ドイツ・レーゲンスブルク大学と米国・ミシガン大学の研究チームが、量子世界の「奇跡の素材」とも呼ばれるCrSBrにおいて、磁気的なスイッチを用いることで量子情報キャリアである「励起子(エキシトン)」を1次元空間に閉じ込めることに世界で初めて成功した。この画期的な発見は、量子コンピューターや超高感度センサー開発における長年の課題であった「デコヒーレンス(量子情報の損失)」を抑制し、より安定で高性能な量子デバイス実現への道を大きく切り拓くものとして、科学界に衝撃を与えている。
なぜ「1次元」が重要なのか? 量子情報の宿敵「デコヒーレンス」
量子コンピューターが従来のコンピューターを凌駕する計算能力を発揮できる理由は、量子ビットが「0」と「1」の状態を同時に保持できる「重ね合わせ」を利用する点にある。しかし、この繊細な量子状態は、外部からのわずかなノイズや粒子同士の衝突によって容易に壊れてしまう。これが「デコヒーレンス」と呼ばれる現象であり、量子情報の保持時間を著しく制限する、量子デバイス開発における最大の障壁の一つとされてきた。
もし、量子情報の運び手である励起子を、動き回れる空間を限定し、まるで細い針金の上だけを移動させるように1次元空間に閉じ込めることができればどうだろうか? 励起子同士が衝突する機会は劇的に減り、デコヒーレンスを効果的に抑制できるはずだ。これが、今回の発見が「ゲームチェンジャー」となりうる理由である。
「奇跡の素材」CrSBrと「励起子」
今回の主役であるCrSBrは、原子数個分の厚さしかない極薄の層が積み重なった、まるで分子レベルの薄いパイ生地のような特殊な構造を持つ「ファンデルワールス結晶」の一種だ。
この物質が「奇跡の素材」と呼ばれる所以は、その驚くべき多機能性にある。情報を記録・伝達する媒体として、①電子(電荷)、②光子(光)、③電子スピン(磁気)、④フォノン(格子振動、音のようなもの)という、物質が持つほぼ全ての自由度を利用できる可能性を秘めているのだ。
ミシガン大学のMackillo Kira教授(電気・計算機工学)は、「長期的なビジョンとしては、これら3つ、あるいは4つ全ての特性を利用する量子マシンやデバイスを構築できる可能性があります。光子で情報を転送し、電子の相互作用で情報を処理し、磁気で情報を蓄積し、フォノンで情報を変調・変換するのです」と、その将来性に大きな期待を寄せている。
そして、このCrSBrの中で量子情報を運ぶ役割を担うのが「励起子(エキシトン)」だ。半導体に光などが当たると、電子が本来いた場所(価電子帯)からエネルギーの高い場所(伝導帯)へ励起される。このとき、電子が抜けた跡には「正孔(ホール)」と呼ばれるプラスの電荷を持った粒子のようなものが残る。この電子と正孔がクーロン力によってペアになった状態が励起子である。励起子は、光エネルギーを物質内部で運搬・変換する重要な役割を果たしている。
磁気で操る励起子の「次元」:研究チームは何を発見したのか?
CrSBrは、温度によってその磁気的な性質が劇的に変化する。
- 低温(132ケルビン、約-141℃以下):反強磁性状態
各層内では電子のスピン(磁気の向き)が一方向に揃って磁化するが、層ごとに向きが反転する「反強磁性」と呼ばれる状態になる。この状態では、励起子はその動きを単一の原子層内に強く束縛され、さらに層内でも特定の方向(結晶のb軸方向)にしか容易に動けなくなる。結果として、励起子は1次元的な空間に閉じ込められる。 - 高温(132ケルビン以上):常磁性状態
熱エネルギーによって電子スピンの向きはランダムになり、物質全体の磁化は失われる(常磁性状態)。すると、励起子を縛り付けていた磁気的な制約が解かれ、複数の原子層にわたって3次元的に自由に動き回れるようになる。
研究チームは、この磁気秩序と励起子の次元性の劇的な変化を、超高速レーザー分光技術を用いて直接観測することに成功した。
まず、わずか20フェムト秒(1フェムト秒は1000兆分の1秒)という極めて短い時間の赤外光パルスをCrSBrに照射し、励起子を生成。その後、エネルギーのより低い別の赤外光パルス(プローブ光)を照射し、励起子の内部状態(エネルギー準位間の遷移)を精密に観測した(中赤外励起子リュードベリ分光)。
その結果、驚くべき事実が明らかになった。
- 励起子の「微細構造」の発見: 低温の反強磁性状態では、本来同じエネルギーを持つはずの励起子の特定の内部状態(2p状態)が、結晶の方向(a軸とb軸)によって明確に異なるエネルギーを持つこと(微細構造分裂)を発見した。これは、CrSBr内の異方性(方向による性質の違い)が励起子の内部構造に強い影響を与えていることを示している。論文Fig.2aに見られるように、b軸方向のプローブ光では約62meVに強い吸収ピークが見られるのに対し、a軸方向では約49meVに弱いピークが見られる。この約13meVのエネルギー差が、異方性による微細構造分裂の直接的な証拠である。
- 磁気スイッチによる次元制御の実証: 温度を変化させて反強磁性状態と常磁性状態を行き来させると、励起子の応答スペクトルが劇的に変化することを観測した(論文Fig.3a)。低温では鋭いピーク(1次元励起子を示唆)が見られるのに対し、高温ではピークが大幅に広がり、エネルギーもシフトする(3次元励起子への変化を示唆)。さらに、外部から磁場をかけることでも同様の変化(より低い温度での常磁性相への移行)を引き起こせることを確認した(論文Fig.3d)。これは、温度や磁場といった外部刺激によって、励起子の次元性を能動的にスイッチングできることを意味する。
- 量子多体計算による理論的裏付け: ミシガン大学のKira教授率いる理論チームは、量子多体計算を用いてこれらの実験結果を理論的に再現することに成功した。計算により、磁気秩序下での異方的な電子状態とクーロン相互作用が、観測された大きな微細構造分裂や、磁気相転移に伴う励起子の束縛エネルギーと散乱率(スペクトルの広がりに関係)の劇的な変化、そしてそれが引き起こす1次元から3次元への実効的な次元クロスオーバーを正確に説明できることを示した。
レーゲンスブルク大学のRupert Huber教授(実験・応用物理学)は、「磁気秩序は、励起子とその相互作用を形作るための新しい調整ノブです。これは将来のエレクトロニクスや情報技術にとってゲームチェンジャーとなる可能性があります」と述べている。
量子技術へのインパクトと未来展望
今回の発見は、基礎科学的な興味深さにとどまらず、量子技術の未来に計り知れないインパクトを与える可能性を秘めている。
- 長寿命量子ビットの実現: 励起子を1次元に閉じ込めることでデコヒーレンスを抑制し、量子情報の保持時間を飛躍的に延ばせる可能性がある。これは、誤り耐性のある実用的な量子コンピューター開発に向けた大きな一歩となる。
- 新しい量子スイッチング機構: 温度や磁場による磁気秩序の制御を通じて、励起子の状態(次元性、エネルギー、相互作用)を高速にスイッチングできる可能性が示された。これは、量子情報の書き込み、読み出し、操作における新しい手法を提供する。
- 異種量子情報間のインターフェース: CrSBrの持つ多機能性を活かせば、光子(通信に適している)で運ばれてきた量子情報を励起子に変換し、磁気(スピン、メモリに適している)や電子(電荷、演算に適している)の状態として記録・処理し、再び光子として送り出す、といった異種量子情報キャリア間の効率的な変換インターフェースを構築できるかもしれない。研究チームが次なる目標として掲げる「励起子から磁気励起への変換」の実現は、この夢の技術への重要な鍵となるだろう。
研究共著者であるMatthias Florian研究員(ミシガン大学)は、「電子的、光学的、スピン的な自由度が強く絡み合っているため、磁化状態と非磁化状態を切り替えることは、光子ベースおよびスピンベースの量子情報を変換するための非常に高速な方法として役立つ可能性があります」と指摘する。
もちろん、実用化までにはまだ多くの課題が残されている。しかし、CrSBrという「奇跡の素材」が秘めたポテンシャルと、今回発見された「磁気スイッチ」という新たな制御原理は、量子科学技術の未来を明るく照らし始めていることは間違いない。この発見を起点として、今後さらに驚くような量子現象の解明や革新的なデバイスの開発が進むことが大いに期待される。
論文
- Nature Materials: Controlling Coulomb correlations and fine structure of quasi-one-dimensional excitons by magnetic order
参考文献
- University of Michigan: Magnetic switch traps quantum information carriers in one dimension