欧州の自動車産業が、再び深刻な半導体供給危機の淵に立たされている。パンデミックが引き起こした未曾有の半導体不足からようやく回復の兆しが見え始めた矢先、業界を襲ったのは、中国資本傘下のオランダの半導体大手、Nexperia社を震源とする供給の大動脈の寸断である。しかし、これは単なる生産トラブルではない。オランダ政府による異例の経営介入、米中間の地政学的圧力、そして企業内部で勃発した「内戦」とも言うべき深刻な対立が複雑に絡み合い、サプライチェーン全体を麻痺させかねない構造的な危機へと発展しているのだ。自動車メーカー幹部が「壊滅的」と警鐘を鳴らすこの事態は、欧州の産業基盤そのものの脆弱性を白日の下に晒したと言えるのかもしれない。
欧州自動車業界を震撼させる「Nexperiaショック」の現実
「我々の在庫は、もって数週間だ」。ある大手自動車メーカーの幹部は匿名を条件に、危機感もあらわにそう語る。Nexperiaが10月、欧州の工場から中国の組み立て・検査(後工程)拠点へのシリコンウェハーの出荷を停止した影響は、即座に欧州全土の自動車生産ラインを脅かし始めた。
Nexperiaが製造する半導体は、最先端のプロセッサーのような華やかなものではない。エアバッグの制御、ヘッドライトの点灯、インフォテインメントシステムや電気自動車(EV)のバッテリー管理といった、現代の自動車に不可欠な基本機能を司る、ありふれたダイオード、トランジスタ、電源管理ICといった低コスト部品が中心だ。しかし、これらは自動車の「神経系」ともいえる部分であり、一つでも欠ければ車は完成しない。そして、これらのチップは特定の機能に最適化されているため、他社製品への置き換えが容易ではないという現実が、問題をさらに深刻化させている。
欧州自動車工業会(ACEA)は、事態の解決には程遠いと警告を発している。Volkswagenは、ドイツ国内の工場にまだ直接的な影響は出ていないとしながらも、状況は「動的かつ不確実」であるとコメントしており、楽観視できない状況が続く。業界データによれば、この半導体不足が続けば、2025年の最終四半期だけで50億ユーロ(約8,000億円)を超える生産損失が発生する可能性も指摘されている。BMW、Stellantis、Renaultといった主要メーカーも、すでに高利益率モデルの生産を優先し、一部工場でシフトを削減するなど、生産スケジュールの調整を余儀なくされていると報じられている。
多くの業界関係者が、「悪夢の再来だ」と口を揃える。2020年から2022年にかけて世界を苦しめた半導体不足の教訓から、各社は在庫の積み増しやサプライチェーンの多様化を進めてきたはずだった。しかし、結局は特定の一社、Nexperiaというクリティカルな供給源への依存から脱却できていなかった。その弱点を、今回の危機は無慈悲に突いたのである。
氷山の一角か――供給停止の裏に潜む「企業内戦」と地政学の影
この危機の本質を理解するためには、単なる供給停止という現象の裏側にある、複雑な力学を読み解く必要がある。そこには、一企業のガバナンス問題を超えた、国家間のせめぎ合いと、企業内部の深刻な亀裂が存在する。
オランダ政府の介入とCEO追放劇
すべての発端は2025年9月下旬、オランダ政府がNexperiaのオランダ事業を、中国の親会社である聞泰科技(Wingtech Technology)から事実上隔離する法律を可決したことだった。さらに10月、オランダの裁判所は「深刻なガバナンス上の欠陥」を理由に、Wingtechの大株主でもある中国出身のCEO、張学政(Zhang Xuezheng)氏を更迭し、オランダ政府が指名する新たな経営陣を送り込んだ。
この異例の措置に対し、Nexperiaの欧州事業と中国事業の関係は完全に断絶。欧州側は、中国子会社がウェハー代金の支払いを拒否し、財務上の不正行為を働いていると非難。一方、中国にあるNexperiaの9つの事業体は連名で従業員に書簡を送り、オランダの新経営陣が「悪意を持ってNexperia中国の生産と運営を妨害している」と猛烈に反発した。両者の主張は真っ向から対立し、互いを非難しあう泥沼の「内戦」状態に突入したのである。
米国の圧力という「見えざる手」
このオランダ政府の介入の背景には、米国の影が見え隠れする。裁判所の文書によると、米国政府は数ヶ月にわたりオランダ政府に対し、Nexperiaの中国系経営陣を排除するよう圧力をかけていたと報じられている。米国は、Nexperiaを事実上の禁輸リストであるエンティティリストに追加することを示唆し、中国への技術移転に対する強い警戒感を示していた。
親会社であるWingtechが中国政府と密接な関係にあるとされることから、米国はNexperiaが欧州で持つ半導体技術や製造拠点が、中国の軍事・技術覇権に利用されることを懸念したとみられる。つまり、Nexperiaの経営問題は、米中技術覇権争いの最前線となり、欧州がその代理戦争の舞台と化した格好だ。
泥沼化する「内戦」:欧州と中国、双方の非難合戦
亀裂は修復不可能なレベルに達している。Nexperiaヨーロッパは10月26日、支払いの不履行を理由に中国子会社へのウェハー出荷を正式に停止。同時に、「中国側の在庫管理に深刻な疑念がある」とし、供給不足の責任はすべて中国側にあると主張した。
これに対し、中国側は猛反発。オランダの新CEOが中国の従業員に送った書簡を「事実を歪曲し、責任を回避するものだ」と断罪。さらに、中国商務省は、自らの行動に後悔はないとしたオランダ経済大臣の発言を「無謀かつ全く不条理」と厳しく非難し、「世界の半導体サプライチェーンに混乱を招いた」と責任をオランダ政府に転嫁した。
もはや、どちらの主張が正しいのかを外部から判断することは困難だ。確かなことは、Nexperiaという一つの企業が、地政学的な断層と経営権争いによって完全に分裂し、その破片が世界の自動車産業に突き刺さっているという事実だけである。
生き残りをかけた「回避策」と代替サプライヤー探しの最前線
生産停止という最悪の事態を避けるため、自動車メーカーとNexperiaの顧客は、水面下で必死のサバイバル策を模索している。そこからは、既存のサプライチェーンの常識を覆すような動きも見えてくる。
禁じ手か、苦肉の策か:顧客主導の「ウェハー直接購入」スキーム
Reutersが独占情報として報じたところによると、一部の大口顧客はNexperiaと協力し、前代未聞の「回避策(workaround)」を協議しているという。その内容は、顧客がNexperiaヨーロッパのハンブルク工場から直接シリコンウェハーを購入し、自らの責任で中国に輸送。そして、対立関係にあるNexperiaの東莞(Dongguan)工場に、最終的なチップの組み立てとパッケージング作業を個別に委託するというものだ。
これは、事実上、分裂したNexperiaを「ウェハー製造会社」と「パッケージング請負会社」という二つの別々の企業として扱い、顧客がその間を取り持つという離れ業である。この策は、恒久的な解決策ではなく、輸送や契約の複雑さから小規模な顧客には実行不可能な「一時的なパッチ(応急処置)」に過ぎない。しかし、生産ラインを止めないためには、たとえ禁じ手ともいえる手段に打って出るしかないほど、自動車メーカーは追い詰められている。
競合への乗り換えとサプライチェーン再編の動き
同時に、業界全体で「脱Nexperia」に向けた動きが加速している。OnsemiやSTSTMicroelectronicsといった競合他社の類似品への切り替えが検討されているが、品質評価や設計変更には時間がかかり、即効性のある解決策とはなりにくい。
より長期的には、サプライチェーンそのものの再編が視野に入る。ContinentalやBosch、Valeoといった大手部品サプライヤーは、米国や韓国の半導体メーカーとの緊急調達契約を模索。自動車メーカーも、世界最大の半導体ファウンドリである台湾のTSMCや、ドイツのInfineon Technologiesとの直接交渉を強化している。
Nexperia自身も、分裂を前提とした将来を見据え始めている。欧州側はマレーシアとフィリピンでのパッケージング能力の増強を、中国側は欧州からのウェハー供給に頼らない、中国国内で製造されたウェハーへの切り替えという、それぞれが独立したサプライチェーンの構築へと動き出している。
Nexperia危機が暴き出す欧州の「三重苦」
今回のNexperia危機は、単なる一企業の混乱が引き起こした供給問題ではない。これは、現代の欧州、特にその基幹産業である自動車業界が抱える、根深く構造的な脆弱性、「三重苦」を白日の下に晒した事件と分析できる。
脆弱性の露呈①:アジアへの過度な半導体依存
第一に、欧州の半導体製造におけるアジアへの構造的な依存である。ブリュッセルは「EUチップ法(EU Chips Act)」を掲げ、2030年までに世界の半導体生産におけるEUのシェアを20%に倍増させるという野心的な目標を掲げている。しかし、ドイツやフランスで計画されている巨大工場(メガファブ)の完成は数年先であり、現状はアジアの規模と専門知識に大きく依存したままだ。今回の危機は、その計画がいかに道半ばであり、欧州の「技術主権」確立が急務であるかを痛感させる、痛烈なウェイクアップコールとなった。
脆弱性の露呈②:地政学リスクの最前線となる企業
第二に、グローバル企業が地政学的な対立の最前線となり、容易にその機能を停止させてしまうリスクだ。Nexperiaは、米中間の技術覇権争いという巨大なプレートの衝突点で、その歪みを一身に受けた。一企業の内部統制の問題が、国家間の政治的思惑と結びつくことで、瞬く間に国際的なサプライチェーン全体を揺るがす大問題へと発展した。これは、地政学リスクがもはや遠い国の話ではなく、自社のサプライヤーの経営権争いという形で、明日にでも生産ラインを止める現実的な脅威であることを示している。
脆弱性の露呈③:「ジャストインタイム」生産モデルの限界
そして第三に、効率性を追求してきた「ジャストインタイム」生産モデルの限界である。パンデミックは物理的な物流の寸断によってこのモデルの脆弱性を露呈させたが、今回は地政学と企業内紛という、より複雑な要因によってサプライチェーンが機能不全に陥った。これは、単に在庫を積み増すだけでは対応できない、新たな種類のリスクが顕在化したことを意味する。今後は、効率性だけでなく、地政学的リスクも織り込んだ、より強靭(レジリエント)なサプライチェーンの再設計が不可欠となるだろう。
自動車産業の未来を占う分水嶺
Nexperiaを巡る危機は、今もなお予断を許さない状況が続いている。オランダと中国の政府間交渉が事態打開の鍵を握るが、一度入った亀裂が完全に元に戻る保証はない。
この一件が我々に突きつけるのは、今日のグローバル経済がいかに複雑で、脆い基盤の上に成り立っているかという厳然たる事実だ。これはもはや、一時的な半導体不足ではない。地政学、企業ガバナンス、そしてサプライチェーンの脆弱性という現代社会の構造的な課題が、Nexperiaという一点で噴出した複合的危機である。
欧州の自動車産業は、この未曾有の危機を乗り越えることができるのか。それとも、生産停止という最悪のシナリオに陥るのか。その行方は、単に数百万台の自動車生産に影響を与えるだけでなく、電動化や自動運転という大変革期にある自動車産業全体の未来、そして欧州の産業競争力そのものを占う分水嶺となるに違いない。今、世界の目は固唾を飲んで、この小さなチップメーカーの動向を見守っている。
Sources
- Reuters: Exclusive: Nexperia customers in talks over workaround to skirt Europe-China chip feud, sources say
- Financial Times: Europe’s carmakers face ‘devastating’ chip crisis as Nexperia supply crunch continues
- South China Morning Post: Nexperia civil war erupts as firm’s Chinese and Dutch arms trade blows


