米ジョンズ・ホプキンズ大学応用物理研究所(APL)は9月16日、化学・生物学的な脅威を現場で見分ける携帯型の核磁気共鳴(NMR)装置を目指す研究を発表した。ダイヤモンドに作り込んだ量子センサーで磁場を測る試作機はすでに動作している。
一方で、液体試料に含まれる分子を識別できるほどの分解能はまだ得られておらず、装置も持ち運べる大きさにはなっていない。今回の発表で重要なのは、危険物を判別できる装置が完成したことではなく、分子をセンサーの近くに長くとどめる「ナノ容器」によって、分解能を高めようとしている点だ。
磁場を測る試作機から、物質を見分ける装置へ
NMRは、原子核が持つ「スピン」を磁場の中でそろえ、その応答を読み取ることで分子の構造を調べる手法だ。化学分析では広く使われているが、少量の試料から十分な信号を得るには、高性能な磁石や大型の装置が必要になる。
APLは、試料のすぐ近くに磁場センサーを置き、微量の試料から情報を読み取る方法を開発している。最終的には、ノートPC程度の大きさの装置を目指すという。
センサーには、ダイヤモンド中の窒素空孔、いわゆるNV中心を使う。これは、ダイヤモンドを構成する炭素原子の一つを窒素原子に置き換え、その隣に原子が抜けた空孔を作った構造だ。
NV中心へ緑色の光を当てると赤色の蛍光を発し、その明るさの変化からスピン状態を読み取ることができる。近くにある試料中の原子核が生み出すごく弱い磁場を検出し、それをNMR信号として読み取る仕組みだ。
APLの研究チームは、NV中心のスピンを読み出し、磁場を測定する試作機を構築した。
ただし、これは未知の液体に何が含まれているかを特定した実験ではない。APL自身も、微量の液体試料から化学物質を識別するには、さらに高い分解能が必要だと説明している。
発表文にある「数十〜数百個の原子」という試料規模も、化学剤や病原体をその程度の量で判別できたことを示す性能値ではない。
なぜ液体を「閉じ込める」のか
液体中の分子は絶えず動いている。
NV中心が感知できる範囲はごく狭いため、ある分子から信号を得られても、測定が終わる前にその分子がセンサーの近くから離れてしまう。次々に別の分子へ入れ替わると、一つの分子から信号を得られる時間が短くなり、似た物質を見分けるために必要なスペクトルの細かな違いを捉えにくくなる。
センサーそのものを小さくするだけでは、この分子の動きを抑えることはできない。
そこでAPLのIsaiah Gray氏らは、ダイヤモンドの表面に液体を保持する微小な「ナノ容器」を作ろうとしている。原子核のスピンをNV中心の近くにより長くとどめ、測定に使える信号を増やすのが狙いだ。
APLによると、液体試料を閉じ込めることで、NMRの感度と精度を約1桁高められる可能性がある。研究チームは複数の容器形状をシミュレーションで比較し、必要な感度が期待できる設計案を選んだ。
ただし、ナノ容器は現在製作中であり、この改善幅は実測値ではない。APLは、比較の基準となる絶対値や試料の種類、測定時間、誤差幅なども公表していない。
液体分子の動きを抑えるという発想自体には、先行研究がある。
ミュンヘン工科大学のKristina Liu氏らは、2022年の『Nano Letters』論文で、ダイヤモンド上に設けた金属有機構造体の微細な孔へ液体分子を保持した。分子の拡散を制限することで、自由に動く状態では検出できなかったNMR信号を捉えることに成功している。
ただし、この実験で使われた材料や試料、装置は、APLが現在開発しているナノ容器とは異なる。先行研究で成功しているからといって、APLの装置でも同じ性能が得られるとは限らない。
液体NMRの先行研究から見た今回の位置付け
NV中心を使って微量の液体を測定する研究は、APLの今回の発表以前から進められてきた。
2017年にはP. Kehayias氏らがダイヤモンド表面に細かな溝を刻み、約1ピコリットルの溶液からNMR信号を検出した。センサーと試料が接する面積を増やし、より多くの信号を拾う方法だった。
翌2018年にはDominik Bucher氏らが、複数のNV中心と同期読み出しを組み合わせ、液体試料のスペクトルから、分子構造に関係する化学シフトなどを観測した。
2022年のLiu氏らの研究は、さらに分子の移動を抑えることで信号を長く観測する方向を示した。
微量の液体からNMR信号を得ること、スペクトルを細かく分離すること、分子を観測位置の近くにとどめることは、それぞれ別の技術課題だ。
APLが目指しているのは、こうした技術を組み合わせ、現場で危険物を判別できる装置へ発展させることだ。ただし、今回の発表だけから、先行研究より小型の装置で、より正確に脅威を識別できるようになったとは言えない。
携帯型装置を実現するには、磁石を小型化するだけでは足りない。光を照射する部品、蛍光を読み取る検出器、試料を導入・排出する仕組みなども一体化する必要がある。
研究室内で磁場を測定できるチップと、現場へ持ち出して未知の試料を判別できる装置との間には、測定性能だけでなく、試料をどう扱うかという工学上の課題も残っている。
磁場測定は実証済み、脅威の判別はこれから
APLの9月16日の発表と、Liu氏らによる2022年の研究を、すでに実測された成果と今後の目標に分けて整理すると、現在の開発段階が分かりやすい。
下表は性能値を直接比較したものではない。研究主体や試料が異なるため、それぞれの成果がどの段階まで進んでいるかを整理したものだ。
| 段階 | 公開された根拠 | 今回のAPL装置での状態 |
|---|---|---|
| 磁場を測る | APLはNV中心のスピンを読み取り、磁場を測る試作機を稼働させた | 実測済み |
| 液体を保持する | APLはナノ容器の形状を計算で選び、製作中。別の研究チームは2022年に微細孔へ液体を保持してNMR信号を検出した | APLのナノ容器では未実測 |
| 分子を見分ける | APLは、微量液体から化学物質を識別するのに必要な分解能を次の課題としている | 未実証 |
| 脅威を判定する | APLは化学・生物学的な脅威の現場判別を将来用途として掲げている | 未実証 |
現時点のAPLは、磁場を測るところまでは実証しているが、危険物を見分けるところまでは到達していない。
先行研究で微量の液体からNMR信号が得られているとしても、APLの試作機で「磁場を検出すること」と「未知の物質を識別すること」が一つにつながったわけではない。
APLは将来、現場で「危険物かどうか」「通常の防護装備でよいのか、それとも化学防護服が必要なのか」といった判断に役立てることを想定している。
しかし、そのためには未知の試料から得たスペクトルを、実際の化学物質や生物の種類へ正しく結び付ける必要がある。
化学物質であれば、構造のよく似た無害な物質と有害物質を区別できるかを試す必要がある。
生物試料についても、APLが例として挙げる無害な細菌と危険な細菌を区別するには、どの成分を測定し、どの程度の量があれば識別できるのかを示さなければならない。
土、水、空気などから採取した試料には、目的の物質以外の成分も含まれる。実際の現場で使うには、試料の採取や前処理まで含めた条件と、見逃しや誤警報がどの程度起こるのかを調べる必要がある。
現時点でAPLは、対象物ごとの検出限界、判定に必要な時間、正答率などを公表していない。
NMRで直接読み取るのは、試料中の原子核が生み出す信号だ。測定器が最初から「神経剤」や「病原体」といった名前を返してくれるわけではない。
複数の物質が混ざった試料では、それぞれの成分から出る信号が重なる可能性もある。仮に分子の特徴を捉えられたとしても、そこから現場で必要な分類へつなげるには、何を判定基準とし、どのような条件で誤判定するのかを確かめる試験が必要になる。
化学物質と生物試料の両方を対象とするのであれば、それぞれに適した採取方法や前処理も確立しなければならない。
Gray氏は、現場で必要なのは研究室と同じ精密な分析ではなく、危険の有無や必要な防護装備を判断できる情報だと説明している。
この用途であれば、識別する対象や必要な精度を限定できる可能性はある。ただし、実際にその用途へ十分な性能があるかどうかは、現実の試料を使った試験で確かめる必要がある。
少量の試料から信号を検出できるというだけでは、危険物をどの程度見逃すのか、あるいは無害なものを危険と誤判定するのかまでは分からない。
液体を保持するナノ容器を現場で繰り返し使うのであれば、測定後に残った試料をどう取り除くかも検討する必要がある。APLの発表では、洗浄や交換の方法、繰り返し測定した場合の再現性については示されていない。
携帯性についても、センサー単体の大きさだけでは評価できない。電源、光学系、試料処理機構まで組み込んだ装置全体が現場で安定して動き、少量の試料から一貫した判定結果を出せるかが重要になる。
まずは、ナノ容器を組み込んだチップで液体のNMRスペクトルを実測できるか。その次に、よく似た物質を混合試料の中から区別できるか。
そこまで結果が示されれば、APLが目指す携帯型NMRが、現場で防護判断に使える装置へ一段近づいたと評価できる。
