私たちの日常世界において、「記憶」とは確固たる過去の記録であり、物事の進行に影響を与える不可逆な情報である。物理学においても、過去の状態が現在の進行に影響を及ぼすシステムは「記憶を持つ(非マルコフ的である)」と分類され、現在の状態のみで未来が決まるシステムは「記憶を持たない(マルコフ的である)」と分類されてきた。しかし、極微の世界を支配する量子力学の領域において、この「記憶」という概念がこれまで考えられていた以上に複雑で、かつ相対的な性質を持つことを示す画期的な研究結果が発表された。

フィンランドのトゥルク大学、イタリアのミラノ大学およびIstituto Nazionale di Fisica Nucleare (INFN)、そしてポーランドのニコラウス・コペルニクス大学
からなる国際研究チームは、最先端の量子物理学専門誌『PRX Quantum』に論文を発表し、量子過程における「記憶(Memory)」の有無が、システムを記述する「視点(描像)」の選択によって全く異なる様相を呈することを数学的かつ操作的に証明した

この発見は、理論物理学における難解なパズルを解き明かしただけに留まらず、現在世界中で熾烈な開発競争が繰り広げられている量子コンピューターや量子通信など、量子テクノロジーの実用化を阻む最大の障壁である「ノイズ」と「デコヒーレンス(量子状態の崩壊)」の理解と制御に向けて、全く新しいアプローチを提示するものだ。

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物理学における「記憶」とは何か?:マルコフ過程と非マルコフ過程

今回の発見の意義を深く理解するためには、まず物理学や確率論において「記憶(Memory)」という言葉が何を意味しているのかを正確に把握する必要がある。

古典的な物理学や統計学において、あるシステムの未来の振る舞いが「現在の状態」のみによって決定され、「過去にどのような経路を辿って現在の状態に至ったか」という履歴に一切依存しないプロセスを、「マルコフ過程(Markovian process)」と呼ぶ。最も身近な例は、コイントスやサイコロの目だ。今サイコロを振って「6」が出たという事実は、次に振ったときに何が出るかという確率に一切の影響を与えない。システムは過去の履歴を「忘却」しており、まさに「記憶を持たない」状態である

これと対極にあるのが「非マルコフ過程(Non-Markovian process)」だ。これはシステムの未来が、現在だけでなく過去の状態にも依存するプロセスを指す。例えば、天候の予測や、粘力のある流体の中を移動する粒子の運動などがこれに該当する。環境との複雑な相互作用によって、過去の情報の断片がシステムやその周囲の環境に蓄積され、それが時間を遅れて現在のシステムに影響(フィードバック)を与えるのである。これはシステムが過去の履歴という「記憶を持っている」状態に他ならない。

量子力学の世界、特に外部の環境と相互作用する「開放量子系(Open quantum systems)」の研究において、このマルコフ性と非マルコフ性の境界線をどこに引くかは、長年にわたる中心的な研究テーマであった。理想的な孤立系とは異なり、現実の量子システム(例えば量子コンピューターを構成する量子ビット)は、常に周囲の環境と相互作用し、情報を失っていく。この情報が一方的に環境へと流れ出ていく不可逆なプロセスは、記憶を持たない「マルコフ的」な振る舞いとみなされる。

しかし、特定の条件下では、一度環境に漏れ出した情報が、時間の経過とともに再びシステムへと逆流してくる現象が観測される。この情報の逆流こそが、量子系が環境との間に複雑な相関関係を築き、過去の情報を保持している証拠であり、「非マルコフ的(記憶を持つ)」であることの明白な指標として扱われてきた。これまでの量子情報科学は、この情報の喪失と逆流のダイナミクスをいかに制御するかに多大な労力を費やしてきたのである。

量子力学の2つの視点:シュレディンガー描像と ハイゼンベルク描像

量子系の「記憶」について研究する際、これまでの物理学者はほぼ例外なく、ある単一の強力な理論的枠組みに依存してきた。それが、オーストリアの物理学者Erwin Schrödinger(エルヴィン・シュレディンガー)によって構築された「シュレディンガー描像(Schrödinger picture)」である。

量子力学には、数学的に等価でありながら概念的に全く異なる2つの基本的な定式化が存在する。シュレディンガー描像はその一つであり、ここでは量子系の「状態(密度行列などと呼ばれる数学的表現)」が時間の経過とともにダイナミックに変化していくと考える。一方で、その状態を測るための「観測量(Observable:位置、運動量、スピンなどの物理量)」は固定されたままだ。これを映画の撮影に例えるなら、カメラ(観測の枠組み)は三脚で固定されており、その前で俳優たち(量子状態)が時間とともに動き回っている状態と言える。

これに対をなすのが、ドイツの物理学者Werner Heisenberg(ヴェルナー・ハイゼンベルク)によって構築された「ハイゼンベルク描像(Heisenberg picture)」である。こちらの視点では、量子系の「状態」自体は初期状態のままピタリと静止して変化しない。その代わり、システムを測定するための「観測量」の側が時間とともに進化・変化していくと考える。先ほどの映画の例えを用いれば、俳優たち(量子状態)は静止しているが、カメラ(観測の枠組み)の方が複雑な軌道を描いて動き回りながら彼らを撮影している状態に相当する。

物理学における極めて重要な事実として、最終的にスクリーンに映し出される映像、すなわち我々が実験室で得られる「測定結果の確率」や「物理的な予測」は、どちらの描像を用いても完全に一致することが証明されている。この絶対的な等価性があるため、時間発展を伴う複雑な現象、とりわけ開放量子系のダイナミクスや記憶効果(非マルコフ性)を研究する際、直感的に理解しやすいシュレディンガー描像を用いるのが科学界の長年の暗黙の了解であり、伝統であった。ハイゼンベルク描像における記憶効果については、等価である以上わざわざ個別に検討する必要はないと考えられていたのだ。

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視点によって変わる「記憶」の存在

トゥルク大学のFederico Settimo氏を筆頭とする国際研究チームが打ち立てた画期的な成果は、まさにこの「暗黙の了解」を根底から覆すものであった。彼らは、物理的な予測レベルでは等価であるはずのシュレディンガー描像とハイゼンベルク描像において、量子過程が「記憶を持つか持たないか(マルコフ的か非マルコフ的か)」という性質が、一般的には一致しないことを数学的に厳密に証明したのである。

なぜこのような直感に反する現象が起こるのだろうか。その鍵は、「ダイナミカル・マップ(Dynamical maps)」と呼ばれる量子系の時間発展を記述する数学的道具の「分割可能性(Divisibility)」という性質にある。

シュレディンガー描像において、ある量子状態が時間 $s$ から時間 $t$ へと進化する過程は、一種のフィルターのような数学的操作(マップ)として記述される。もしシステムが「記憶を持たない(マルコフ的)」のであれば、この長時間の進化のプロセスを、極めて短い時間の独立したプロセスの連続的な掛け合わせへと細かく分割することができる(P-divisibility または CP-divisibility と呼ばれる性質)。この時、ダイナミクスを支配するマスター方程式には、状態の「左側」から作用して時間変化を生成する「左ジェネレーター(Left generator)」と呼ばれる演算子が登場する。

研究チームは、これをHeisenberg 描像へと翻訳(双対写像)する際、観測量の時間変化を支配するマスター方程式が、Schrödinger 描像の左ジェネレーターとは異なる「右ジェネレーター(Right generator)」に由来する構造を持つことを明確に示した。そして極めて重要なポイントとして、時間依存する複雑なダイナミクスにおいては、この「左ジェネレーター」と「右ジェネレーター」が非可換(数学的に掛け合わせる順番を入れ替えると結果が変わってしまう性質)になり得ることを発見した。

ジェネレーターが非可換である場合、Schrödinger 描像における分割可能性(記憶の不在)を保証する条件と、ハイゼンベルク描像における分割可能性を保証する条件は、全く別の数学的制約となる。その結果、「シュレディンガー描像から見れば時間を細かく分割できる(=情報の逆流がなく、記憶を持たない)にもかかわらず、全く同じ物理現象をハイゼンベルク描像から記述しようとすると分割不可能性が現れる(=記憶効果が存在する)」という、驚くべき非対称性が生じるのだ。

研究チームは論文内で、単一の量子ビット(Qubit)における「位相共変ダイナミクス(Phase covariant dynamics)」など、具体的な数理モデルを構築し、この非対称性が現実の物理系で実際に起こり得ることを実証した。つまり、量子系の「記憶」はシステムに内在する絶対的な属性ではなく、私たちがシステムの変化を「状態の推移」として捉えるか、「観測量の推移」として捉えるかという、理論的な枠組みの選択に依存して発現する相対的な概念であったことが明らかになったのだ。

「記憶」をいかに測るか:操作的解釈と新たな指標の導入

物理学において、新しい数学的概念が受け入れられるためには、それが実際の実験や観測とどのように結びつくのかという「操作的解釈」が不可欠だ。シュレディンガー描像における非マルコフ性(記憶効果)は、これまで「状態の推測確率」という思考実験を通して直感的に説明されてきた。

アリスがランダムに2つの異なる量子状態(例えば、スピン上向きの電子とスピン下向きの電子)のいずれかを用意し、ノイズの多い環境(通信路)を通してボブに送るとする。ボブの任務は、1回の測定でどちらの状態が送られてきたかを推測することだ。システムがマルコフ的(記憶なし)であれば、環境との相互作用により2つの状態は徐々に区別がつかなくなり、ボブの正答確率は時間とともに単調に減少していく。しかし、もしシステムが非マルコフ的(記憶あり)であれば、環境に一時的に失われた情報がシステムに逆流することで状態の区別が再びつきやすくなり、ボブの正答確率が一時的に上昇(Revival)する。この正答確率の「回復」が、シュレディンガー描像における記憶の直接的な証拠であった。

Settimo氏らの研究チームは今回、ハイゼンベルク描像における記憶(Heisenberg divisibilityの破れ)に対しても、これと美しく対をなす操作的解釈を与えた。

今度はアリスが、2つの異なる「測定装置(エフェクト:Effect)」の入ったブラックボックスのいずれかを用意する。ボブの任務は、手元で量子状態を用意してブラックボックスに入力し、得られた結果から「アリスがどちらの測定装置を選んだか」を推測することである。研究チームは、ハイゼンベルク描像においてシステムが記憶を持たない(分割可能である)場合、この「測定装置の推測確率」は時間とともに単調に減少することを示した。

逆に言えば、もしボブの「測定装置の推測確率」が時間の経過とともに一時的にでも上昇(回復)を見せた場合、それはシュレディンガー描像での振る舞いに関わらず、ハイゼンベルク描像における分割可能性が破れ、システムが特有の「記憶効果」を示していることを意味する。研究チームはこれを定式化し、オペレーター距離(Operator distance)と呼ばれる数学的尺度を用いて、ハイゼンベルク描像における非マルコフ性の度合いを定量化する新しい指標を導入することに成功した。

さらに論文では、量子力学特有の性質である「POVM(Positive Operator-Valued Measure:正定値演算子値測度)」を用いた測定における「非互換性(Incompatibility)」や「鋭さ(Sharpness)」といったパラメータが時間とともにどう変化するかという点に着目している。これらはハイゼンベルクの不確定性原理にも深く関わる概念であるが、Heisenberg 描像における記憶が存在する場合、一度失われた測定の「鋭さ」や「非互換性」が時間とともに復活(Revival)する現象が起こり得ることが示された。これは、量子系が持つリソースが環境ノイズ下でどのように振る舞うかを理解する上で、極めて重要な洞察である。

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量子テクノロジー開発への衝撃と今後の展望

今回の発見は、単なる基礎物理学の枠に留まらず、急速に発展する量子情報科学および量子テクノロジーの現場に多大な影響を与えるものである。トゥルク大学のJyrki Piilo教授は、プレスリリースの中で次のように述べている。

「我々の発見は量子システムのダイナミクスに新たな研究の道を開く。量子技術において環境が引き起こすノイズや記憶効果を理解することは、ノイズを軽減したり、実用的な量子デバイスで環境効果を活用したりする戦略を立てる上で不可欠である」

現在、Google、IBM、国内外の研究機関が開発を競う量子コンピューターは、外部環境からのわずかな熱や電磁波のノイズによって量子状態が破壊される「デコヒーレンス」という致命的な問題に直面している。ノイズを克服し、誤り耐性量子計算(Fault-tolerant quantum computation)を実現するためには、ノイズの性質、すなわち環境と量子系がどのように情報をやり取りしているかを極めて正確にモデル化する必要がある。

これまで技術者や物理学者は、システムのデコヒーレンスを評価する際、主にシュレディンガー描像に基づく「量子状態の劣化」や「マルコフ的な近似」に頼ってきた。しかし今回の研究は、特定の量子プロセスがシュレディンガー描像では完全に「ノイズによって情報が一方的に失われるだけの記憶のない過程(マルコフ的)」に見えても、Heisenberg 描像の観点、すなわち「観測量や測定装置の進化」という視点から見れば、密かに環境との間に情報ネットワークを構築し、「記憶を保持している(非マルコフ的)」可能性があることを示唆している。

これは、従来見逃されていたノイズの相関構造や、環境側に一時的に退避された量子情報の存在を、ハイゼンベルク描像を用いることで炙り出せる可能性を意味している。もしこの「隠された記憶効果」を正確に把握し、制御技術(Quantum Control)に組み込むことができれば、デコヒーレンスを単なるシステムの劣化(悪者)として扱うのではなく、環境の記憶効果を逆手に取って量子状態を保護したり、エラー訂正の効率を飛躍的に高めたりする新たな道が開かれるかもしれない。

Federico Settimo氏が「記憶は単一の概念ではなく、システムの進化がどのように記述されるかによって異なる形で現れる可能性がある」と語るように、本研究は私たちが「時間発展」や「記憶」という自然界の基本的な営みをどのように認識すべきかについて、パラダイムシフトを迫るものである。SchrödingerとHeisenbergが残した量子力学の2つの視点は、約1世紀の時を経て、非平衡系のダイナミクスという新たな舞台で、我々に未踏の真理と技術革新のヒントを提示し続けているのである。


論文

参考文献