1935年、アルベルト・アインシュタインは量子力学が示す奇妙な性質に対して「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残し、遠く離れた粒子同士が瞬時に影響を及ぼし合う現象を「不気味な遠隔作用」と呼んでその完全性に疑問を投げかけた。いわゆるEPRパラドックスの提起である。しかし、科学の歴史は時に奇妙な皮肉に彩られる。彼が疑いの目を向けたその不気味な相関こそが、約1世紀の時を経たいま、通常の光では決して見ることのできない世界を可視化する極限のカメラ、すなわち量子イメージングの心臓部を担っているのだ。

2022年のノーベル物理学賞が量子もつれの研究に授与されたことからもわかるように、離れた粒子間に生まれる強い相関関係はすでに実験室の難解な哲学から、極めて実用的な物理的ツールへと昇華されている。空間的な量子もつれを利用したイメージング技術は、古典的な光学限界を突破し、ノイズの吹き荒れる過酷な環境下でも驚異的な分解能と感度を発揮するポテンシャルを秘めている。

しかし、この画期的な技術を現実の社会基盤に実装する上で、科学者たちは「絶望的な非効率性」という巨大な壁に直面していた。量子イメージングを真に実用的な「目」へと進化させるためには、光子を生成するエンジンの抜本的な構造改革が必要だったのである。そして2026年6月、神戸大学大学院システム情報学研究科の吉村佳奈子氏、米田成准教授、的場修教授らの研究グループは、米国物理学協会の科学論文雑誌『AIP Advances』において、そのエンジンの換装を実証する重要な研究成果を発表した。本稿では、同グループがいかにして量子イメージングの「時間の壁」を打ち破り、次世代産業の勢力図をどう塗り替えようとしているのか、その詳細なメカニズムとマクロな展望を紐解いていく。

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量子イメージングの夜明けと、立ち塞がる「時間の壁」

量子イメージングの基本的な仕組みは、自発的パラメトリック下方変換(SPDC)と呼ばれるプロセスに大きく依存している。これは、高いエネルギーを持った1つの光子(ポンプ光)を非線形光学結晶という特殊なプリズムのような変換器に撃ち込み、エネルギーの低い2つの双子の光子(シグナル光とアイドラー光)に分裂させる現象である。この双子の光子は、生まれた位置や運動量において「量子もつれ」の状態にある。片方の光子の状態が決まれば、もう片方の状態も瞬時に確定する。

この空間的な相関を利用すると、対象物に当たって反射してきたわずかな光子から、背景の強烈なノイズ(迷光)に惑わされることなく画像を描き出すことができる。これが量子画像蒸留と呼ばれる技術の正体である。ノイズ源からランダムに飛んでくる光子は双子のパートナーを持たない。したがって、無数の光子が「同時に」カメラに到達したかどうかをピクセル単位で照合することで、無関係なノイズだけを数学的に消し去り、目的の像だけを抽出することが可能になる。

ここには一つの致命的なジレンマが存在していた。双子の光子を生み出すSPDCプロセスの変換効率が、とてつもなく低いのである。これまで量子イメージングの標準的な光源として長らく用いられてきたのは、BBO(ベータホウ酸バリウム)という非線形光学結晶である。このBBO結晶の内部では、入射した数億個の光子のうち、双子に分裂して出てくるのはごくわずかである。結果として、意味のある画像をノイズから抽出するのに十分なコントラストを得るためには、数百万から数千万回ものフレーム撮影を行い、数十時間から時には数日かけてデータを蓄積しなければならなかった。

遠くの銀河を何日もかけて撮影する天体観測であれば許容されるかもしれない。だが、医療現場での刻一刻と変化する生体組織の観察や、霧の中を高速で走る自動運転車のリアルタイムセンサーとして用いるには、数十時間という時間はあまりにも長すぎる。この極端な「暗さ」と「遅さ」こそが、量子イメージングが実験室という安全な環境から抜け出せない最大の要因であった。

変換のルールを書き換える:BiBO結晶とハミルトニアンの力学

この圧倒的な時間の壁を粉砕するため、神戸大学の研究グループは光の変換エンジンそのもののアップグレードを試みた。彼らが目をつけたのは、BiBO(三ホウ酸ビスマス)という非線形光学結晶である。

非線形光学結晶には「一軸性」と「二軸性」という光学的な異方性の分類がある。従来のBBOが一軸性であるのに対し、BiBOは二軸性の結晶構造を持ち、光の屈折率の方向依存性がより複雑である。この複雑な構造の恩恵により、BiBO結晶はBBO結晶と比較して約1.5倍から2.0倍という非常に大きな非線形光学係数を持つことが知られている。非線形光学係数とは、簡単に言えば「光子を双子に分裂させる変換器の基礎性能」を示す数値である。

しかし、これまで最新のEMCCDカメラ(極微弱光を捉える電子増倍型の高感度カメラ)を用いた空間相関測定や、実際の量子画像蒸留のシステムにおいて、BiBO結晶がどれほど実用的な効率向上をもたらすのかを定量的に評価した研究は存在しなかった。単純に「高輝度だ」とわかっていても、それが画像再構築のフレーム数をどう減らすのかは未知数だったのだ。

なぜ結晶の素材を変えるだけで、劇的な変化が起きるのか。光と非線形光学結晶の相互作用は、以下の相互作用ハミルトニアンで記述される。

ここで鍵を握るのが で表される二次非線形感受率である。この数式は、ポンプ光(親)がシグナル光とアイドラー光(双子)に変換される確率を決定する「ルールブック」である。量子力学の計算によれば、双子光子が生成される確率は、この非線形光学係数の2乗に比例する。つまり、変換器の性能指標が1.5倍になれば、生まれてくる双子光子の数は2乗の2.25倍以上に跳ね上がる。

研究グループは、同じ強度のレーザー(22 mW)を照射し、同じ露出時間(3 ms)で撮影を行うという厳密な同条件下で、BBO結晶とBiBO結晶のパフォーマンスを真っ向から比較した。

比較項目 従来のBBO結晶 本研究のBiBO結晶
結晶の性質 一軸性非線形光学結晶 二軸性非線形光学結晶
非線形光学係数 基準値 BBOの約1.5倍〜2.0倍
100万フレーム時のCNR ほぼノイズに埋没 BBOの約5.6倍
最終到達CNR (350万フレーム時) 0.76 (分離不十分) 4.36 (明確な分離成功)

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死んだ猫と生きた猫を分離する「量子画像蒸留」の衝撃

結晶の絶対的な性能差を視覚的に証明するため、研究グループは物理学の歴史的な思考実験をオマージュした粋な実証実験を行った。古典光(LED)と量子もつれ光(SPDC)を重畳させる量子画像蒸留である。

実験のセットアップはこうだ。量子力学の「重ね合わせ」を象徴するシュレディンガーの猫をモチーフにし、「生きた猫」のシルエットと「死んだ猫」のシルエットがくり抜かれたプレートを用意する。そして、古典光である800 nmのLEDで生きた猫を照明し、同時にBiBO結晶から生成された810 nmの量子もつれ光で死んだ猫を照明する。

これらをハーフミラーで重ね合わせてカメラで撮影すると、通常の強度画像(生のデータ)では、生きた猫と死んだ猫が重なり合った「キメラ状態」の画像しか得られない。古典的なカメラ技術では、どちらの猫がどの光で照らされているのかを見分けることは不可能である。

しかし、ここで得られたデータに対して空間的な強度相関計算(各ピクセル間の光子到達の同時性を評価する計算)を適用すると、事態は一変する。

LEDから放出された光子は完全にランダムなタイミングで到達するため、長時間のデータを積分すると相関値はゼロに収束していく。一方で、量子もつれ光は必ず双子で発生するため、特定の空間的な位置関係(今回のセットアップでは位置が正の相関、運動量が負の相関を持つ)において同時にカメラに到達する確率が極めて高い。この「同時性」というふるいをかけることで、ランダムなノイズ(生きた猫)は綺麗に蒸発し、もつれた光で照らされたターゲット(死んだ猫)だけが鮮明に浮かび上がってくる。

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論文のFig. 5に基づく比較結果。BBO結晶(a)およびBiBO結晶(b)で撮影した生の画像では、量子もつれ光による「死んだ猫」とLEDによる「生きた猫」が重なり合って判別できない。しかし、光子の同時性を照合する量子相関計算によって画像を再構築すると、BBO結晶(c)ではノイズに埋もれて像が不鮮明なままであるのに対し、BiBO結晶(d)ではLEDのランダムなノイズが消え去り、「死んだ猫」の姿だけが鮮やかに再構築されている。(Credit: Kanako Yoshimura, Naru Yoneda, Osamu Matoba, AIP Advances (2026). DOI: 10.1063/5.0314450)

驚くべきはその圧倒的な処理スピードの差である。比較実験において、従来のBBO結晶を用いた場合、350万フレームの画像を蓄積してもコントラスト対ノイズ比(CNR)は0.76にとどまり、二つの猫の像はノイズにまみれて分離できなかった。しかし、BiBO結晶を用いた場合、わずか100万フレームの時点でBBO結晶の約5.6倍のCNRを叩き出し、最終的に350万フレームでCNR 4.36に到達。死んだ猫の姿を完璧に分離・再構築することに成功したのである。

また、アインシュタインの言葉「神はサイコロを振らない(God does not play dice)」を用いた実験でも、量子もつれ光で「God play dice」を、古典光で「does not」を照明した結果、相関計算によって見事に「does not」の文字だけが消滅する様子が確認された。不要な迷光成分を古典光と見なせば、ノイズだらけの悪条件下でも対象物だけを完璧に抽出できる事実を雄弁に物語っている。

霧をすり抜け、細胞の深淵を覗く:次世代産業へのインパクト

BiBO結晶による高輝度化は、量子イメージングの処理時間を大幅に削減し、実用化の扉を大きくこじ開けた。この飛躍が意味する社会実装の未来を少し覗いてみよう。

まず期待されるのが、完全自動運転や航空・船舶ナビゲーションへの応用である。現在の自動運転技術はLiDARや高解像度CMOSセンサーに頼っているが、濃霧や吹雪といった悪天候下では、乱反射する光(散乱光ノイズ)に邪魔されて対象物を正確に認識できないという弱点がある。しかし、量子もつれ光をパルスとして照射し、反射して戻ってきた光子と手元に残した光子の「同時性」を照合すれば、霧で乱反射した無数のノイズ光を完全に無視して、前方の障害物や歩行者だけをくっきりと浮かび上がらせる透視センサーが実現する。

さらに医療分野では、生体深部を観察する多光子吸収顕微鏡への応用が視野に入る。生体組織は光を強く散乱するため、従来の光学顕微鏡では表面から数十マイクロメートル程度の深さしか鮮明に観察できない。しかし、量子イメージングの高輝度化と低ノイズ化が進めば、細胞を傷つけることなく、生きたままの脳神経回路の活動や深部のがん細胞の挙動をリアルタイムで三次元映像化できるようになる。

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次世代センサーとの融合が描く「光とシリコン」のゲームチェンジ

本研究の先にある産業的なインパクトを俯瞰すると、画像センサー市場の構造そのものを揺るがす地殻変動が見えてくる。現在、画像センサーの市場はソニーをはじめとする少数の巨大企業がCMOS技術で寡占状態にある。しかし、量子イメージングの領域においては、単なる画素数の競争から「光子の到達時間をいかに精緻に測るか」という時間分解能の競争へとルールが変わる。

現在の課題は、光源の輝度を上げると「たまたま偶然に同じタイミングで到達してしまった全く無関係の光子(Accidental coincidences)」の量も増加してしまう点にある。今回の実験で使用されたEMCCDカメラの露出時間は 3 ms であり、光子本来のナノ秒単位の相関時間と比較すると長すぎるため、この偶然のノイズを完全に排除しきれていない。

この残された課題に対する決定的な解となるのが、ナノ秒(10億分の1秒)単位の時間分解能を持つSPAD(単一光子アバランシェダイオード)カメラや、光子の到達時間をピクセルごとに厳密にタイムスタンプできる最新のセンサー群との融合である。BiBO結晶がもたらす圧倒的な「光の量」と、次世代センサーがもたらす極限の「時間分解能」。この二つが掛け合わされたとき、ノイズは極限まで削ぎ落とされ、真にスケーラブルで高速な量子イメージングが完成する。

これは、従来の「光の強弱」だけを記録する古典的なイメージセンサー技術から、「量子相関」という全く新しい次元の情報を読み解く情報フォトニクス産業へのシフトを意味する。このパラダイムシフトに出遅れた企業は、激変する自動運転や高度医療機器のサプライチェーンから脱落するリスクすら孕んでいる。

神戸大学の研究グループが提示した「古典光と量子光を異なる情報を運ぶ媒体として捉え、融合する」という視点は、次代の光科学の指針である。神がサイコロを振るか否か、その形而上学的な問いの決着はまだついていないかもしれない。しかし確かなことは、科学者たちがそのサイコロの出目を自在に読み解き、ノイズの海から真実の姿だけを瞬時に引き上げる「量子の目」を確実に手に入れつつあるということだ。