CERNのBASE共同研究グループが、反陽子をトラックで輸送し、可搬型装置の中で1カ月以上保存した実験の詳細を、9月16日付の『Nature』論文で報告した。3月24日に行われた輸送では、92個の反陽子をCERN構内で7.5km移動させても粒子の損失は確認されず、33日間の保存観測でも残留ガスとの衝突による消滅は観測されなかった。
物質と接触すれば消滅する可能性がある反陽子を運ぶには、走行中の振動や外部環境の変化があっても、極めて高い真空度と安定した電磁場を維持する必要がある。今回の査読済み論文は、こうした条件をどのような測定で検証したのか、そして反陽子をより静かな環境へ運び、精密測定を行うために何が必要なのかを示している。
92個の反陽子が残ったことを、粒子を失わずに確かめる
反陽子は、陽子と同じ質量を持ちながら負の電荷を持つ反粒子である。研究チームが開発したBASE-STEPは、電場と磁場を組み合わせる「ペニングトラップ」によって反陽子を閉じ込める。
磁場が横方向の運動を制限し、電場が磁場に沿った方向の運動を抑えることで、反陽子が装置の壁へ接触しないようにする仕組みだ。
ただし、壁との接触を防ぐだけでは長期間保存できない。装置内部に残った気体分子と衝突しても対消滅が起こるため、トラップ内部には極低温と非常に高い真空度が必要になる。
BASE-STEPは約4.3Kで動作する冷却系と超伝導磁石を備える。外部設備から切り離している間も、電極などには電池から電力を供給し、液体ヘリウムによって冷却を維持する。論文によると、装置全体の重量は約850kgに達する。わずか数十個の反陽子を保持するために、それだけ大規模な装置を移動させることになる。
3月の走行時間は24分間だった。外部電源や冷却設備を切り離してから再接続するまで、装置は2.72時間にわたって自律運転した。
では、輸送後も92個の反陽子が残っていたことを、どのように確認したのか。
研究チームが利用したのは、反陽子の運動によって電極に誘起される微弱な「鏡像電流」である。超伝導回路を利用した検出器では、捕捉された粒子群との相互作用によって雑音スペクトルに小さなくぼみが現れる。このくぼみの幅は、条件をそろえれば粒子数に対応する。
研究チームは反陽子を分離し、単一粒子の信号まで校正することで、反陽子を消滅させることなく粒子数を追跡した。
輸送前後にそれぞれ24時間測定した結果、くぼみの幅は334.08(8)Hzと333.92(6)Hzだった。括弧内の数字は、末尾の桁に対応する不確かさを表す。
両者の差は0.16Hzである。一方、反陽子が1個失われた場合には3.633(16)Hzの変化が生じると見積もられている。観測された差はその10分の1以下であり、研究チームはこの結果から、道路輸送による粒子損失はなかったと判断した。
単に輸送後も何らかの信号が残っていたことを確認したのではなく、粒子数の変化を検出できる精度で輸送前後を比較した点が重要である。
ただし、走行中に常に安定した信号が得られたわけではない。輸送によって検出回路の共振周波数が変化し、取得したデータからくぼみの幅を算出できた区間は限られていた。帰還後には検出系の再調整も行われている。
そのため、走行中の監視だけではなく、輸送前後の長時間測定を組み合わせることで、粒子損失がなかったことを確認している。
33日間の保存から真空性能を評価する
BASE-STEP内の反陽子数は、33日間にわたって追跡された。この期間には、装置を外部設備から切り離して自律運転する試験が4回、合計12.3時間含まれている。それでも、残留ガスとの衝突による反陽子の消滅は観測されなかった。
ここで区別する必要があるのが、保存期間中に1個の反陽子が失われたことである。
論文では、この1個は粒子を分離するために電極電圧を変更した操作中に失われたと記録されている。したがって、道路輸送中の損失はゼロだったが、33日間を通じて一度も粒子が失われなかったわけではない。
一方、残留ガスとの衝突による消滅が観測されなかったことは、トラップ内部の真空度を評価する手掛かりになる。
残留ガスの密度が高ければ、反陽子が気体分子と衝突して消滅する確率は高くなる。反対に、多数の反陽子を長期間観測しても消滅が起こらなければ、その結果と矛盾しない残留ガス密度に上限を設けることができる。
この観測量は、単純な33日という暦時間より大きい。
研究チームが各反陽子の保存時間を合計すると、「反陽子1個を8.28年間観測した」ことに相当する累積観測時間となった。もちろん、1個の反陽子を実際に8年以上保存したという意味ではない。多数の反陽子を同時並行で観測した時間を合計した値である。
研究チームは、まれな消滅事象の発生をポアソン過程として扱い、この観測結果から保存寿命の下限を68%の信頼水準で7.27年と推定した。
ここでいう保存寿命とは、この装置内で反陽子を保持できる時間尺度を示す。反陽子そのものの自然崩壊寿命を測定したわけでも、装置を7.27年間連続運転したわけでもない。
さらに、既知の対消滅断面積、すなわち反陽子が残留ガスと衝突して消滅する確率を使い、残留ガスの各成分について圧力の上限を求めた。
水素は9.6×10⁻¹⁹mbar未満、ヘリウムは2.2×10⁻¹⁸mbar未満と推定された。これらは圧力計で直接測定した値ではなく、「反陽子が消滅せず残った」という観測結果を物理モデルへ当てはめて導いた上限値である。
重要なのは、完全な真空を証明することではない。反陽子を長期間保存するうえで、残留ガスによる損失が十分に小さいことを示せればよい。
粒子を出し入れするための経路を備えた可搬型装置で、輸送後もこの水準の真空性能を維持できたことが、将来の精密測定に向けた重要な成果となる。
実測値、統計的推定、将来計画を分けて考える
今回示された「輸送時の損失ゼロ」「33日間の保存」「7.27年という保存寿命の下限」「100倍以上の精度改善」という数字は、それぞれ意味が異なる。
BASEグループの9月16日付論文について、輸送、保存寿命、将来展望に関する記述を整理すると、次のようになる。
| 項目 | 論文が示した内容 | 読み取れることと限界 |
|---|---|---|
| 道路輸送 | 92個の反陽子を7.5km輸送し、粒子損失なし | CERN構内で行った今回の輸送条件で実証 |
| 保存観測 | 33日間、残留ガスによる消滅を観測せず | 粒子分離操作中には1個を失っている |
| 保存寿命 | 68%信頼水準で下限7.27年 | 累積観測時間と統計モデルから得た推定値で、7.27年間の実運転ではない |
| 精密測定 | 将来、100倍以上の精度改善を想定 | 磁場環境の静かな実験室などへの移送を前提とする将来目標 |
出典:LeonhardtらのNature論文。この表は数値を直接比較するためのものではなく、それぞれの主張がどの種類の証拠に基づいているかを整理したものである。
この区別に立つと、33日間の保存試験は単なる輸送実験の補足ではない。
目的地へ反陽子を運んだ後に実験を続けるには、到着時に粒子が残っているだけでなく、その後も十分な真空度を保って保存できなければならない。
短時間の道路輸送と長期間の保存観測は、それぞれ異なる条件を検証している。
反陽子を作る場所と測定する場所を分ける
CERNの反物質工場は、低エネルギーの反陽子を精密実験へ供給する拠点である。一方で、加速器などの大型設備が稼働することで、周囲の磁場にはわずかな変動が生じる。
反陽子の運動やスピンの周波数を高精度に測定する実験では、基準となる磁場の揺らぎが測定精度を制限する要因になる。そのため、反陽子を生成するのに適した場所と、極めて高精度な測定を行うのに適した場所が必ずしも一致しない。
BASEが調べているのは、陽子と反陽子の電荷・質量比や、粒子の磁気的性質を表す磁気モーメントなどである。
こうした比較は、粒子と反粒子の交換、空間反転、時間反転を同時に行っても物理法則が変わらないという「CPT対称性」を検証する手段になる。
もし陽子と反陽子の性質に標準模型の予測を超える違いが見つかれば、新しい物理の手掛かりとなる可能性がある。
宇宙に反物質ではなく物質が多く残った理由を理解することも、こうした研究の大きな動機の一つである。
ただし、今回の輸送実験で陽子と反陽子の新たな違いが発見されたわけではない。反陽子を磁場雑音の小さい実験室へ運べるようにすることで、将来の測定感度を高めることが目的である。
より長距離の輸送を実現するには、まだ技術的な課題が残る。
今回の装置では最大4時間の自律運転が試されているが、研究チームが将来目指しているジュネーブからドイツのハインリッヒ・ハイネ大学デュッセルドルフまでの移動には、約10時間を要する。
長距離輸送に対応する電源や冷却系に加え、可搬型トラップから目的地の精密測定装置へ反陽子を安全かつ制御された状態で移し替える技術も必要になる。
反陽子が目的地まで失われずに運ばれ、現地の装置へ移された後も精密測定に利用できること。その一連の工程が確立されて初めて、研究者は反陽子の供給施設から離れた、より静かな環境で物質と反物質を比較できるようになる。



