地球からわずか40光年。みずがめ座の方向に輝く極めて暗い恒星「TRAPPIST-1」は、長らく宇宙生物学における最大の希望の星だった。その周りには、地球サイズの惑星が少なくとも7つもひしめき合うように公転しており、うち3つは生命居住可能圏(ハビタブルゾーン)内に存在すると考えられてきた。中でも「TRAPPIST-1d」は、その内縁に位置し、我々の地球に最も近い環境を持つかもしれないと、世界中の天文学者が熱い視線を送ってきた惑星だ。しかし、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)による最新の観測が、その期待に冷や水を浴びせる結果をもたらした。この惑星には、少なくとも地球のような豊かな大気は存在しない可能性が極めて高いというのだ。これは単なる一つの惑星の「不合格」通知なのだろうか?だが、この発見の深層には、宇宙における生命探査の困難さと、我々がまだ見ぬ真実への新たな扉が隠されている。

AD

期待から一転、JWSTが突きつけた「大気不在」の証拠

TRAPPIST-1dがこれほどまでに注目を集めたのには明確な理由がある。その直径は地球の約8割とほぼ同サイズ。主星から受け取るエネルギー量も地球の1.12倍と、比較的穏やかだ。理論上、もし大気が存在すれば、表面に液体の水が安定して存在できる可能性があった。生命の存在を夢想するには、これ以上ない舞台設定である。

この舞台の幕を開けるべく、天文学者たちはJWSTの近赤外線分光器「NIRSpec」をTRAPPIST-1dに向けた。狙いは、惑星が主星の前を横切る「トランジット(食)」の瞬間だ。もし惑星に大気があれば、主星の光の一部が大気を通過する際に、特定の分子によって吸収され、光のスペクトルにその痕跡(吸収線)が刻まれる。この「トランジット分光法」と呼ばれる手法は、系外惑星の大気の組成を調べる上で最も強力な武器の一つである。

しかし、2回にわたる詳細な観測の末に得られたデータは、沈黙を守っていた。カナダのモントリオール大学トロttier系外惑星研究所のCaroline Piaulet-Ghorayeb氏が主導する研究チームが『The Astrophysical Journal』誌に発表した論文によれば、TRAPPIST-1dのトランジットスペクトルは、ほぼ完全に「平坦」だったのだ。これは、地球の大気を構成する水(H₂O)、生命活動の指標となりうるメタン(CH₄)、そして惑星の気候を左右する二酸化炭素(CO₂)といった分子が、検出可能なレベルで存在しないことを意味する。かつて「地球のいとこ」とまで呼ばれた惑星の素顔は、大気というベールをまとっていない、むき出しの岩石である可能性が色濃くなった瞬間だった。

なぜ大気は消えたのか? 荒ぶる主星「TRAPPIST-1」の脅威

なぜTRAPPIST-1dは、その大気を失ってしまったのだろうか。容疑者として真っ先に浮かび上がるのは、惑星系の中心に鎮座する主星「TRAPPIST-1」そのものである。

TRAPPIST-1は「赤色矮星」に分類される恒星だ。赤色矮星は、我々の太陽のような黄色い恒星(G型主系列星)に比べてはるかに小さく、低温で暗い。しかし、その一方で、特に若い時代には非常に活動的で、予測不能なほど強力な「フレア」と呼ばれる爆発現象を頻繁に引き起こすことで知られている。

TRAPPIST-1dは主星からわずか地球-太陽間の距離の2%しか離れていない軌道を公転している。これは水星よりもずっと近い。これほどの至近距離では、主星が放つ猛烈なX線や紫外線、そしてフレアに伴う高エネルギー粒子の嵐に常に晒されることになる。この恒星からの暴力的な「風」は、まだか弱かった原始惑星の大気をいとも簡単に宇宙空間へ剥ぎ取ってしまう。

事実、TRAPPIST-1dよりもさらに内側を公転するTRAPPIST-1bとcについても、過去のJWSTの観測で同様に大気が存在しないことが示唆されている。今回のdの結果と合わせると、内側3惑星がそろって大気を失っているという厳しい現実が浮かび上がる。赤色矮星の放つ光は生命を育むには穏やかかもしれないが、その気性の荒々しさは、惑星から生命の揺りかごそのものである大気を奪い去る、諸刃の剣なのである。

AD

観測を阻む「星のノイズ」 – 恒星汚染という見えざる壁

しかし、物語はそう単純ではない。「スペクトルが平坦=大気がない」という結論に飛びつく前に、天文学者たちが直面しなければならない、もう一つの巨大な壁が存在する。それが「恒星汚染(Stellar Contamination)」だ。

惑星の大気を通過する光は、主星から放たれた光のごく一部に過ぎない。トランジット分光法は、その微細な変化を捉えようとする、極めて繊細な観測だ。問題は、光源である主星自身が、完璧に均一な光を放っているわけではないという点にある。

TRAPPIST-1の表面にも、太陽と同様に、周囲より温度が低く暗い「黒点」や、逆に温度が高く明るい「白斑(faculae)」が存在すると考えられている。惑星がトランジットする際、惑星本体に隠されていない星の表面にこれらの活動領域があると、我々が受け取る光のスペクトル全体が歪んでしまう。例えば、惑星が通過する経路の外に明るい白斑があれば、その影響で、まるで惑星が特定の色(波長)の光を余計に吸収したかのような、偽の信号が生じかねない。

今回の論文で研究チームは、この恒星汚染の影響を極めて詳細に分析している。その結果、観測されたスペクトルの平坦さは、惑星に大気がないからではなく、TRAPPIST-1表面の活動領域が引き起こした効果によって、ほぼ完璧に説明できてしまうことが明らかになった。特に、観測されたスペクトルのうち、短い波長側で見られた500〜1000ppm(1ppmは100万分の1)にも及ぶ信号の変化は、星の表面にある明るい白斑の影響と考えることで、うまく説明がつくという。

これは、系外惑星の探査がいかに困難であるかを物語っている。我々が探しているのは、惑星の大気という「針」だが、そのためにはまず、恒星活動という巨大な「干し草の山」の中からその針を見つけ出さなければならないのだ。

残された3つの可能性 – 科学者たちが語るTRAPPIST-1dの素顔

では、TRAPPIST-1dは完全に希望を絶たれたのだろうか。論文の筆頭著者であるPiaulet-Ghorayeb氏は、いくつかの可能性が残されていることを指摘する。

  1. 火星のような極めて薄い大気: 地球の大気の1%にも満たないような希薄な大気は、JWSTの現在の観測精度では検出が困難である可能性がある。
  2. 金星のような高高度の厚い雲: 惑星全体が高層の厚い雲で覆われている場合、その雲が主星の光を遮ってしまい、下層にある大気の組成を観測することができない。論文では、惑星形成時の熱(ホットスタート・シナリオ)を考慮した3D全球気候モデル(GCM)によるシミュレーションにも言及されており、TRAPPIST-1dの環境では、水蒸気が高高度で雲を形成し、トランジットスペクトルを平坦にしてしまう可能性が示唆されている。
  3. 大気が全くない、むき出しの岩石: これが最も可能性の高いシナリオではあるが、まだ断定はできない。

「私たちは、TRAPPIST-1dを地球の双子やいとこのリストから外すことはできます」とPiaulet-Ghorayeb氏は語る。しかし、科学者たちの視線は、すでにその先を見据えている。

AD

希望はまだ潰えていない – 外側4惑星と赤色矮星系の未来

「TRAPPIST-1惑星系の大気について、すべての希望が失われたわけではありません」とPiaulet-Ghorayeb氏は力強く語る。

研究チームの関心は、ハビタブルゾーンの中心から外縁にかけて公転する、残された4つの惑星「TRAPPIST-1e、f、g」、そしてさらに外側の「h」へと向かっている。これらの惑星は主星からより遠いため、活動的な恒星からの過酷な放射線の影響を受けにくく、大気を保持している可能性が内側の惑星よりも高いと考えられる。

さらに、今回の観測結果は、惑星の成り立ちそのものに新たな問いを投げかける。論文で紹介されている惑星進化モデルによれば、もしTRAPPIST-1dが形成された当初、地球の海水の総量の約4倍以上の水を持っていたならば、主星からの過酷な環境に耐え、今日まで大気を保持できていた可能性があるという。今回の大気不在という結果は、TRAPPIST-1系の内側の惑星たちが、もともと比較的「乾燥した」状態で形成されたことを示唆しているのかもしれない。

一方で、外側の惑星たちは、形成時により多くの水や揮発性物質を獲得した可能性があり、たとえdが剥き出しの岩石であったとしても、彼らが豊かな大気をまとっている可能性は十分に残されている。


論文

参考文献