テクノロジーと科学の最新の話題を毎日配信中!!

Cisco、量子インターネットの未来を拓く「エンタングルメントチップ」発表 – 10年以内に実用化への道筋

Y Kobayashi

2025年5月10日

量子コンピュータの実用化を阻む「スケーラビリティの壁」。この長年の課題に対し、Cisco Systemsが新たな解決策を提示した。同社は、量子プロセッサ同士を繋ぎ、分散型量子コンピューティングを加速する「量子ネットワークエンタングルメントチップ」のプロトタイプを発表。同時に、カリフォルニア州サンタモニカに専門研究施設「Cisco Quantum Labs」を開設し、量子インターネットの基盤構築へ本格的に乗り出す。この動きは、量子技術の進化を数十年単位で早め、5年から10年以内に実用的な応用を可能にするかもしれない。

スポンサーリンク

量子コンピューティングの「アキレス腱」に挑むCisco

現代の量子プロセッサは、数百量子ビット(qubit)程度の集積度にとどまっており、複雑な問題を解決するために必要とされる数百万量子ビットには遠く及ばない。主要な開発ロードマップですら、2030年までに数千量子ビットを目標とするのが現状だ。この「スケーラビリティの壁」こそが、量子コンピューティングが秘めるポテンシャルを最大限に引き出す上での大きな足かせとなっている。

Ciscoでインキュベーションエンジン「Outshift」を率いるシニアバイスプレジデント、Vijoy Pandey氏は、「かつて古典コンピュータが直面した課題と同様の状況です」と指摘する。古典コンピューティングの世界では、個々のコンピュータの性能向上だけでなく、それらをネットワークで結びつけ、データセンターやクラウドコンピューティングといった分散システムを構築することで、飛躍的な処理能力の向上が実現された。Pandey氏は、「量子コンピュータの未来も、単一の巨大なマシンにあるのではなく、特殊なネットワークで結ばれた多数のプロセッサが協調して動作する、スケールアウト型の量子データセンターこそが実用的で達成可能な道です」と力説する。

Ciscoが目指すのは、まさにこの量子版ネットワークインフラの構築だ。同社は、かつてインターネットの黎明期にその基盤技術を提供したように、今度は量子インターネットの礎を築こうとしている。この戦略により、量子プロセッサを開発する企業は、Ciscoのネットワーク技術を利用して自社システムを容易に拡張できるようになる。これは、量子エコシステム全体の発展を加速させる試みと言えるだろう。

核心技術「量子ネットワークエンタングルメントチップ」の全貌

Ciscoの量子ネットワーク構想の中核を成すのが、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UC Santa Barbara)との共同研究で開発された「量子ネットワークエンタングルメントチップ」のプロトタイプだ。このチップは、「量子もつれ(エンタングルメント)」状態にある光子のペアを生成する。量子もつれとは、複数の量子が互いに強く関連し合い、一方の状態を測定すると、どれだけ離れていても瞬時にもう一方の状態が確定するという、Einsteinが「不気味な遠隔作用」と呼んだ奇妙な現象だ。この性質を利用することで、量子テレポーテーションを介した、距離に依存しない瞬時の情報伝達が可能になる。

Ciscoのエンタングルメントチップが特に注目される理由は、その実用性の高さにある。

  • 既存インフラとの互換性: 標準的な通信用光ファイバーの波長で動作するため、既存の光ファイバーインフラをそのまま活用できる。
  • 実用的な展開: 小型化されたフォトニック集積回路(PIC)として室温で動作するため、現在のシステムへのスケーラブルな導入に適している。
  • エネルギー効率: 消費電力は1mW未満と極めて低い。
  • 高性能: 1出力チャネルあたり毎秒100万対の高忠実度なエンタングルメントペアを生成し、チップ全体では毎秒最大2億対のエンタングルメントペアを生成可能だ。

これらの特徴は、将来の量子データセンターだけでなく、今日の古典的なネットワークを量子技術で強化する応用にも、即座にビジネス価値をもたらす可能性がある。

スポンサーリンク

研究拠点「Cisco Quantum Labs」と量子ネットワークスタック

YouTube video

今回正式に開設されたサンタモニカの「Cisco Quantum Labs」は、理論と実践の橋渡しとなる量子ネットワークソリューションを研究開発するための拠点だ。Ciscoの研究チームは、このラボ設立以前から長年にわたり、量子ネットワークスタックの基礎開発に取り組んできたという。

CiscoがarXivで公開した論文「Quantum Data Center Infrastructures」には、分散型量子コンピューティングシステムに必要なアーキテクチャの青写真が詳述されている。ラボでは、エンタングルメントチップ以外にも、この構想を実現するための重要なコンポーネントの研究プロトタイプ開発が進められている。具体的には、エンタングルメント配信プロトコル、分散型量子コンピューティングコンパイラ、量子ネットワーク開発キット(QNDK)、そして量子真空ノイズを利用した量子乱数生成器(QRNG)などが挙げられる。パンデイ氏は、「量子ネットワークスタックの構想を完成させる中で、量子データセンターインフラのロードマップに関するさらなるコンポーネントも近々発表する予定だ」と述べている。

並行して、Ciscoの各チームは、米国国立標準技術研究所(NIST)が策定中の耐量子計算機暗号(PQC)標準を自社ポートフォリオ全体に実装する作業も進めている。これにより、将来的に強力な量子コンピュータが登場しても、古典的なネットワークのセキュリティを確保することを目指す。

二正面戦略:量子世界と古典世界、両睨みのアプローチ

Ciscoの量子ネットワーク戦略は、相互補完的な2つの方向性を追求している。

  1. 量子世界のための量子ネットワーク: 量子プロセッサを大規模に接続し、分散型量子コンピューティング、量子センシング、最適化アルゴリズムなどを実現するインフラを構築する。これにより、創薬、材料科学、複雑な物流問題といった重要分野に変革をもたらすことが期待される。今回のエンタングルメントチップは、このビジョンの基盤となるものだ。
  2. 古典世界のための量子ネットワーク: 実用的な量子コンピューティングの課題解決にはまだ数年を要するかもしれないが、量子ネットワークの原理は、古典的なシステムにも即座に利益をもたらす。例えば、盗聴不可能なセキュア通信、超高精度な時刻同期、意思決定シグナリング、安全な位置検証といったユースケースが考えられる。

この戦略の強みは、ハードウェアとソフトウェアの両面開発に注力している点にある。エンタングルメントチップのような独自のネットワークハードウェアコンポーネントと、完全なソフトウェアスタックを並行して開発することで、これらがどのように連携して完全な量子ネットワークインフラを構築できるかについて、独自の洞察を得ることができる。

さらにCiscoは、超伝導、イオントラップ、中性原子など、特定の量子コンピューティング技術に肩入れするのではなく、あらゆる技術と連携可能なベンダー非依存のフレームワークを構築している。パンデイ氏は、「このアプローチは、ネットワーキングにおけるCiscoの歴史的な強みを反映している。我々は勝者を選ぶ必要はない。なぜなら、様々な量子技術の規模拡大を可能にするネットワーク基盤そのものを構築しているからだ」と強調する。

未来への布石:インターネットの次なる革命に向けて

Ciscoが数年前から量子技術に取り組んできたことは知られていたが、今回の発表は、同社の統合的なビジョンが公になったことを意味する。ハードウェアとソフトウェアの両コンポーネントを開発し、様々な量子技術とのオープンな互換性を提供することで、Ciscoは古典的なインターネットの勃興期に果たした役割と同様に、量子時代の中心的なイネーブラーとなることを目指している。

今回のエンタングルメントチップと量子ラボの開設は、単なる技術的マイルストーンに留まらない。それは、量子コンピューティングが研究室の段階を終え、実世界の問題解決に向けて大きく踏み出すための重要な布石と言えるだろう。Ciscoが描く量子インターネットの未来図は、まだ輪郭がおぼろげながらも、確実にその姿を現し始めている。今後、同社から発表されるであろう量子ネットワークスタックのさらなるコンポーネントや、PQCの統合に関する最新情報が、その輪郭をより鮮明にしていくに違いない。


Source

Follow Me !

\ この記事が気に入ったら是非フォローを! /

フォローする
スポンサーリンク

コメントする