Anthropicが2026年9月、AIの進歩が2030年までの米国経済に及ぼす影響を試算できる「経済シナリオ探索ツール」を公開した。能力の進歩や企業への普及について前提を変えると、GDPと賃金、失業率がどう変わるかを確かめられる。CEOのDario Amodei氏が大規模な雇用喪失を警告してきた会社による研究だが、悲観予測への賛否よりも、成長の果実を誰が受け取るのかという問題が鮮明に表れている。

経済が急拡大しても、労働者全体の所得はほとんど増えない場合がある。さらに論文を読むと、失業率が低く収まる場合にも、賃金低下という別の経路で働き手が損失を負うことが分かる。

AD

CEOの悲観論を「低確率」と判定したのか

Amodei氏は2025年5月28日のAxiosによるインタビューで、今後1〜5年に初級ホワイトカラー職の半数が失われ、失業率が10〜20%に達する可能性を警告した。今回のモデルを紹介したThe Decoderは、その数字が「極端」シナリオに近いことから、CEOの予測が最も起こりにくい結果として描き直されたと評している。

ただし、論文は冒頭で、シナリオは予測ではなく、それぞれに発生確率を割り当てていないと明記している。「極端」とは経済への変化の大きさを表す呼び名であり、「最も起こりにくい」との統計的判定ではない。小幅・大幅・極端の3つを並べても、中央のケースが最有力になるわけではない。

失業率の分母にも注意が要る。極端シナリオの17.9%は、もともと知識労働職に属していた労働者についての数字だ。経済全体では11.9%となる。CEOが述べた全体の失業率や、初級職の減少割合と、知識労働者の失業率をそのまま比べることはできない。

研究をまとめたのはAnton Korinek氏、Charles I. Jones氏ら5人で、Anthropic Instituteのワーキングペーパーとして公表された。学術誌の査読済み論文ではない。著名な経済学者からコメントを受けているものの、公開ページは外部の研究者に結論への賛同を求めたわけではないと説明している。CEOの発言を会社が撤回したと受け取る根拠にもならない。

AIの能力と、現場で使われる量の間

論文の中心にあるのは、職業を細かな業務の束として扱う考え方だ。AIが人の作業を助ける場合と、人の担当を置き換える場合を分け、自動化の後に人向けの新しい仕事が生まれる効果も組み込む。そこへ転職にかかる時間を加えることで、生産性が上がる一方で失業者も増える状況を表現している。

能力が高まっただけでは、全企業の業務が一斉に変わるわけではない。大幅シナリオでは、2030年にAIが対応できる業務を経済全体の30%、その対象業務で実際に使われる割合を40%と置く。両者を掛けると30%×40%=12%となる。これは職の12%が消えるという意味ではなく、経済全体の業務の実施単位のうち、AIが使われる割合に相当する。

そのAI利用のうち、自動化として働く割合も設定で異なる。小幅シナリオは50%、大幅は75%、極端は90%だ。極端シナリオでは人向けの新しい仕事が生まれる効果をゼロに置き、職種を変える際の求職活動も難しくなる。技術の進歩と、働き手が対応しにくい条件が重なった試算である。

2030年初の結果 小幅 大幅 極端
GDPの上振れ幅(AIがない場合との比較) 1.6% 8.3% 32.4%
経済全体の失業率 3.9% 4.6% 11.9%
知識労働者の失業率 2.9% 4.5% 17.9%
知識労働職の賃金差(AIがない場合との比較) +0.4% −0.3% −11.5%
労働分配率 59.4% 56.1% 45.2%

出典:技術論文の表3。いずれも米国についてのモデル上の値。GDPと賃金の比較対象は、同じ時点の「AIがない経済」であり、現在からの増減率ではない。AIがない場合の全体失業率は3.8%、労働分配率は60.0%と設定されている。

大幅シナリオではGDPが8.3%上振れるのに、知識労働職の賃金はAIがない場合をわずかに下回る。企業が少ない人手で知識労働を処理できるようになると、人への需要が弱まるためだ。他方、建設などの仕事への需要は増え得る。しかし、ソフトウェア技術者がすぐに電気工事士へ移れるとは限らず、職種間の移動が遅れるほど失業が積み上がる。

AIの性能評価だけを追っていては、この時間差を捉えられない。

AD

失業率が低くても、賃金が下がる場合

極端シナリオの知識労働者の失業率は、賃金がどれほど下がりやすいかを変えると2.6%にも24.0%にもなる。論文の表6は、労働需要の変化に賃金がすぐ反応する場合と、下がりにくい場合を比べている。AIの能力や普及についての設定を変えなくても、労働市場の調整の仕方で結果が大きく動く。

極端シナリオにおける賃金調整の設定 すぐ調整 基準設定 調整が非常に遅い
知識労働職の賃金差(AIがない場合との比較) −42.2% −11.5% +2.8%
知識労働者の失業率 2.6% 17.9% 24.0%

出典:技術論文の表6から、極端シナリオの3列を抜粋。2030年初の値で、賃金の硬直性以外のパラメータは共通。賃金差は同時点のAIがない経済との比較、失業率はその集団内の水準である。

失業率が低い場合でも、賃金の大幅な低下を通じて働き手が損失を負う可能性がある。賃金がすぐ調整される設定では、安くなった労働への需要が残るため雇用は維持されやすい。一方、賃金が下がりにくい設定では、需要の減少が人員削減として現れやすくなる。

これは賃下げを推奨する結果ではない。雇用を失う負担と、働き続けながら所得を失う負担を分けて読むための比較だ。「AIが普及しても失業率は上がらなかった」という観察だけでは、労働者への影響を評価しきれない。

実際、Anthropicが6月に公表した政策提言も、失業率に加えて賃金や不完全就業、労働分配率を見るよう求めている。仕事が残ることと、仕事から十分な所得を得られることは、別々に確かめる必要がある。

GDPの増加分は誰に届くのか

極端シナリオでは、GDPがAIのない場合より32.4%大きくなるのに対し、労働所得の総額は0.5%しか増えない。資本所得は81.4%増える。労働分配率が60.0%から45.2%へ下がるとは、増えた生産のかなりの部分が、働くことへの報酬とは別の経路で配られるということだ。

AIによる自動化が進むと、生産に必要な資本への需要が増える。ところが、このモデルが扱う2030年までの期間には、資本の供給は需要に合わせて無制限には増えない。そのため資本への報酬が上がり、所有者に多くの所得が向かう。労働者も資本を保有していれば利益を受け取り得るが、誰がどれだけ保有しているかまで、このモデルは描いていない。

平均賃金の上昇も、そのまま全員の改善を意味しない。極端シナリオでは平均賃金は9.7%上振れるが、知識労働職は11.5%下振れ、その他の職種は33.6%上振れる。しかも失業すれば賃金を受け取れない。知識労働職全体の賃金総額は、AIがない場合より31.0%小さくなる。

ここで6月の政策提言が具体的な意味を持つ。転職までの一時的な空白なら、失業保険や、低賃金の仕事へ移った人の収入を一定期間補う賃金保険が対応候補になる。資格取得や職種移動の障壁を減らす施策も、再就職を早める目的に合う。

しかし、人間への労働需要が長期にわたって弱くなるなら、再訓練を繰り返すだけで所得を回復できるとは限らない。Anthropicは、ベーシックインカムやAIへの投資持分を使う政府系ファンド、労働者が企業の持分を持つ仕組みなどを研究候補に挙げている。これらを特定の制度として支持する準備はまだできていないとも記しており、決定済みの政策ではない。

成長によって分配できる所得が増えることと、その所得が雇用を失った人へ届くことの間には、制度を作る作業が残る。

AD

転職後の損失と、モデルの外にある危機

このモデルでは、別の職種へ移れた人は直ちに転職先の集団と同じ賃金を受け取る。前職の勤続年数や専門技能を失ったことで、転職後もしばらく所得が低くなる影響は組み込んでいない。職種も大きく2群に分けているため、特定の年齢層や地域が負う負担を精密には示せない。

景気循環や金融市場の混乱もモデルの外だ。失業や所得減少が消費を冷やし、それがさらなる雇用悪化を招く悪循環も再現しない。他方、ロボットが急速に進歩して身体的な業務を代替する場合も除いている。「その他の職種」で賃金が上がるという結果を、そうした仕事が将来も安全であるとの保証には使えない。

付随する意識調査も、予測の正しさを確かめたものではない。米国成人10,980人の回答からAIへの期待を調べ、個人別の経済結果の集計では、5項目すべてに回答した3,259人の入力をモデルに通している。GDPや失業率を回答者自身が予想したわけではなく、回答を経済の数字に変換する関係式は研究側が与えている。

こうした制約を踏まえると、モデルの使い道は将来の失業率を小数点まで当てることより、前提ごとに必要な対応を準備することにある。論文ではシナリオ間の差の大部分が2027年より後に現れるため、足元の雇用への影響が小さいことだけで、先の混乱を否定することもできない。

企業のAI導入が、同じ人数でより多くの仕事をする方向へ進むのか、人を減らす方向へ進むのか。職を移った人の所得は回復しているのか。生産性の上昇と合わせてその経過を確かめ、移動の支援で足りる段階と、所得を届ける制度を変える段階を見極められれば、AIによる成長を働き手の生活改善へつなぐ政策を選びやすくなる。