地上の物理学研究所で使われる光量子実験装置は、通常、大型の光学定盤の上に多数の光学部品を配置して構築される。除振機構で微細な振動を抑え、空調設備で室温を細かく管理しながら、波長や到着時刻を揃えた少数の光子を干渉させる。わずかな振動や温度変化にも影響されるこうした装置を、小型化してロケットに載せ、宇宙へ打ち上げることは容易ではない。

2026年9月、ウィーン大学のPhilip Walther教授が率いる研究チームは、小型宇宙機の内部でプログラム可能な光量子プロセッサを動作させ、軌道上で量子光学の基本操作を確認したとする論文をプレプリントサーバーarXivに公開した(DOI: 10.48550/arXiv.2609.25248)。

これまでにも、中国の量子通信衛星「墨子号」に代表されるように、宇宙から地上へ量子もつれ光子を送り、量子鍵配送や基礎物理実験を行う試みは実施されてきた。一方、今回の研究では、宇宙機の内部で光子を生成し、プログラム可能な導波路回路を通して操作し、その結果を機内で検出するところまでを一つのシステムとして実行した。研究チームは、こうしたプログラム可能な光量子処理を軌道上で実証したのは初めてだとしている。

ただし、これを「宇宙で実用的な量子計算に成功した」と受け取るのは適切ではない。今回確認されたのは、2つの光子が量子力学的に区別できない状態になったときに現れるホン・オウ・マンデル干渉(Hong-Ou-Mandel干渉、以下HOM干渉)と、あらかじめ設定した光回路による出力分布の測定である。

実際の衛星観測データを処理したわけでも、従来の電子計算機を上回る計算性能を示したわけでもない。むしろ今回の実験は、打ち上げ時の振動、放射線、真空環境などによって装置の性能が大きく損なわれながらも、光量子回路の基本動作を軌道上で確認できたことに意義がある。本稿執筆時点で、この成果は査読付き学術誌に掲載される前のプレプリント段階にある。

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靴箱ほどの装置に光量子回路一式を収める

今回の装置は、将来的に地球観測衛星が抱えるデータ通信量の問題へ応用することも視野に入れて設計された。

近年の光学センサーや合成開口レーダーは大量の生データを生成する一方、地上局へ送信できる通信帯域や通信可能時間には限りがある。衛星内部でデータを処理し、必要な情報だけを抽出できれば、地上へ送るデータ量を減らせる可能性がある。研究チームは将来的に、限られた電力と重量の条件でも利用できる小型光量子回路を、こうした機内処理に活用する構想を描いている。

実験装置が宇宙へ打ち上げられたのは2025年6月23日。米カリフォルニア州のヴァンデンバーグ宇宙軍基地から、SpaceXのFalcon 9による相乗りミッション「Transporter-14」で打ち上げられた。

光量子プロセッサは、イタリアの宇宙企業D-Orbitが運用する軌道間輸送機「ION Satellite Carrier」の機体「Passionate Paula」に搭載され、低地球軌道へ投入された。

軌道について、論文では高度約510キロメートル、軌道傾斜角97.5度の太陽同期軌道と記載されている。一方、ウィーン大学の一般向け広報資料では高度約550キロメートルとされており、数値には差がある。本稿では、一次資料である論文の記載を基準とする。

ペイロードは小型宇宙機への搭載を前提として設計されており、外形寸法は15×15×45.3センチメートル、重量は9.8キログラム。平均消費電力は約10ワットに抑えられている。大学のプレスリリースでは「重さ約9.5キログラムの靴箱サイズ」と説明されているが、論文では実測値として9.8キログラムと記載されている。

光学系は、光子の生成から操作、検出までを一つの装置内で完結する構成になっている。

まず光源部では、波長405ナノメートルの連続波半導体レーザーを、周期分極反転チタン酸リン酸カリウム(ppKTP)結晶へ照射する。結晶内では自然パラメトリック下方変換(Type-II SPDC)と呼ばれる非線形光学現象が起こり、波長約810ナノメートルの光子対が生成される。

2つの光子は互いに直交する偏光を持つため、ファイバー偏光ビームスプリッターで2本の経路へ分けられる。その後、遅延線を使って到着時刻を調整し、集積光回路チップへ送り込む。

チップは、ガラス基板内部にフェムト秒レーザーで直接描画した導波路から構成され、6本の光路、すなわち6モードを備える。導波路には熱光学効果を利用する微細なヒーターが設けられている。電流によって局所的に温度と屈折率を変化させることで、光の経路や位相を調整し、さまざまなユニタリ変換を設定できる。

6つの出力には、それぞれ単一光子アバランシェダイオード(SPAD)が接続され、光子がどの出力から現れたかを電気信号として記録する。

ppKTP結晶の温度は、ペルチェ素子とPID制御によって0.1ケルビン以内に維持され、生成される2光子の周波数条件を調整する。多チャンネル電流ドライバーが導波路のヒーターを制御し、オンボードコンピューターが実験手順全体を管理する。

将来的な地球観測への応用を想定し、ドイツ航空宇宙センター(DLR)のカメラも接続された。ミッション終了後は、数年以内に大気圏へ再突入する計画となっている。

打ち上げと軌道環境が装置を傷めた

ロケット打ち上げ時の振動や衝撃は、精密な光学装置にとって大きな問題になる。数マイクロメートル単位の位置ずれでも、光ファイバーや導波路との結合効率が低下する可能性があるためだ。

研究チームは宇宙環境へ耐えられるよう、複数の補強策を施した。光学部品は高剛性のチタン製ベースプレートへ固定し、空間光学素子は専用の支持台へ接着した。光ファイバーとガラス導波路チップの接続部についても、V溝基板とエポキシ樹脂を使って補強した。

打ち上げ前には、ロケットの飛行時に想定される振動や衝撃を再現する試験に加え、真空加熱による脱ガス処理も実施した。

それでも、軌道上で装置を起動すると大きな問題が判明した。

6系統搭載していたシリコンSPADのうち、正常に利用できたのはC0、C1、C5の3チャンネルだけだった。C2、C3、C4は正常に機能しなかった。

検出器の半数を失ったことで、当初予定していた6モードすべてを使った測定はできなくなった。利用可能な検出器が3つしかないため、実際に観測できるのは主として3モードの部分空間に限られる。

そこで研究チームは6×6の光回路全体を再設定し、利用可能な3つの検出器へ光子が出力されるよう経路を変更した。これによって、機能を限定しながらも実験を継続できた。

検出器が使えなくなった原因について論文では、打ち上げ時の機械的損傷に加え、宇宙放射線による変位損傷や暗計数率の増加など、複数の要因を検討している。

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太陽光、宇宙放射線、真空環境という3つの問題

残った3基の検出器で測定を続ける過程でも、新たな問題が明らかになった。

一つ目は太陽光による迷光だ。

SPADは極めて微弱な光を検出できるため、装置内部へ入り込むわずかな散乱光でも大きな背景雑音になる。日照中には背景光によるカウントが増え、光子対の同時計数を十分な精度で測定できなかった。

そこで研究チームは、宇宙機が地球の影に入る「食」の時間帯を中心に測定する運用へ切り替えた。

軌道周期は約90〜92分で、このうち地球の影に入る時間は1周あたり約30分だった。

軌道環境 時間の目安 光学環境 実験
日照中 約60分 太陽光による迷光が大きい SPADを使った測定が困難
地球の影(食) 約30分 背景光が大幅に減少 単一光子測定が可能

このため、実験に利用できる時間は軌道ごとに限られた。最終的な測定結果は、複数回の食の時間帯に取得したデータを統合して求めている。

二つ目の問題は宇宙放射線による素子の劣化だった。

装置は厚さ1センチメートルの航空宇宙用アルミニウム合金で覆われていた。この遮蔽は電子線や、それに伴って発生する制動放射の低減には有効だが、高エネルギー陽子を完全に防ぐことはできない。

打ち上げから52日後には、SPADの暗計数率、すなわち光が入射していない状態でも発生する偽の検出信号が増加していた。研究チームは、高エネルギー粒子によってシリコン結晶に欠陥が生じる変位損傷が原因の一つとみている。

光ファイバーでも、放射線によって欠陥が形成され、透過率が低下する放射線誘起減衰が進んだ。これも光子の検出数を減らす要因となった。

さらに大きな問題となったのが、真空環境で起こる脱ガスだった。

装置が真空環境へ置かれると、一部の接着剤から揮発性成分が放出された。気化した有機分子が装置内部を移動し、近くに配置されていた体積ホログラフィック回折格子(Volume Bragg Grating)、コリメーションレンズ、偏光ビームスプリッターなどの表面へ付着したと研究チームは分析している。

光学素子の表面が汚染されたことで透過率が低下し、レーザー光源系の出力も大きく落ちた。

この問題が判明した時点では、実験装置はすでにFalcon 9の打ち上げ準備に組み込まれており、部品の交換や清掃はできなかった。

地上で真空環境を再現した追加試験では、約の条件で、当初20ミリワットだったレーザーの有効出力が約1週間で4ミリワットまで低下した。約80%の減少である。

  • 地上・大気圧下 (定格)
  • 地上・真空追試 (劣化後)
地上常圧環境と地上真空追試における光源系の劣化横棒グラフ。カテゴリ 2 件、系列: 地上・大気圧下 (定格), 地上・真空追試 (劣化後)(単位: 実測値)レーザー出力 (mW)レーザー出力 (mW)レーザー出力 (mW) — 地上・大気圧下 (定格): 20実測値20レーザー出力 (mW) — 地上・真空追試 (劣化後): 4実測値4同時計数率 (Hz)同時計数率 (Hz)同時計数率 (Hz) — 地上・大気圧下 (定格): 220実測値220同時計数率 (Hz) — 地上・真空追試 (劣化後): 50実測値50単位: 実測値
データを表で見る
地上・大気圧下 (定格) (実測値)地上・真空追試 (劣化後) (実測値)
レーザー出力 (mW)204
同時計数率 (Hz)22050
地上常圧環境と地上真空追試における光源系の劣化真空チェンバー試験では、脱ガスに伴う光学系の汚染によってレーザー出力が約80%低下し、過電圧7 Vでの同時計数率も大きく減少した出典: arXiv:2609.25248

地上の大気圧下では、定格出力時の光子対同時計数率は約220 Hzだった。一方、真空環境を再現した試験では、レーザー出力の低下に伴って約50 Hzまで減少した。

軌道上ではさらに、6基のSPADのうち3基しか利用できないという制約も加わった。

そこで研究チームは、より多くの信号を得るためSPADの過電圧を12 Vへ引き上げ、1回の測定につき60秒間積算するなど、測定条件を調整した。こうした制約の下で、軌道上における量子干渉の測定が行われた。

32.5度で確認されたHOM干渉

研究チームが軌道上で確認しようとした中心的な現象が、ホン・オウ・マンデル(HOM)干渉である。

HOM干渉は、2つの光子が量子力学的に区別できなくなったときに現れる代表的な2光子干渉現象だ。

ビームスプリッターの2つの入力から、波長、偏光、空間モード、到着時刻などが一致した2つの光子を同時に入射させる。

2光子を区別可能な独立粒子として扱える場合、それぞれが異なる出力へ現れる事象も一定の確率で発生する。ところが、2光子が完全に区別できない量子状態になると、「2つの光子が別々の出力へ出る」ことに対応する量子的な確率振幅が互いに打ち消し合う。

その結果、2光子は同じ出力側に現れやすくなる。これを光子のバンチングと呼ぶ。

2つの出力に置いた検出器で同時に光子を検出する頻度を測ると、2光子が区別できなくなる条件で同時計数率が低下する。このくぼみが「HOMディップ」である。

理想的な古典モデルでは、HOM可視度が50%を超えることはない。そのため、十分な統計的確度で0.5を上回る可視度が得られれば、非古典的な2光子干渉を示す根拠となる。

今回の実験では、2光子の性質を一致させるためにppKTP結晶の温度を変化させた。結晶の温度が変わると、生成される2光子の中心周波数も変化する。

地上試験では、結晶温度を32.5度に設定すると2光子の中心周波数が一致することが確認されていた。

軌道上でも結晶温度を変化させながら測定したところ、32.5度付近で同時計数率が低下するHOMディップが現れた。

得られたHOM干渉の可視度は、

だった。

これは古典限界とされる0.5を2.14標準偏差()上回る。ただし、統計的な有意度は高いとは言えず、不確かさも大きい。そのため、非常に強い証拠とまでは言えないものの、軌道上で非古典的な2光子干渉が生じたことと整合する結果である。

研究チームは、観測された低下が単なる装置ノイズによるものではないかを確認するため、対照測定も行った。

チップ内部のマッハ・ツェンダー干渉計(MZI6)のヒーターを制御し、内部位相をに設定した条件では、結晶温度を32.5度にしても同様のHOMディップは現れなかった。

HOMディップは異なる2日間の測定で確認され、そのデータを重み付け平均した結果が、先ほどの可視度0.908である。

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プログラムした9種類の光回路も測定

研究チームは続いて、集積光回路をプログラム可能であることも確認した。

2つの光子を互いに区別可能な状態にしたうえで、利用可能な3つの空間モードを結合する9種類の異なるユニタリ変換をヒーターへ設定し、それぞれの出力に現れる光子の同時計数分布を測定した。

理論上予測される分布と実測値の一致度を表す古典的忠実度(Classical Fidelity)$F$は、9種類すべてを平均すると、

だった。

9つの設定のうち2つでは、光回路のキャリブレーションに起因するとみられる大きなずれが確認された。この2つを除いて計算すると、

まで上昇した。

論文では、外れ値を含む全9設定の平均値と、問題のあった2設定を除外した値の両方を示している。

パラメータ 地上・打ち上げ前 軌道上または地上追試 主な制約
動作可能なSPAD 6基中6基 6基中3基(C0、C1、C5) 測定可能な出力が3モードに制限
レーザー有効出力 20 mW 約4 mW(地上真空追試) 脱ガスに伴う光学系汚染で約80%低下
光子対同時計数率 約220 Hz 約50 Hz(地上真空追試) 軌道上では過電圧12 V、60秒積算を使用
HOM干渉可視度 $V$ 地上で干渉を確認 古典限界0.5を上回る
ユニタリ変換の平均忠実度 $F$ 事前に回路を設計・校正 2設定を除くと
軌道高度 約550 km(大学広報) 約510 km(論文) 軌道傾斜角97.5度の太陽同期軌道

宇宙での量子情報処理に向けた第一歩

今回の成果については、何を実証し、何をまだ実証していないのかを分けて考える必要がある。

実証されたのは、軌道上の小型宇宙機内で光子対を生成し、プログラム可能な集積光回路で操作し、量子干渉と出力分布を検出できることだ。量子情報処理を構成する基本的な機能が、宇宙環境でも動作したことを示している。

一方、地球観測衛星が撮影した画像を量子アルゴリズムで圧縮したり分類したりしたわけではない。従来のオンボードコンピューターに対する計算上の優位性が示されたわけでもない。

研究チームが今後の目標として掲げているのは、衛星に搭載されたカメラなどの観測センサーと量子プロセッサを接続することだ。

例えば、地球観測カメラから得られたデータを光回路の設定へ変換し、プログラム可能なユニタリ変換を使って特徴抽出や推論などの処理を行う仕組みを想定している。実現すれば、量子回路を衛星内のデータ処理へ組み込む「オンボード量子機械学習」につながる可能性がある。

ただし、その前には多くの工学的課題が残っている。

今回の実験では、宇宙放射線によるSPADの暗計数率増加、光ファイバーの透過率低下、真空環境での光学系汚染などによって、光子対の検出率が大きく低下した。

十分な統計を得るために1回の測定で数十秒以上の積算が必要になる状態では、地表を連続撮影しながらリアルタイムで処理する地球観測用途へそのまま利用することは難しい。

実用化に向けては、放射線に強い光検出器や光回路の開発、低アウトガス材料の徹底、真空環境での光学部品の汚染防止、日照中でも迷光を抑えられる遮光設計などが必要になる。

さらに、本格的な量子誤り訂正を備えない現在の光量子プロセッサで、地上の高性能GPUや衛星向けエッジコンピューターに対して実用上の利点を生み出せるかという問題も残る。

今回のミッションは、小型ペイロードを使った概念実証であり、成果もまだ査読前の段階だ。それでも、地上では精密な環境制御を必要とする光量子回路を宇宙へ送り、装置の一部が故障し性能も低下するなかで、2光子干渉とプログラム可能な光回路の動作を確認した意味は小さくない。

今回得られたのは「宇宙量子コンピューター」の完成ではなく、光量子情報処理に必要な基本要素を軌道上でも動かせることを示した初期の実証結果である。