日本の宇宙ベンチャーispaceの夢は、またしても月面の静寂に吸い込まれたのだろうか。2025年6月6日未明、月着陸船「Resilience(レジリエンス)」は着陸予定時刻のまさに直前、地上との通信を絶った。2023年4月のミッション1の失敗を乗り越えるべく「再起(Resilience)」の名を冠した今回の挑戦。しかし、管制室が再び経験したのは、成功を告げるデータではなく、重い沈黙だった。この2度目の挑戦で何が起きたのか。
「再起」をかけた挑戦、最後の1分45秒の沈黙
緊張が最高潮に達したのは、日本時間の2025年6月6日午前4時17分。ispaceの月着陸船「レジリエンス」が、月の「氷の海(Mare Frigoris)」と呼ばれる領域へ軟着陸を果たす予定時刻だった。東京・日本橋の管制室(MCC)では、スタッフが固唾をのんでスクリーンに表示されるテレメトリデータを見守っていた。YouTubeでの生配信には、深夜にもかかわらず一時1万7000人以上が接続し、歴史的瞬間を待っていた。
レジリエンスは午前3時25分ごろに月の周回軌道からの離脱に成功。午前4時4分ごろには「ブレイキングバーン」と呼ばれる最終的な逆噴射を開始し、月面への降下シーケンスに入った。管制室には「全て順調」との声が響き、着陸への期待は高まっていた。
しかし、運命の時刻が訪れる直前、事態は暗転する。着陸予定時刻の約1分45秒前、レジリエンスからのデータ送信が途絶えたのだ。 スクリーンに映し出されるはずの着陸成功を知らせる表示は現れず、管制室は探査機との通信再確立を試みる緊迫した空気に包まれた。

生配信は着陸予定時刻から約20分後、「現時点で通信が確立できていない」というアナウンスと共に、着陸の成否を明らかにしないまま終了した。 その光景は、2023年4月のミッション1で着陸船が通信を絶ち、最終的に月面に衝突したと結論づけられた際の悪夢を色濃く想起させるものだった。
まだ失敗が告げられたわけではなく、成否については“保留”という状況だ。ispaceのエンジニアは現在もランダーとの通信を試みており、正式な結果については6月6日にもメディア向け発表にて明らかにされるという。
1年前の教訓は生かされなかったのか?
ispaceにとって、今回のミッション2は雪辱を期すための挑戦だった。ミッション1の失敗原因は、着陸船の高度センサーが降下経路上にあったクレーターの縁を月面と誤認識し、高度計算に致命的なエラーが生じたことにあると分析されている。 着陸船は燃料を使い果たし、高度約5kmから月面に自由落下したとみられている。
この痛烈な教訓を元に、ispaceはソフトウェアの改修をはじめ、考えうる限りの対策を施してミッション2に臨んだはずだった。着陸直前、生中継に登場したispaceの袴田武史CEOは、「ミッション1で学んだことをミッション2に生かしてきた。エンジニアはやりきってくれた。自信を持って着陸の瞬間を迎えたい」と力強く語っていた。 その言葉は、技術チームが全力を尽くしたことへの確信の表れだったろう。

しかし、結果として通信は途絶した。現時点で原因は不明だが、1年前の失敗がソフトウェアの欠陥であったのに対し、今回はハードウェアの故障、予期せぬ地形の影響、あるいはまた別のソフトウェア上の問題など、あらゆる可能性が考えられる。詳細な原因究明には、途絶直前までの詳細なテレメトリデータの解析が不可欠となるだろう。
レジリエンスに託された多様なペイロード

今回の挑戦は、単に月面に着陸することだけが目的ではなかった。レジリエンスには、将来の月面での人類の活動を見据えた、野心的な5つのペイロード(搭載物)が託されていた。
- 深宇宙放射線プローブ(台湾・国立中央大学): 月面における放射線環境を計測する科学機器。
- 水電解装置(高砂熱学工業株式会社): 月の水資源から水素と酸素を生成する技術実証。将来のロケット燃料や生命維持システムの現地生産に繋がる重要な技術だ。
- 藻類培養実験装置(株式会社ユーグレナ): 月面環境で藻類を培養し、将来の食料生産の可能性を探る。
- 記念プレート(機動戦士ガンダム): 日本を代表するSF作品「機動戦士ガンダム」の「宇宙世紀憲章」をモチーフにしたプレート。
- 超小型月面探査車「Tenacious」(ispace Europe S.A.): ispaceのルクセンブルク子会社が開発した、重さわずか5kgのローバー。
特筆すべきは、このローバー「Tenacious」だ。ispaceは2020年にNASAとの間で月面の土壌(レゴリス)を採取し、その所有権をNASAに売却する契約を結んでいる。 Tenaciousはこの契約に基づき、月面の土をショベルで採取するミッションを担っていた。

さらに、この小さな探査車には、スウェーデンのアーティスト、Mikael Genberg氏による「Moonhouse」と名付けられた、スウェーデン風の赤いミニチュアハウスが搭載されていた。 技術と科学、そして文化とアートを月へ運ぶという、ユニークで夢のある試みだったのだ。これらのペイロードが月面で活動する機会は、レジリエンスの運命と共に、今や極めて不確かなものとなった。
熾烈化する民間月開発レースの現実
ispaceの挑戦は、世界中で過熱する民間による月開発レースの文脈の中に位置づけられる。かつては国家の威信をかけたプロジェクトであった月探査は、今や多くの民間企業が参入する新たな経済圏となりつつある。しかし、その道は決して平坦ではない。
- 2019年: イスラエルの民間団体「スペースIL」の着陸船「ベレシート」が着陸に失敗。
- 2024年1月: 米Astrobotic Technology社の「Peregrine」が打ち上げ直後の燃料漏れで月到達を断念、地球大気圏に再突入し消滅。
- 2024年2月: 米Intuitive Machines社の「Odysseus」が、民間企業として史上初の月面軟着陸に成功。しかし、着陸時に横転し、活動は限定的なものとなった。
- 2025年3月: 米Firefly Aerospace社の「Blue Ghost」が着陸に成功。ispaceのレジリエンスと同じロケットで打ち上げられたが、より直接的なルートで先に月へ到達した。
- 2025年3月: Intuitive Machines社の2号機「Athena」も着陸時に横転、数時間で通信不能となった。
この歴史が示すように、民間による月面着陸は成功よりも失敗例の方が遥かに多い、極めて難易度の高い挑戦である。NASAがCLPS(商業月面輸送サービス)プログラムを通じて民間企業の挑戦を後押ししているが、今回のispaceのミッション2はCLPSの枠組みには含まれておらず、独自の資金調達による純粋な民間ミッションだった。 この厳しい現実の中で、ispaceは2度にわたり月面の高い壁に挑んだことになる。
失敗の先に見るispaceの壮大なビジョン
たとえ今回の挑戦が失敗に終わったとしても、ispaceの物語はここで終わらない。同社はすでに次の一手を見据えている。2026年には、より大型で高性能な着陸船「Apex 1.0」を用いたミッション3を計画。 さらにその先には、月面の水資源開発を核とした持続可能な宇宙経済圏の構築という壮大なビジョンを掲げている。
「2040年までに月面に1,000人が暮らし、年間10,000人が訪れる世界を築く」。
これは、ispaceが公式サイトで掲げる未来像だ。今回の通信途絶は、その長い道のりにおける痛恨の一歩であることは間違いない。しかし、同社の最高財務責任者である野崎順平氏は、結果にかかわらず月への探求を続けると明言している。
月は、なぜこれほどまでに挑戦者を拒むのか。その答えは、まだ誰にも分からない。しかし、失敗から得られるデータと教訓こそが、次の成功への唯一の道標となる。ispaceの「再起」の物語は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
Sources
- HAKUTO-Rチャンネル: ispace SMBC x HAKUTO-R VENTURE MOON 着陸生配信