2026年2月23日、Appleの外部弁護士Gabriel Gross(Weil, Gotshal & Manges所属)は、OpenAIの法務責任者Che Changにメールを送った。件名は「Former Apple Employees at OpenAI Retaining Non-public, Confidential, and Proprietary Information」。OpenAIに移籍した元Apple従業員が機密情報を保持している可能性について協議したい、という内容だった。

ところがGrossは同日午後6時07分、同じメールスレッドにもう一通を送ってしまう。本来は別の元Apple従業員「Wang」に送るはずだったものを、誤ってChangに転送したのだ。Gross自身は後にこのミスを認め、「Wang氏はすぐに協力を買って出た」とChangに説明している。OpenAIが8月3日に公開したブログ記事「Apple is getting this wrong」によれば、Apple側の企業内弁護士も2日後にこの混同を確認し、「Weilがこの件の代理人だ」とだけ伝えてきた。具体的な訴えの内容は提示されなかった。

その後5カ月間、AppleからOpenAIへの連絡は途絶えた。そして7月10日、Appleは米国カリフォルニア北部連邦地裁に訴状を提出する(事件番号5:26-cv-07078)。

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Appleが描いた「組織的窃取」の構図

Appleの訴状は、元Apple従業員2名とOpenAI、そしてOpenAIのハードウェア部門io Productsを被告に名指しした41ページの文書だ。冒頭は「この事件は、Appleの元従業員がAppleの企業秘密を盗み、OpenAIの利益のために利用したというものだ」と切り出す。

被告の一人、Chang LiuはAppleで8年間シニアシステム電気エンジニアを務め、2026年1月に退職してOpenAIの技術チームに加わった。訴状によれば、Liuは退職時にApple支給のラップトップを返却せず、後に発見された認証バグを悪用してAppleの共有ネットワークフォルダにアクセスし、「未発表製品に関する大量の詳細情報、エンジニアリングプレゼンテーション、技術仕様」を含む数十件の機密ファイルをダウンロードした。AppleはLiuが同僚に残したメッセージとして「LOL」「so funny」という反応を引用し、不正アクセスを「楽しんでいた」と主張している。

もう一人の被告、Tang Yew TanはAppleに24年以上在籍し、iPhoneとApple Watchのプロダクトデザイン担当バイスプレジデントを務めた人物だ。現在はOpenAIのチーフハードウェアオフィサー(CHO)に就いている。訴状は、TanがApple内部のプロジェクトコードネームを使って未発表製品の計画を聞き出そうとしたこと、採用面接の候補者に「Actual parts」(実物部品)をAppleから持ち込ませて「show and tell」セッションを行わせたこと、そして新規採用者に対して「AppleにはOpenAIに転職することを言うな」と指示したことを列挙している。

訴状が提示する数字がある。OpenAIには現在、400人以上の元Apple従業員が在籍しているという。

OpenAIの反撃は法廷ではなくブログだった

8月3日深夜、OpenAIは公式ブログに「Apple is getting this wrong」と題した記事を公開した。法的な答弁書ではない。裁判所に提出する文書でもない。一般読者に向けた、メールとiMessageの原文付きの反論記事である。

OpenAIの主張は大きく三つに分かれる。

第一に、Appleが「2月に連絡したがOpenAIは無視した」とする訴状の記述は事実と異なる、という点。OpenAIが公開したメールによれば、Apple側の弁護士は二人のアジア系姓氏(ChangとWang)を混同して誤送し、OpenAIの法務責任者と「電話で話した」と虚偽の主張をした後、それを撤回している。具体的な訴訟の内容は一度も提示されず、Apple側は「問題を解決している(resolving any issues)」とだけ伝えた。

第二に、Liuが退職後にAppleの機密情報にアクセスしていたとする主張について。OpenAIが公開したiMessageのスクリーンショットは、Liuの最終勤務日(2026年1月22日)の後も、Appleの現役従業員からLiuに「このファイルの場所を教えてほしい」という依頼が来ていたことを示している。OpenAIは、LiuがアクセスしていたのはApple社員からの依頼に応じた結果であり、Appleが主張する「窃取」ではなく、Apple自身のアクセス管理の不備(退職者のアカウントを適切に無効化していない問題)に起因すると反論する。

第三に、Tanについて。OpenAIは「Tangは常にチームに対し、他社の機密情報を欲しがっても使ってはならないと明確に伝えてきた」と述べ、24年以上Appleに尽くした人物を「最も革新的なリーダーの一人」と呼んでいる。

OpenAIはブログの冒頭で、Appleを「one of the greatest companies of all time(史上最も偉大な企業の1つ)」と持ち上げつつ、この訴訟は「careless, aggressive, and oddly personal(不注意で、攻撃的で、妙に個人的)」だと切り捨てた。

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「世論の法廷」という戦場の構造

OpenAIの動きは、法的手続きとは別の戦線を開く行為だ。訴訟の当事者が、裁判外で相手方の弁護士との私人間通信を原文付きで公開する。これは法的なリスクを伴う。公開された通信が相手方に反論の材料を与え、裁判でOpenAI自身の不利な証拠として使われる可能性があるからだ。

それでもOpenAIがこの手段を選んだ背景には、時間軸の非対称がある。Appleが申請した予備的差止命令(preliminary injunction)は、本案審理を待たずに被告の行動を制限する措置だ。認められれば、LiuとTan、そしてOpenAIは、訴訟が続く数カ月から数年にわたり、Appleが「機密情報」と主張するものへのアクセス、取得、使用、開示を禁じられる。Reutersの報道によれば、Appleは同時に迅速な証拠開示(expedited discovery)も申請しており、Liu、Tan、OpenAI従業員のYu-Ting Peng、そしてもう一人の氏名未公表の元Apple従業員に対するデポジション(宣誓証言)を求めている。

OpenAIにとって、差止命令が認められれば2026年後半に予定する初のハードウェアデバイスの発表が危うくなる。Axiosの1月の報道によれば、OpenAIのChris Lehane(Chief Global Affairs Officer)は「2026年後半に最初のデバイスを公開する軌道に乗っている」と述べていた。Fortuneは7月の記事で、デバイスの設計はすでに最終化しており、ioチームは400人以上の規模に膨らんでいると報じている。このデバイスはJony Iveが率いるチームが開発しており、OpenAIが2025年5月にio Productsを65億ドル(全株式交換、OpenAIの3,000億ドル評価額ベース)で買収したことが起点になっている。

つまり、差止命令が数週間以内に認められれば、OpenAIのハードウェア戦略全体が法的に凍結される可能性がある。裁判で最終判決が出るのを待っていては手遅れになる。だからこそOpenAIは、裁判所の判断が出る前に、世論の場でAppleの主張の信頼性を削いでおく必要があった。

Waymo対Uberが遺した「未解決の問い」

この種の紛争は初めてではない。2017年、Googleの自動運転部門Waymoは、元エンジニアAnthony Levandowskiが14,000件以上の機密ファイルをダウンロードしてUberに移籍したとして提訴した。この事件は2018年にUberがWaymoに2億4,500万ドル相当の株式を支払う和解で終わったが、判決は出ていない。

Waymo事件が遺した最大の未解決問題は、「ネガティブ・トレードシークレット」、すなわち「何がうまくいかないかという知識」も営業秘密として保護されるのか、という問いだ。カリフォルニア州は競業避止義務(ノンコンピート)を禁じており、「inevitable disclosure(不可避的開示)の法理」も認めていない。従業員が前職で得た一般的なスキルや知識を次の職場で使うことは原則として自由だが、具体的な機密文書の持ち出しは別の話だ。この境界線はどこにあるのか。Waymo事件は和解で終わったため、判例として残っていない。

Apple対OpenAIの訴訟は、この問いを改めて突きつける。Tanが24年間で蓄積したAppleの製造ノウハウ、サプライヤーとの関係、設計哲学は「一般的なスキル」なのか、それとも「営業秘密」なのか。LiuがApple社員の依頼に応じてファイルの場所を教えた行為は「協力」なのか「不正アクセス」なのか。

論点 Appleの主張 OpenAIの反論
2月の連絡 OpenAIに連絡したが無視された 弁護士が宛先を間違え、具体的主張は提示されなかった
Liuのアクセス 認証バグを悪用して機密ファイルを窃取 Apple社員が依頼してきたため応じただけ。アクセス管理の不備はApple側の問題
Tanの行為 内部コードネームで未発表製品を聞き出し、候補者に実物部品を持たせた Tanは常に他社の機密情報を使わないようチームに指示してきた
組織的関与 400人以上の元Apple従業員がOpenAIに在籍し、組織的に情報を持ち込んでいる 人材の移動は自由であり、OpenAIにはAppleの営業秘密はない

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公開された通信が語るものと語らないもの

OpenAIのブログ記事を読むとき、留意すべき点がある。公開された通信は、OpenAIが選んだものだ。メールの全文ではなく、OpenAIの主張を裏付ける部分が抽出されている。The Vergeが指摘するように、これは「cherry-picked communications」であり、法的な証拠開示手続き(ディスカバリ)を通じて双方が提出する文書とは性質が異なる。

たとえば、Appleの訴状が引用するLiuのメッセージ(「I still have another computer」「LOL」「so funny」)は、OpenAIのブログには登場しない。OpenAIが公開したのは、Apple社員がLiuに助けを求めてくるiMessageであり、LiuがAppleの依頼に応じている場面だ。同じ人物の同じ期間の通信から、どちらの側面を切り取るかで物語は180度変わる。

Apple側が今後、公開された通信に対してどのような反論を出すかは未定だ。AppleはThe Vergeの取材に対し、この記事の公開時点ではコメントを出していない。

法廷と世論、二つの時計

予備的差止命令の判断は通常、数週間以内に出る。Appleが申請した迅速証拠開示が認められれば、OpenAI内部の文書がApple側の手に渡る時期も大幅に前倒しになる。

Cardozo School of Lawの知的財産法教授Saurabh VishnubhaketはFortuneに対し、この訴訟がOpenAIのハードウェアプロジェクトを「殺す」よりも「遅らせ、分断し、再構築を迫る」可能性が高いと述べている。ファイルや従業員の隔離、エンジニアリング作業のやり直し、製造パートナーの変更が必要になるかもしれない、と。

OpenAIがブログで選んだ戦法は、法廷の外でAppleのナラティブを先に壊しておくことだった。その成否は、公開された通信が裁判でどう扱われるか、そして差止命令の判断がどちらに傾くかで決まる。法廷の時計と世論の時計は、同じ速さでは進まない。