Armは、モバイルコンピューティングの世界で長年デファクトスタンダードであり続けた「Cortex」ブランドを刷新し、新たに「Lumex」コンピュート・サブシステム(CSS)を発表した。名称の変更もさることながら、その中核をなすのが、CPUの役割を根底から覆し、オンデバイスAI処理能力を最大5倍に引き上げる新命令セット「SME2」の存在だ。本稿では、このLumexプラットフォームが内包する技術的革新が次世代のスマートフォンやPCに何をもたらすのかを見ていきたい。

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CortexからLumexへ:AI時代が要求したアーキテクチャの再定義

ArmがCortexという強力なブランドを手放し、Lumexへと移行した背景には、モバイルコンピューティングの主戦場が、単なるアプリ実行速度からオンデバイスAI処理能力へと劇的にシフトしたことがある。クラウドへの依存を減らし、プライバシーを保護しながら、リアルタイムでパーソナライズされたAI体験を提供することが、現代のデバイスに課せられた至上命題だからだ。

「コンピュート・サブシステム」が意味するもの

長年、ArmはCortex-X(高性能)、Cortex-A7xx(高効率)、Cortex-A5xx(超高効率)という個別のCPUコアIPを提供し、SoCベンダーはこれらを自由に組み合わせてきた。しかし、オンデバイスAIの要求は、単一コアの性能向上だけでは満たせない領域に達している。レイテンシ、プライバシー、そして何より電力効率。これらの複雑な制約をクリアするには、CPU、GPU、システムIP、そしてソフトウェアスタックまでを統合した「サブシステム」としての最適化が不可欠となる。

Lumexが「CPUコア」ではなく「コンピュート・サブシステム(CSS)」として提供される点は、技術的に極めて重要だ。これは、CPUコア、GPU、システムIP、そして物理実装に至るまで、性能と電力効率が最適化された準完成品(ターンキーソリューション)としてパートナー企業に提供されることを意味する。 これにより、MediaTekやSamsungのようなSoCベンダーは、これまで以上に迅速に製品を市場投入できるだけでなく、Armが持つ3nmプロセスなど最先端製造技術への知見を最大限に活用できる。アーキテクチャレベルでの最適化が、最終製品の性能を大きく左右する時代において、このアプローチは合理的と言える。

LumexとNiva:スマートフォンからPCまでを貫く設計思想

Lumexは主にスマートフォンやタブレットをターゲットとするが、その設計思想はPC向けの「Niva」プラットフォームにも共有されると見られている。 これは、モバイルとPCの境界線がAIによってさらに曖昧になる未来を示唆している。低消費電力で高性能なAI処理能力は、あらゆるフォームファクタで共通して求められる技術であり、Lumexはその基盤となるアーキテクチャなのである。

4階層CPU「C1シリーズ」のマイクロアーキテクチャ

Lumexの中核をなすC1 CPUクラスターは、従来の「big.LITTLE」構成をさらに細分化し、4つの異なる特性を持つコアで構成される。 全てのコアはArmv9.3-Aアーキテクチャに準拠しており、これにより旧世代コアとの混在は許されなくなった。

C1-Ultra: 性能の頂点を追求するフロントエンドの革新

Cortex-X925の後継となるC1-Ultraは、シングルスレッド性能の絶対値を追求するフラッグシップコアである。Armが公表した最大25%の性能向上という数値は注目に値するが、その内訳を冷静に分析する必要がある。

  • IPC(Instructions Per Clock)向上: アーキテクチャ自体の効率改善による性能向上は、前世代比で10%台前半と推定される。 このIPC向上の源泉は、プロセッサのフロントエンド、すなわち命令を取り込み、解釈し、実行ユニットへ送り込むまでのパイプラインの強化にある。
    • Out-of-Orderウィンドウの拡大: 実行順序を並べ替えて並列処理の機会を最大化するためのバッファが25%拡大され、約2,000命令を同時に処理可能になった。 これは、より複雑な依存関係を持つ命令列の中から、実行可能な命令を効率的に見つけ出す能力の向上を意味する。
    • L1命令キャッシュ帯域の増強: 実行ユニットに命令を供給するL1命令キャッシュの帯域が33%増加。 命令の枯渇によるストール(処理停止)を極限まで減らし、巨大な実行エンジンを常に稼働させ続けるための重要な改良である。
  • クロック周波数の向上: 性能向上の残りの部分は、3nmプロセスへの移行を前提とした最大4.1GHzという目標クロック周波数によるものだ。 これは、アーキテクチャの改良だけでなく、最先端の半導体製造技術との密接な連携がなければ達成不可能な数値であり、Lumexが「サブシステム」として提供されることの重要性を物語っている。

C1-Premium: 性能と面積効率の最適解

C1-Premiumは、Lumexで新たに追加された興味深い階層である。C1-Ultraと同等のマイクロアーキテクチャを持ちながら、シリコンダイ上の占有面積を35%削減するよう最適化されている。 この面積削減は、キャッシュ容量の削減や物理設計の最適化によって達成されると考えられ、サブフラッグシップ帯のSoCにおいて、コストを抑えつつ高いシングルスレッド性能を提供するための戦略的な選択肢となる。

C1-ProとC1-Nano: 「効率」の再定義

Cortex-A725後継のC1-ProとCortex-A520後継のC1-Nanoは、電力効率を重視するコアである。ここでの改良は、性能を追求するのではなく、いかに少ない電力で処理を完了させるかに焦点が当てられている。

  • 分岐予測の高度化: プログラムの次の実行経路を予測する分岐予測ユニットが、より大きく、より賢くなった。予測ミスはパイプラインのフラッシュ(破棄と再充填)を引き起こし、多大な電力と時間を浪費するため、この改良は電力効率に直接的に貢献する。
  • キャッシュ階層の最適化: L1データキャッシュへの帯域向上や、L2 TLB(アドレス変換キャッシュ)のレイテンシ削減により、メモリアクセスに伴うストールを削減。 プロセッサが何もせずに待機する時間を減らすことは、エネルギー効率の向上に不可欠である。C1-Nanoでは、システム全体での消費電力に影響するL3キャッシュやDRAMへのトラフィック削減も徹底されている。

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CPU AIのゲームチェンジャー「SME2」の正体

Lumexプラットフォームにおける真のゲームチェンジャーは、CPUに統合された新しいAIアクセラレーション命令セット「SME2 (Scalable Matrix Extension 2)」である。 これは、従来のNEONやSVEのようなベクトル演算命令セットとは一線を画す、行列演算に特化したアーキテクチャだ。

SME2のアーキテクチャ:コア外部の共有ユニットという選択

SME2の最も興味深い実装上の特徴は、それが各CPUコアの内部に組み込まれるのではなく、CPUクラスター内の複数のコアからアクセス可能な「共有実行ユニット」として、コアの外部に配置される点にある。 この設計には、アーキテクトとしての明確な意図が見える。

  1. 電力効率: AI処理を行わない場合、SME2ユニット全体をパワーゲート(電力供給を完全に遮断)できる。これにより、命令セット拡張に伴いがちなダイエリアの肥大化と、それに伴うリーク電流の増加という問題を回避できる。
  2. スケーラビリティ: 2つのC1-Ultraと6つのC1-Proで構成されるハイエンド構成でも、より小規模なCPU構成でも、同じSME2ユニットを組み合わせることで、同等のAI処理能力を柔軟に提供できる。これは、AI機能を幅広い価格帯のデバイスに展開する上で極めて有利である。

性能5倍向上のカラクリ:低精度演算のハードウェアアクセラレーション

Armが主張する「最大5倍のAI性能向上」は、SME2が持つ行列演算能力、特に低精度データフォーマットのサポートに起因する。

Armは、Whisperによる音声認識のレイテンシを4.7分の1に、Gemma 3を用いたLLMエンコーディングを398トークン/秒(従来は84トークン/秒)に高速化したと主張している。

これは、TransformerベースのAIモデルで一般的に用いられる演算を、CPUが直接かつ効率的に実行できるようになったことを意味する。具体的には、2ビットや4ビットの整数(INT2/INT4)による重みの量子化や、1ビットのバイナリネットワークといった、推論処理を軽量化するための技術をハードウェアレベルで加速する命令が含まれている。 これまで専用NPU(Neural Processing Unit)の領域だった処理の一部を、汎用CPUが肩代わりできるようになったことのインパクトは計り知れない。

KleidiAI:開発者とハードウェアを繋ぐ「見えない」架け橋

どれほど優れたハードウェアも、ソフトウェアが対応しなければ意味をなさない。Armはこの点を深く理解しており、「KleidiAI」というソフトウェアライブラリを通じて、SME2の能力を開発者に透過的に提供する。 PyTorch ExecuTorch, Google LiteRT, Alibaba MNN, Microsoft ONNX Runtimeといった主要なAIフレームワークは、KleidiAIを介してSME2に自動的に対応する。 これにより、アプリ開発者はSME2の存在を意識することなく、自身のAIモデルを次世代Arm CPU上で高速に実行できる。このソフトウェアスタックへの深いコミットメントこそが、Armの強固な開発者コミュニティを支える基盤である。

Mali G1-Ultra GPUと進化したレイトレーシング

グラフィックスにおいても、Lumexは大きな進化を遂げている。GPUは「Mali G1」シリーズへと名称が変更され、その最上位モデルである「Mali G1-Ultra」は、特にレイトレーシング性能を劇的に向上させた。

RTUv2:レイトレーシング性能2倍を実現するアーキテクチャの転換

Mali G1-Ultraは、前世代比で最大2倍のレイトレーシング性能を謳う。 この飛躍を実現したのは、第二世代のレイトレーシングユニット「RTUv2」である。

  • BVHトラバーサルのハードウェア化: これまでソフトウェア処理に頼る部分が大きかったBVH(Bounding Volume Hierarchy)構造の探索を、完全にハードウェアで実行できるようになった。 これは、光線がどのオブジェクトに衝突するかを決定する、レイトレーシングで最も計算負荷の高い処理の一つであり、そのハードウェア化は性能向上に絶大な効果をもたらす。
  • 「シングルレイ」方式への移行: 従来のパックドレイ(複数の光線をまとめて処理する)方式から、シングルレイ(光線を個別に処理する)方式へと移行した。 この変更は一見、並列処理の効率を損なうように思えるが、モバイル環境の厳しいメモリ帯域の制約下では、むしろ理にかなっている。不規則な方向に飛ぶ光線(アンビエントオクルージョンやグローバルイルミネーションで多用される)は、パックドレイ方式のキャッシュ効率の恩恵を受けにくいため、よりシンプルでメモリへの要求が少ないシングルレイ方式が有利に働く場面が多い。

グラフィックスパイプライン全体の最適化

レイトレーシング以外でも、Mali G1-Ultraは着実な性能向上を果たしている。前世代比で20%の性能向上と9%の電力効率改善を実現した背景には、「Image Region Dependencies」のような新技術がある。 これは、画面をタイルに分割してレンダリングするタイルベースレンダリングにおいて、依存関係のないタイルを待たずに処理を進めることで、パイプラインの停止時間を削減し、メモリ使用量を最適化する技術である。GPUコアを常に稼働させ続けることが、性能と電力効率の両方を向上させる鍵となる。

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パフォーマンスと市場への影響:次世代SoCはこう変わる

ArmのLumexプラットフォームは、2024年末から2025年にかけて登場する次世代SoCの設計思想を大きく左右するだろう。

MediaTek Dimensity 9500の姿を占う

Lumexを最初に採用するフラッグシップSoCは、MediaTekのDimensity 9500になる可能性が極めて高い。 Armが提示するレファレンスデザインの一つである「2 x C1-Ultra + 6 x C1-Pro」という構成は、従来の「1+3+4」構成から大きく変化している。 これは、ミドルコアであるC1-Proの性能と効率が十分に向上したことで、最小の効率コア(C1-Nano)をフラッグシップ構成から省略し、より多くの高性能コアを搭載する設計が可能になったことを示唆している。この構成は、マルチスレッド性能を大幅に引き上げ、AI処理のような並列タスクで高いパフォーマンスを発揮することが期待される。

Qualcomm、Appleとの熾烈な開発競争

一方で、Qualcommはカスタム設計のNuviaコア(Snapdragon)で、Appleは独自のAシリーズチップで、ArmのIPコアとは異なるアプローチを採っている。ArmのLumexは、ライセンス提供というビジネスモデルの中で、いかにしてカスタム設計の競合に対抗しうる性能と効率を提供できるかという挑戦の現れである。特に、SME2という強力な武器を手に入れたことで、CPUにおけるAI性能という新たな評価軸で優位に立つことを狙っている。この競争は、モバイルSoC全体の技術革新をさらに加速させるだろう。

開発者とユーザーが享受する未来

Lumexがもたらすのは、単なるベンチマークスコアの向上ではない。強力なオンデバイスAI能力は、より自然で応答性の高い音声アシスタント、リアルタイムの双方向翻訳、プライバシーを完全に保護した状態でのコンテンツ推薦など、ユーザー体験を根本から変える可能性を秘めている。開発者にとっては、クラウドAPIへの高価なコールを削減し、オフラインでも機能するインテリジェントなアプリケーションを容易に構築できる環境が整うことを意味する。この技術的変革が、次のキラーアプリケーションを生み出す土壌となるか、注視していく必要がある。

Lumexが示す「AI Everywhere」時代の幕開け

ArmのLumexプラットフォームは、モバイルコンピューティングにおけるヘテロジニアス(異種混在)コンピューティングが新たな段階に入ったことを明確に示している。AIはもはやNPUだけの専売特許ではない。SME2によってCPUは強力な推論エンジンとなり、GPUもまたグラフィックスとAIの両方を担う。これらのプロセッサが連携し、タスクに応じて最適なユニットで処理を行う。Lumexは、そのための高性能かつ電力効率に優れた基盤を提供する。これは、あらゆる場所にAIが浸透する「AI Everywhere」時代の、まさに設計図なのである。


Sources