2019年、Googleは自社の量子コンピュータが古典スパコンの10,000年分の計算をわずか200秒でこなしたと大々的に発表した。しかし、IBMはほぼ即座に反論の声を上げた。アルゴリズムとストレージを最適化すれば、まったく同じ問題を既存の古典機でも2.5日で解くことができると主張したのだ。このセンセーショナルなやり取りは、「量子優位性」という概念そのものが抱える曖昧さを広く世界に露呈することになった。量子コンピュータが何かを圧倒的なスピードで計算したとしても、その弾き出した答えが本当に正しいかを確かめる手段は存在しない。そのジレンマが解決されないまま、量子計算分野の水面下に重い課題として残り続けていたのだ。

量子計算の検証問題は、極めてシンプルかつ厄介な構造を持つ。量子コンピュータが古典コンピュータの手が届かない未踏の領域で走ったとき、その計算結果が正しいかどうかを古典的な計算機を使って確かめることは、定義上不可能になる。答え合わせができないのであれば、極端な話、計算機がノイズとエラーの塊を出力していても「これが正しい答えだ」と言い張れてしまう。これまでに報告されてきた量子優位性のデモはいずれも、この根本的な問題を真正面から解くことはなく、「計算しやすい小さいサイズの回路で正しく動いたのだから、古典機では追いつけない大きいサイズでも同様に正しく動くはずだ」という強い推定に頼ることで、証明のハードルを回避していた。

2026年7月30日、IBMとシカゴ大学のチームは、この回避路を閉じたまま走り抜ける実験を発表した。論文の題名は「Sampling hard circuits with verifiably high fidelity」。古典計算の限界を超えながら、かつ答えの正確性を数学的に担保する。この二つの要件を、どのように両立させたのか。

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CliffordゲートとTゲートの非対称性が解法の起点だった

量子回路を構成するゲートには、古典コンピュータとの親和性に根本的な非対称性がある。「Cliffordゲート」と呼ばれる一群(ハダマードゲート、位相ゲート、CNOTなど)は、どれほどの量子ビット数で組み合わせても古典コンピュータで効率的にシミュレートできる。これはGottesman-Knillの定理として定式化されており、Cliffordゲートだけの回路は「量子コンピュータが得意なことをしていない」状態に等しい。

これに対して「Tゲート」(T gate、非Cliffordゲート)は一個追加するごとに古典シミュレーションのコストを指数的に引き上げる。Tゲートが量子計算の本質的な「燃料」だ。しかし、Tゲートを使うとエラーの検出が難しくなる。Cliffordゲートのみで構成した回路はエラーを検出できるが、Tゲートを混ぜるとその構造が崩れる。これが以前の定説だった。

IBMとシカゴ大学の研究チームはここに突破口を見つけた。彼らが構築したのは「時空コード」(spacetime code)と呼ばれるエラー検出の枠組みだ。まず、回路の全体を古典シミュレーションが容易なCliffordゲートのみで組み立てる。この状態であれば、計算中に発生したエラーを確実に拾い上げることができる。その上で、計算の「燃料」となるTゲートを、エラー検出の網の目を潜り抜けられる特定の位置にだけ、慎重に「接ぎ木」していく手法をとった。Tゲートを無闇に増やせばエラーが見えなくなり、少なすぎれば古典コンピュータに追いつかれてしまう。チームはその絶妙なバランスが成り立つ構造を数学的に導き出したのだ。

この結果、70量子ビットの回路に468個のTゲートを埋め込んだ状態でも、エラー検出機構が破綻せずに機能し続けた。468個という数は、論文の著者らによれば古典シミュレーションが可能な限界値の2倍以上にあたる。チームはHeronプロセッサ上で2,415個の論理2量子ビット演算を実行し、エラーとして却下されなかった実行結果のうち、28%以上が忠実に計算を完了していることを確認した。忠実度の下限は0.284と算出され、これは95%の信頼水準を持つ統計的な保証となる。これほど確固とした証明を伴う数字を、過去の量子優位性実験は出せていなかった。

15分という時間と860倍という代償

量子コンピュータがこの計算を終えるのに要した時間は約15分だ。チームは古典的なシミュレーション手法で同じ問題を試みたが、「現実的でない計算時間」が必要になると述べるにとどまる。どれほどかかるかの見積もり数値は公表されていない。この点は、「10,000年」という具体的な数字を前面に出したGoogleの2019年発表とは対照的だ。

ただし、今回のIBMとシカゴ大学の手法には明確な代償が存在する。エラー検出スキームを機能させたまま計算を走り切るために、途中でエラーを検知して却下されたラン(実行)を含む総実行回数が、通常の場合と比べて実に860倍にまで膨れ上がったのだ。「28%が忠実に計算を完了した」という数字が一見すると低く見えるのはここに理由がある。稼働の大半はエラーによって棄却される運命にある。エラー検出機構が「不合格」の判定を大量に生み出し続ける一方で、その厳しいふるいを潜り抜けて残った少数の「合格」の答えに対してのみ、数学的な確実性の証明を付与する。これはいわば、歩留まりの悪さを許容する代わりに不良品の出荷を絶対に許さない、極めて厳格な品質管理の工場ラインのような構造だ。この860倍という高いオーバーヘッドをどうやって削減していくかは、実用的な量子計算に向けた次の巨大な工学的課題として立ちはだかる。

論理エラー率が物理エラー率の10分の1に抑えられたことは、量子誤り訂正の実証として重要な数値だ。物理的なノイズをそのまま使う「NISQ(ノイジー中規模量子)」時代から、論理量子ビットで保護された計算へと移行する道筋の一歩を、この数字は示している。

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別の二つの実験が「信頼の輪郭」を描いた

同日、IBMのパートナー企業も独立した量子優位性のデモを発表した。いずれも磁性材料の振る舞いをシミュレートするという、物理的な応用に近い問題設定だ。

Qedmaの実験チームは、IBM Heron R3プロセッサ上で2次元フロケットイジング磁石の「準熱前振動」(subharmonic prethermal oscillations)を最大74量子ビットで追った。論文タイトルは「Resolving Structure in Prethermal Floquet Dynamics with Precision Quantum Computation」。比較対象には、富岳スパコン(500,000 CPU時間超を投入)とNvidiaのH100 GPUサーバーを据えた。

結果の対比は鮮明だ。35量子ビットまでは量子コンピュータ、富岳、H100の三者が同じ振動パターンを示した。51量子ビットになると富岳とH100は最初の数パルスまでしか追えずに破綻した。74量子ビットはそもそも古典手法の届く範囲ではなかった。

Qedmaの最高技術責任者Netanel Lindnerが強調したのは、この振動が本当に物理系に存在するかどうかという根源的な問いだ。それを確かめるために、チームはエラー軽減を切ったときに結果が崩れることを意図的に確認し、理論保証付きの軽減法を用いた結果が小さいスケールで古典計算と完全一致することを示した。

さらに決定的な検証として、QuantinuumのH2とHeliosという捕捉イオン型機器でも同じ振る舞いが再現されることを確かめた。超伝導チップと捕捉イオンでは、ノイズの発生源もエラーの性質もまったく異なる。物理的性質の違うアーキテクチャの量子コンピュータで同一の結果が出た事実は、その結果がハードウェアのノイズによる幻影ではなく、計算の真理であることを強く裏づける。「Quantinuumで得た結果がIBMの結果と完全に一致している。これが私たちに強い確信を与えてくれる」とLindnerは言う。

Algorithmiq(CEOはSabrina Maniscalco)は56量子ビットの回路をIBM Heronで動かし、古典手法が最も苦手とする複雑な領域においては、異なる複数の古典手法が互いに矛盾した答えを出すことを示した。この古典側の破綻を尻目に、量子コンピュータの出力の正しさは入念な交差検証によって裏づけられた。回路を短く切ったバージョンで古典シミュレーションと一致することを確認し、さらに演算ゲートの動作を遅くしたり、ノイズを意図的に注入したり、別の量子プロセッサに切り替えたりしても、得られる結果の傾向が変わらないことを示したのだ。「この一致は偶然ではない。証拠だ」とManiscalcoは述べた。

「単一の試験ではなく、信頼を積み重ねるプロセスだ」

三つの実験を評価したETH ZurichのポスドクDominik Hangleiterは、シカゴ大学との論文を「ランダム回路から構造を持つ回路へ移行して検証可能にする」アプローチとして支持した。ただしQedmaとAlgorithmiqの研究については、「どちらの論文も著者自身が量子優位性を明示的に主張しているわけではない」と指摘している。古典シミュレーションが難しいことを示した、という水準で述べており、Hangleiter自身はその節度を「適切だ」と評価する。

ベルリン自由大学のJens Eisert教授の視点は構造的だ。量子優位性は一度越えれば確定する「ゴールライン」ではなく、さまざまな検証手法を積み上げながら信頼を構築し続けるプロセスだ、という。「古典的なシミュレーションが届かない領域での量子シミュレーションの検証は、単一の手続きではなく、複数の補完的な検証手法のポートフォリオを通じて信頼を積み重ねるプロセスだ」と彼はIEEE Spectrumへのメールに書いた。

三本の論文はいずれも2026年7月30日に公開されたが、現時点で査読を経ていない。2019年のGoogleの主張に対し、IBMが古典アルゴリズムの改良で部分的に反論した歴史は、今回の主張にも同様の可能性がある。IBMはQuantum Advantage Trackerに回路と結果を公開し、コミュニティによる反証を明示的に歓迎している。この公開性が「挑戦してほしい」という姿勢の表れだとすれば、今後数年間、この主張が古典アルゴリズムの進歩によって揺さぶられ続けることは、むしろ量子計算科学が健全に機能していることの証左になるだろう。