが牽引する「デザインの民主化」
Figmaの真の強みは、単なるプロ向けデザインツールに留まらない点にある。S-1によれば、月間1300万人を超えるユーザーのうち、実に3分の2がデザイナーではないという。エンジニア、プロダクトマネージャー、マーケターといった多様な職種の人々が、Figmaを共通言語としてプロジェクトを進めているのだ。
これは、Figmaが「デザインの民主化」を現実のものとしていることを示している。専門的なデザインスキルを持たないメンバーでも、直感的なインターフェースを通じてアイデアを視覚化し、フィードバックを交わし、製品開発のプロセスに深く関与できる。このコラボレーションのあり方こそが、Figmaを単なるツールから組織全体の生産性を向上させるプラットフォームへと昇華させている。
さらに、ユーザーの約85%、そして売上の半分以上(53%)が米国外から生み出されているという事実は、Figmaが国境を越えたグローバルスタンダードになりつつあることを示唆している。この普遍的な魅力こそが、今後の成長ポテンシャルを計る上で最も重要な指標の一つだと筆者は考える。
「AIとM&A」—未来への二大エンジン
Figmaは、現在の成功に安住するつもりはない。S-1の中で、CEOのDylan Field氏は未来への明確なビジョンを示している。その核となるのが「AI」と「M&A」だ。
AIへの賭け: Field氏は「AIへの投資をさらに倍増させる」と宣言。S-1の中で「AI」という言葉が200回以上も登場することからも、その本気度がうかがえる。短期的には「効率性の足かせになる可能性がある」とリスクを認めつつも、「AIはデザインワークフローが進化していく上での核心だ」と断言する。すでに、AIモデルがデザインサーバーにアクセスしコーディングを効率化する機能などを提供しており、今後はデザイン生成、プロセス自動化など、あらゆる面でAIを深く統合していく戦略だろう。これは、来るべきAI時代において、生産性ツールとしての地位を盤石にするための、未来への大胆な投資である。
積極的なM&A戦略: Field氏は「大きな賭けに出る」「大規模なM&Aを追求する」とも述べており、エコシステム拡大への強い意欲を示している。すでにデザインソフトウェアのModyfi、ヘッドレスCMSのPayloadなどを相次いで買収。これは、デザインという中核領域から、ウェブサイト構築、コンテンツ管理といった周辺領域へと事業を拡張し、開発プロセス全体をFigmaプラットフォーム上で完結させようとする野心の表れだ。自社開発と外部からの技術・人材の取り込みを両輪で進めることで、競合に対する優位性を一気に高める狙いがある。
200億ドルの壁と創業者Dylan Field氏の支配
投資家にとって最大の関心事は、IPO後のFigmaがAdobeの提示した200億ドルという評価額を超えられるかどうかだろう。昨年のテンダーオファー(従業員向けの株式売却)時点での評価額は125億ドルだったが、好調なIPO市場とFigma自身の力強い成長を鑑みれば、200億ドル超えも十分に視野に入る。
一方で、注目すべきは、IPO後も創業者CEOであるDylan Field氏が「二重議決権株式」によって経営の支配権を維持する点だ。これは、短期的な市場の圧力に左右されず、AIへの投資や大規模M&Aといった長期的視点に立った大胆な経営判断を可能にする。しかし、それは同時に、外部株主の意向が経営に反映されにくいというリスクもはらむ。Field氏のビジョンとリーダーシップが、Figmaの未来を左右する極めて重要な要素となることは間違いない。
彼はIPOの理由について、「私たちのコミュニティがFigmaの所有権を共有するという考えが好きだ」と語る。この言葉は、ユーザーと共にプロダクトを育ててきたFigmaの文化を象徴している。創業者の強力なリーダーシップと、オープンなコミュニティ文化。この二つを両立させながら、Figmaは公開企業としての新たな航海に乗り出す。
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