長年NVIDIA製GPU専用とされてきた物理演算技術「PhysX」が、AMD Radeon(現時点で動作が確認されているのはRDNA 4世代のRX 9070 XTのみ)上でも動作する兆しを見せている。ただしこれはAMDが手がけた成果ではない。有志開発者Andrzej Janik氏が個人で手がけるCUDA互換レイヤー「ZLUDA」が2026年6月29日にバージョン6をリリースし、32-bit版PhysXのAMD GPUでの実行に対応した。検証済みタイトルの『Mafia II』では、Radeon RX 9070 XT(RDNA 4世代)を使った実測でフレームレートが約3倍に向上している。この実装はまだpre-alpha段階の実験的な機能であり、プロジェクト自体も商用スポンサーを再び失って開発体制は不安定な状況にある。
何が起きたか
ZLUDAのGitHubリポジトリ「vosen/ZLUDA」で長期化していたプルリクエスト「PR #651」がv6リリースに合わせて統合され、32-bit PhysXのAMD Radeon GPU上での実行が可能になった。PhysXはNVIDIAが提供するGPUアクセラレーション対応の物理演算APIで、爆発や布の揺れ、流体の挙動といった演出をリアルタイムに計算する技術だ。従来、このGPUアクセラレーションはNVIDIA製GPUでしか有効にならず、AMD Radeonユーザーは物理演算が無効化されるか、処理の重いCPU側の代替処理に頼るしかなかった。
検証には2010年発売の『Mafia II』が使われた。同一のRadeon RX 9070 XTとRyzen 9 9950X3Dの組み合わせ、解像度2560×1440の環境で、ZLUDA未使用時(GPU上でPhysXが正しく機能しない状態)の26.2FPSから、ZLUDA経由でPhysXをGPU実行した場合は80.2FPSまで伸びた。数値にして約3倍の向上であり、体感できる快適さの差としても大きい。wccftechやPhoronix、VideoCardz、Tom's Hardwareといった複数の専門メディアがこの数値を報じている。
この報告が注目を集めた理由は、単なる性能改善という以上に、長らく「NVIDIA専用」の象徴とされてきた技術に、有志の手で風穴が開いたという事実そのものにある。次章では、なぜPhysXがここまで長期間、NVIDIA以外のGPUで動かせなかったのかを整理する。
なぜPhysXは長年NVIDIA専用だったのか
PhysXの起源はスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETH Zurich)発のスピンオフ企業が開発した物理演算エンジン「NovodeX」にさかのぼる。これを2004年に買収したAgeia Technologiesは、物理演算専用の追加ハードウェア「PhysX PPU(Physics Processing Unit)」として製品化を進めた。CPUやGPUとは別に専用チップを搭載し、物理演算だけを高速処理させるという発想だ。
このAgeiaを2008年2月に買収したのがNVIDIAである。買収後、PhysXは専用ハードウェアから、CUDA対応のGeForce GPU上で動くソフトウェアベースの機能へと姿を変えた。CUDAはNVIDIAが独自に開発した並列計算プラットフォームで、GPUの演算能力を汎用的な計算処理に転用する仕組みだ。PhysXはこのCUDAの上に構築されたことで、NVIDIA製GPUを持つユーザーだけがGPUアクセラレーションの恩恵を受けられる仕様になった。
ここが技術的な核心である。PhysX自体はCPU実行にも対応しているが、CUDAというNVIDIA専有の基盤に依存する以上、AMD GPUではCUDAコードをそのまま実行できない。結果としてAMD環境では物理演算が無効化されるか、GPUより処理能力に劣るCPU側での代替処理を強いられ、パフォーマンスが大きく低下する構図が10年以上続いてきた。ハードウェアの性能差ではなく、ソフトウェアの互換性の壁がボトルネックになっていたわけだ。
ZLUDAとは何か・どう実現したか
この壁を突破する鍵になったのが、CUDA互換レイヤー「ZLUDA」である。ZLUDAはCUDA向けに書かれたコードを、書き換えることなく他社製GPU上で動かすためのドロップイン型の互換レイヤーで、開発者Andrzej Janik氏が中心となって開発してきた。
プロジェクトの歩みは平坦ではなかった。
Intel向けからAMD資金提供、そして削除騒動まで
ZLUDAは当初、Intel GPU向けのCUDA互換レイヤーとして開発が始まったが、その後AMDが数年にわたり非公開で資金を提供し、AMD GPU向けの互換レイヤーとして開発が続けられた。ところが2022年前半にコミットが止まり、後にAMDが資金提供を打ち切っていたことが判明する。2024年、Janik氏は資金停止を経てコードを公開しようとしたが、AMDの法務部門の要請でGitHubから削除される騒動が起きた。AMD側は「メールでの承認には法的拘束力がない」としてロールバックを求めたという。背景には、NVIDIAの利用規約が2021年半ば以降、CUDAコードを他社ハードウェアで動作させる変換レイヤーの使用を明示的に制限していることがあり、AMDが法的リスクを懸念したとみられている。
新スポンサーの獲得と再びの資金停止
2024年末、Janik氏はAI関連企業とみられる新たな非公開スポンサーを得て開発を再開した。しかし2026年のv6リリースの時点で、この商用資金も再び打ち切られたことが公式ブログで明らかにされている。プロジェクトは再び「週末プロジェクト」的な体制に戻り、これまで開発に携わっていた開発者の一人「Violet」氏も名誉開発者として一線を退いた。今後の更新頻度は、これまでの四半期に一度というペースよりも低くなる見通しだという。ZLUDAは今回のPhysX対応も含め、AMDとは無関係に、個人の意志によって支えられているプロジェクトなのである。
性能実測値と対応ゲームの実態
現時点でZLUDAのPhysX対応が具体的なベンチマークとして確認されているのは『Mafia II』のみだ。Radeon RX 9070 XTとRyzen 9 9950X3D、解像度2560×1440という環境で、ZLUDA未使用時の26.2FPSから、GPU上でPhysXを実行した状態では80.2FPSまで向上している。この3倍という数値は同一のRadeon GPU上での比較であり、CPU実行とGPU実行を単純に比較したものではない点には注意が必要だ。従来AMD環境ではPhysXのGPUアクセラレーションが機能せず、フレームレートが伸び悩んでいた状態から、ZLUDAによってGPU本来の処理能力を引き出せるようになった、という理解が実態に近い。
他タイトルでの動作については、現時点で信頼できる情報源による裏付けが乏しい。参考になるのは、NVIDIA自身が2025年に公式に示した、32-bit PhysX対応タイトルのリストだ。RTX 50シリーズ(Blackwellアーキテクチャ)で一時サポートを打ち切った後、2025年12月頃のドライバ更新で復活させた9作品で、Alice: Madness Returns、Assassin's Creed IV: Black Flag、Batman: Arkham City、Batman: Arkham Origins、Borderlands 2、Mafia II、Metro 2033、Metro: Last Light、Mirror's Edgeが該当する。これらはNVIDIAが公式に対応を維持すると表明したタイトル群であり、ZLUDAが今後対応拡大を目指しうる候補として位置づけられるものの、現時点でZLUDA上での動作が確認されたわけではない。実際に動作報告があるのはMafia IIだけだと理解しておく必要がある。
今後の展望・制限事項
ZLUDAによるPhysX対応は、あくまでpre-alpha段階の実験的な機能である。実装の元になったプルリクエストPR #651はまだマージされておらず、開発は現在進行形で続いている。実際に試した場合、流体シミュレーションにグリッチが生じることが報告されており、水しぶきや煙のパーティクル表現が途切れたり不自然な挙動を見せたりする場面が想定される。加えてSteamのゲームに組み込む方法も開発者自身が「良くない」と認めるほど未成熟だ。オープンソースであるため誰でも試すこと自体は可能だが、導入にはソースコードを扱えるだけの技術知識が事実上前提となる。対応タイトルをMafia II以外に広げられるかどうかも、PR #651のマージ完了とJanik氏が今後どれだけ時間を割けるかにかかっている。
AMDはこの実装に対して公式なコメントや支援表明を一切出していない。2024年のGitHub削除騒動で法務部門が関与した経緯はあるものの、それはZLUDAの活動を止める方向の関与であり、今回のPhysX対応を後押しするものではない。ZLUDAは現在、AMDから完全に独立した個人開発者主導の非公式プロジェクトであり、商用スポンサーも再び失って不安定な状態にある。
それでもこの成果は、CUDAという特定企業のエコシステムに依存してきたゲーム向け物理演算技術に、有志の技術力だけで風穴を開けられることを示した一例といえる。今後の開発ペースは四半期に一度よりも緩やかになる見通しで、対応タイトルの拡大や安定版への到達には時間がかかるとみられる。ZLUDAの歩みは、企業の思惑と個人開発者の情熱がせめぎ合いながら進む、オープンソース互換レイヤーの難しさをそのまま体現している。