中国のソーシャルコマース大手RedNote(小紅書)が、初のオープンソース大規模言語モデル(LLM)「dots.llm1」を公開した。一見すると、これは急成長するAI市場における後発プレイヤーのキャッチアップ戦略に見えるかもしれない。しかし、その技術的詳細と発表の背景を深く掘り下げると、これが単なる新製品のリリースに留まらず、米国のプロプライエタリ(独占的)モデルが築いた牙城に挑む、中国テック企業群の壮大な戦略の一端であり、世界のAIパワーバランスを揺るがしかねない地政学的なゲームの幕開けになるかも知れない。
RedNoteとは何者か?- 3億人が生み出す「データという金鉱」
まず、RedNoteという企業を理解する必要がある。中国国内では「小紅書」として知られるこのプラットフォームは、月間アクティブユーザー3億人以上を抱える、中国で最も影響力のあるソーシャルコマースプラットフォームの一つだ。「中国版Instagram」と照会されることが多いが、そこでユーザーは写真や動画を通じてライフスタイルを共有するだけでなく、そこから直接商品を購入することができる。つまり、RedNoteはユーザーの興味・関心、好み、そして実際の購買行動という、極めて価値の高いデータを膨大に蓄積している「金鉱」なのだ。
このデータこそが、RedNoteがAI開発競争に参入する上での最大の武器となる。2023年に本格的なLLM開発に着手して以来、同社はAI検索アシスタント「Diandian」を自社プラットフォームに導入するなど、着々と布石を打ってきた。そして今回の「dots.llm1」の公開は、その野心が自社サービスの枠を超え、より大きなエコシステムの構築へと向かっていることを明確に示している。
「dots.llm1」の技術的深層 – MoEが切り拓く「性能と効率」の両立
今回公開された「dots.llm1」は、そのアーキテクチャ自体が戦略的な意味を持つ。技術仕様を詳しく見ていこう。
- アーキテクチャ: Mixture of Experts (MoE)
- パラメータ数: 総パラメータ数1420億に対し、推論時に有効化されるのは140億のみ
- 学習データ: 11.2兆トークン(高品質な非合成データのみを使用)
- コンテキスト長: 32,768トークン
- ライセンス: MITライセンス(商用利用も可能な寛容なライセンス)
最大の特徴は、MoE(Mixture of Experts) の採用だ。これは、AIモデル内部に複数の「専門家(Expert)」ネットワークを配置し、タスクに応じて最適な専門家だけを呼び出して処理を行う仕組みである。これにより、1420億という巨大なモデルのポテンシャルを維持しつつ、実際に稼働させるのは140億パラメータ分だけで済む。これは、最高レベルの性能を追求しながら、推論コストを劇的に削減するという、極めて現実的かつ戦略的な選択だ。
公式リポジトリによれば、その性能はAlibabaの「Qwen2.5-72B」に匹敵するとされている。一方で、中国語の能力を測るC-SimpleQAベンチマークでは、トップランナーであるDeepSeekのモデルには及ばないものの、十分な競争力を持つ。

注目すべきは、学習データに合成データを一切使用していない点だ。これは、モデルの信頼性と予測可能性を高めるための意図的な判断であり、企業が実用的なアプリケーションに導入する際の懸念を払拭する狙いがあると考えられる。
なぜオープンソースなのか? – これは「ソフトパワー」をめぐる戦いだ
ではなぜ、RedNoteはこれほどのモデルを無料で公開するのか。その答えは、テクノロジー業界の構造変化と地政学の中にある。Greyhound ResearchのCEO、Sanchit Vir Gogia氏が喝破するように、これは単なるビジネスモデルの違いではない。
「中国企業はオープンソースLLMを、単なるモデルとしてではなく、エコシステム制御と地政学的レバレッジの道具として展開している。これはもはや戦術的なライセンス供与の分裂ではなく、信頼フレームワークの構造的な分岐点なのだ」
OpenAIやGoogleが最高のモデルをAPI経由で提供し、プラットフォームへのロックインと株主利益の最大化を目指す一方、RedNote、Alibaba、DeepSeekといった中国企業は、オープンソース化によって全く異なるゲームを展開している。
- エコシステムの構築: モデルを無料で公開し、世界中の開発者に利用させることで、自社の技術を事実上の標準(デファクトスタンダード)にする。開発者コミュニティを味方につけ、巨大なエコシステムを築くことが狙いだ。
- 国家戦略との連携: 中国企業の「損して得取れ」ともいえる戦略は、政府からの補助金や国内での調達インセンティブといった国家レベルの支援なしには成立しにくい。これは、AI覇権を目指す中国の国家戦略と完全に同期した動きである。
- ソフトパワーの輸出: オープンソースモデルは、単なるコードの塊ではない。それは、中国の技術思想やガバナンスの枠組みを内包した「ソフトパワー」の輸出ツールとなる。特に東南アジア、アフリカ、ラテンアメリカといった市場において、中国の影響力を拡大するための強力な武器となりうる。
この戦略は、米国の半導体輸出規制によって最先端ハードウェアへのアクセスが制限される中、ソフトウェアとエコシステムで主導権を握ろうとする、中国のしたたかな対抗策とも読み取れる。
RedNoteの真の狙い – 汎用モデルの先に見据える「コマースAI」の未来
一方で、アナリストからはRedNoteの戦略に別の見方も示されている。Counterpoint ResearchのNeil Shah氏は、「RedNoteはユーザーの好き嫌いや購買行動に関するデータの金鉱の上に座っている」と指摘し、汎用LLMの開発競争に身を投じるよりも、その強みを活かしたAI駆動のコマースに特化したモデルを構築すべきだったのではないか、と問いかける。
この指摘は的を射ている。今回の「dots.llm1」は、まずオープンソースとして公開することで技術力を誇示し、開発者コミュニティからのフィードバックを得るための布石である可能性が高い。その先には、収集した知見と自社の膨大なコマースデータを融合させ、パーソナライズされたショッピング体験や、より精度の高い商品推薦など、自社プラットフォームを革新する垂直統合型の特化AIを開発するという真の狙いが隠されているのではないだろうか。
最後の関門 – 「透明性」は「信頼」の代わりになるか?
RedNoteのグローバル展開はすでに始まっている。TikTokの先行きが不透明になった際に米国ユーザーが流入し、最近では香港に初の海外拠点を設立した。今回のオープンソースモデルは、そのグローバルな野心を加速させるための重要な一手だ。
しかし、そこには巨大な壁が立ちはだかる。それは「信頼」という見えざる資産である。
Gogia氏は、「中国のオープンソースモデルは技術的には透明かもしれないが、グローバル企業の目から見れば、透明性は信頼の代わりにはならない」と鋭く警告する。特に金融、医療、防衛といった高度なセキュリティと規制が求められる業界において、地政学的リスクはAIのアーキテクチャ選定における無視できない要素となっている。
企業は今、「プロプライエタリモデルのコントロール」と「オープンソースモデルの透明性」というトレードオフの狭間で、難しい選択を迫られている。中国製オープンソースモデルを採用するということは、そのガバナンスとセキュリティの責任を自社で引き受けることを意味する。それは、単なるコスト削減効果だけでは測れない、重大な経営判断となるだろう。
RedNoteの「dots.llm1」は、AIの世界がもはやシリコンバレーの一極集中ではなく、多極化時代に突入したことを象徴する出来事だ。高性能なAIが低コスト、あるいは無料で手に入る時代の到来は、多くの企業にとって朗報である。しかし、その甘い果実を手に取る際には、その裏に潜む戦略的意図、エコシステムの力学、そして地政学的なリスクを深く理解することが、これまで以上に不可欠となっている。AIの進化は、我々に技術選定以上の、より本質的な問いを投げかけているのだ。
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