クラウドコンピューティングとAIの台頭は、データの集約化による利便性をもたらした一方で、深刻なプライバシーリスクを浮き彫りにしている。医療機関が患者のゲノムデータをクラウド上のAIモデルで解析したり、政府機関が機密情報を外部サーバーで処理したりする場合、データは計算プロセスにおいて必然的に復号化(平文化)され、情報漏洩やサイバー攻撃の脆弱性に直結する。

この根本的な課題を解決する手段として長年期待されてきた技術が、完全準同型暗号(Fully Homomorphic Encryption: FHE)だ。FHEは、データを暗号化した状態のまま数学的な演算を行い、その結果のみを返すことを可能にする。この技術が実用化されれば、クラウド事業者にデータを覗き見られることなく、安全に高度な演算処理を委託できる。

しかし、FHEの恩恵をシステムに実装する上で、現行のCPUやGPUアーキテクチャには越えがたい壁が存在していた。Intelが米国サンフランシスコで開催された「IEEE International Solid-State Circuits Conference(ISSCC)」において発表した専用アクセラレータ「Heracles」は、その壁を力技で突破し、暗号化コンピューティングの歴史的な転換点を提示するものだ。

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FHEが直面する演算の壁と汎用プロセッサの限界

FHEの仕組みは極めて複雑だ。量子コンピュータの攻撃にも耐え得る強固なアルゴリズムで暗号化されたデータ(暗号文)は、元のデータ(平文)と比較して桁違いに膨張する。Intelの回路研究ラボの研究者であるAnupam Golderが指摘するように、FHE処理においては「データサイズが数桁大きくなる」というデータ肥大化現象が避けられない。

さらに厄介なのは、暗号化データの状態で実行される特有の演算要求である。FHEの演算は、非常に巨大な整数を用いた複雑な多項式計算やデータ変換を伴う。一般的なCPUは高精度な計算をこなす能力を持つが、これらの巨大な演算を実行しようとすると、通常の加算や乗算の1万倍ものクロックサイクルを浪費する。CPUの構成は、暗号化回路が必要とする過酷な暗号学的ノイズのキャンセリング(Bootstrappingと呼ばれる処理)に最適化されていない。

一方、並列処理に特化したGPUを使えば解決するように思えるが、ここにも罠がある。GPUは機械学習モデルの訓練において威力を発揮するものの、各世代を経て設計が「より低い精度での大量並列計算」へ傾倒している。FHEが要求する厳密で高度な計算精度と特殊な変換操作(TwiddlingやAutomorphismなど)に対しては、GPUアーキテクチャは本質的に不適合を起こす。

Heraclesのアーキテクチャ:汎用プロセッサからの脱却と専用設計の必然性

Intelが発表したHeraclesは、ソフトウェアによる最適化の限界を見切り、ハードウェアの基盤からFHE専用の大規模設計を施したチップだ。DARPA(米国防高等研究計画局)の支援を受け、5年の歳月をかけて理論から回路設計に至るまでをゼロベースで構築した。

過去に発表されたFHE研究用チップが10平方ミリメートル以下に留まっていたのに対し、Heraclesは197平方ミリメートルの巨大なシリコンダイを占有する。Intelの最新プロセス技術である3nm FinFET技術で製造され、1.2GHzで駆動し、熱設計電力は176Wに達する。冷却には水冷システムが必要となり、PCIeアクセラレータカードとしてサーバーノードに接続される形態をとっている。

64のタイルペアと巨大な計算リソースの結合

Heraclesの心臓部には、64個の演算コア(タイルペア)が8×8のメッシュ状に配置されている。これらのコアは、FHE特有の多項式演算やノイズキャンセルを並列処理するためのSIMD(Single Instruction Multiple Data)エンジンとして機能する。

設計上の重要な決断は、64ビット等の巨大な数値を、精度を損なうことなく32ビットの演算ブロックへと分割し、並列処理を可能にした点にある。各タイルペアの内部には128の並列演算レーンが敷かれており、モジュラ加算、乗算、および数論変換(NTT)をサポートする特殊なバタフライ演算器が統合されている。これにより、ピーク時のバタフライ演算性能は約29.5 TOPS(Tera Operations Per Second)を叩き出す。

記憶層とデータパスの再構築:データ飢餓の回避

いくら演算エンジンを強化しても、巨大な暗号文をコアに供給し続けなければシステム全体がストールする。この「データの飢餓状態」を回避するため、Intelは思い切ったメモリアーキテクチャを採用した。

Heraclesのパッケージには、AI学習用GPUで採用されるような48GBの広帯域メモリ(HBM3)が直接搭載され、チップとの間を毎秒819GBのバンド幅で直結している。チップ内部には64MBのスクラッチパッドメモリ(キャッシュ)が配置され、コア間のデータは広い512バイトバスを通じて毎秒9.6TBという途方もない速度で飛び交う。

さらに、データと演算の競合を防ぐため、Heraclesは3つの同期された独立した命令ストリームを実行する。すなわち、オフチップへのデータ移動、オンチップでのデータルーティング、そして純粋な算術演算を完全に切り離して平行稼働させている。

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圧倒的なパフォーマンスが意味するビジネスの可能性

この重厚なアーキテクチャによって得られたパフォーマンス向上は圧倒的だ。Intelのテストによれば、 Heraclesは中核となるFHEのデータ変換処理をわずか39マイクロ秒で完了させる。これは、3.5GHzで駆動する24コアのIntel XeonサーバーCPUに対して2355倍の速度である。システム全体で見れば、FHEにおける7つの主要な演算タイプ全域で、Xeonと比較して1074倍から5547倍のスループットを実現している。

ISSCCの壇上で行われたライブデモは、このスケーラビリティの威力を如実に物語っていた。有権者が政府のデータベースに対し、自分の投票内容が正しく登録されているかを暗号化状態のまま照会するというシナリオにおいて、従来のCPUサーバーが1回の処理に15ミリ秒を要したのに対し、Heraclesは14マイクロ秒で計算を終えた。1回の照会では人間が知覚できない程度の差だが、これを1億人の有権者データにスケールさせた場合、CPUが17日以上延々と計算を続けるのに対し、Heraclesはわずか23分で照合作業を完了させる。

Intelのセキュリティ回路研究責任者であるSanu Mathewの「Heraclesは大規模で機能する初のハードウェアである」という発言は、FHEが研究室の数学実験から、クラウド環境の商用インフラになり得る段階に突入したことを明確に示している。

FHE市場の競争構造と業界の力学

IntelのHeraclesが圧倒的なハードウェアの暴力性でFHE領域を制圧しようとする一方で、この新市場を巡る競争は独自の生態系を形成しつつある。

DARPAの同プログラムから派生したスタートアップのNiobium MicrosystemsやDuality Technologyなどは、それぞれ異なるアプローチでFHEの実用化に挑んでいる。Duality TechnologyのCTOであるKurt Rohloffは、現代の実働環境においては特殊なハードウェアの絶対的な必要性は薄く、TransformerベースのLLMをダウンサイズした暗号化モデルなどで十分に実対応が可能であるとの見解を示す。

また、OptalysysやCornami、Fabric Cryptographyといった企業も革新的なアーキテクチャで追従する。とりわけOptalysysは、演算のボトルネックとなる変換処理を、シリコンプロセスに依存しない光チップ(フォトニクス)上の物理現象として解決する独自のアプローチを採用している。これは、集積回路のエレメントを敷き詰めたIntelのアプローチ(全デジタルシステムとしての最高速)の壁を根本的に超える可能性を秘める。

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暗号化AIインフラの覇権争いとその未来

FHE専用ハードウェアの開発競争は、「暗号化したままLLMを動かす」というクラウドAI産業の究極の目標に向けた覇権争いに他ならない。企業が保有する機密性の高いプロプライエタリなデータや、プライバシー規制によって保護された医療・金融データを、安全に外部のクラウドインフラで処理・分析できる世界は、現在のビッグテック企業のパワーバランスを塗り替える可能性を孕んでいる。

現時点において、IntelはHeraclesの明確な商用化スケジュールや製品化のロードマップを提示していない。ソフトウェアとアルゴリズムの最適化によって、さらに計算効率を引き上げる余地が残されているためだ。

巨大なデータを暗号化したまま大規模に並列計算するという、コンピュータサイエンス史上極めて難易度の高かった課題に対し、Intelはシリコンの面積、最先端のプロセスルール、そして広帯域メモリの集積という自らの強みを全て注ぎ込み、力でねじ伏せる回答を出した。

Heraclesが切り開いたFHEアクセラレータという新しいカテゴリは、セキュリティ志向のクラウドサービス向け標準ハードウェアとして数年のうちにコモディティ化する道筋を見せている。サイバーセキュリティの限界を押し広げ、真の意味でのプライバシー保護コンピューティングを実現する時代は、もう間もなく訪れようとしている。


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