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成人の脳もニューロンを生み出し続けることが判明し長年の論争に終止符、だが「大きな個人差」の謎が新たに浮上

Y Kobayashi

2025年7月6日

長年、神経科学の世界を二分してきた巨大な論争に、ついに終止符が打たれそうだ。成人の脳も新しい神経細胞(ニューロン)を作り続けるのか――。この問いに対し、スウェーデンのカロリンスカ研究所の研究チームが「イエス」と答える決定的な証拠を権威ある科学誌『Science』に発表した。しかし、物語はここで終わらない。この発見は同時に、なぜか老年期まで活発に脳細胞を作り続ける人と、そうでない人がいるという、新たな謎の扉を開いたのだ。

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長き論争の終焉:成人の脳は新たな神経細胞を生み出していた

「一度失われた脳細胞は二度と再生しない」――これは、長らく医学の常識とされてきた言葉だ。しかし、この定説は覆されようとしている。

今回の研究を主導したカロリンダ研究所のJonas Frisén教授らのチームは、0歳から78歳までの人間の脳組織を分析。その結果、学習と記憶の中枢である「海馬(かいば)」において、成人期、さらには老年期に至るまで、新しい神経細胞が継続的に生まれていることを突き止めた

Frisén教授は声明で、「我々は今回、新たなニューロンの起源となる細胞を特定することに成功しました。これは、成人の脳の海馬でニューロンが継続的に形成されていることを確証するものです」と、その意義を力強く語っている。

この発見は、私たちの脳が持つ「可塑性」、つまり生涯を通じて変化し、適応し続ける能力について、根本的な理解を書き換える可能性を秘めている。

なぜ「決定的」なのか? 最新技術が暴いた「細胞の揺りかご」

成人の脳における神経新生(Neurogenesis)の可能性は、実は何十年も前から議論されてきた。Frisén教授自身も2013年、大気中の炭素14を測定する独創的な手法で、成人の海馬に新しいニューロンが存在することを示唆している。

しかし、この分野は常に反論に晒されてきた。特に2018年には、神経新生の証拠は見つからなかったとする有力な研究も発表され、論争は振り出しに戻ったかのように見えた。その背景には、ヒトの脳組織を扱う技術的な困難さがあった。「ヒトの組織は、死後や手術から得られるため、保存状態によって新生細胞が見えにくくなる可能性がある」と、共同筆頭著者であるMarta Paterlini氏は指摘する。新生児のように活発ではない、ごく少数の新生細胞を見つけ出すのは至難の業だったのだ。

今回の研究チームがこの壁を打ち破れたのは、まさに技術的ブレークスルーのおかげだ。

  • 単一核RNAシーケンシング: 細胞一つひとつの核に含まれるRNA(遺伝子の設計図のコピー)を読み解く技術。これにより、細胞がどのような種類の細胞で、どのような活動をしているのかを分子レベルで特定できる。
  • 機械学習(AI): 膨大なRNAデータをAIに解析させ、「神経前駆細胞(ニューロンの赤ちゃんやその元となる細胞)」に特有の遺伝子活動パターン(遺伝的シグネチャー)を探索させた。
  • 空間的遺伝子発現解析: 特定された前駆細胞が、脳のどの場所に存在するかを地図上にピン止めする技術。これにより、新生細胞が海馬の中でも記憶形成の入り口とされる「歯状回(しじょうかい)」に確かに存在することが視覚的に証明された。

いわば、分子レベルの探偵術とAI、そして高精度のマッピング技術を組み合わせることで、これまで「いるはずだが見つからない」と言われてきた神経前駆細胞、すなわち「細胞の揺りかご」の存在を動かぬ証拠として捉えることに成功したのである。この手法の革新性こそが、今回の発見を「決定的」たらしめている理由だ。

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新たな謎の幕開け:「神経新生」に潜む大きな個人差

論争に終止符を打ったかに見えるこの研究だが、同時に、さらに興味深く、重要な問いを私たちに投げかけている。それは「神経新生の能力には、驚くほど大きな個人差がある」という事実だ。

研究チームが分析したところ、成人の中には活発な神経新生を示す人がいる一方で、ほとんど、あるいは全く新しい神経細胞が作られていない人もいることが明らかになった。14人の成人脳をある手法で分析したところ、新生の兆候が見られたのは9人だったという報告もある。

誰もが同じように脳細胞を再生しているわけではない。この事実は、脳の健康や老化を考える上で、極めて重要な意味を持つ。

なぜ差が生まれるのか? 次なるフロンティア

この個人差は一体何に起因するのだろうか? 遺伝的な要因か、あるいは運動、学習、食事といった生活習慣の違いか。ストレスや社会的な環境も関係しているのかもしれない。

この問いに、まだ明確な答えはない。しかし、この謎の解明こそが、神経科学の次なるフロンティアとなることは間違いないだろう。マサチューセッツ総合病院のTaylor Kimberly博士は、「認知症の患者と、高齢でも認知機能が非常に高い『スーパーエイジャー』を比較することで、神経新生と疾患の関連が解明できるかもしれない」と、今後の研究への期待を語る。

もし、神経新生を活発に保つ要因が特定できれば、それは単なる科学的知見に留まらない。認知症やうつ病の予防、あるいは脳の健康寿命を延ばすための具体的な戦略へと繋がる可能性があるのだ。

「脳を若返らせる」未来は来るか? 治療法開発への期待と課題

今回の発見は、アルツハイマー病のような神経変性疾患や、うつ病などの精神疾患に対する新たな治療法の開発に大きな希望を与えるものだ。Frisén教授も「我々の研究は、これらの疾患において神経新生を刺激する再生医療の開発に示唆を与える可能性がある」と述べている。

失われた脳機能を補うために、神経新生を人為的に促進する。そんなSFのような治療が、現実の目標として視野に入ってきたのだ。

しかし、その道のりは平坦ではない。専門家は、単に新しいニューロンを増やせば良いという単純な話ではないと指摘する。生まれたばかりのニューロンが、既存の複雑な神経回路に正しく接続され、適切に機能しなければ意味がない。また、今回明らかになった「個人差」は、万人に効く画一的な治療法の開発が困難であることも示唆している。

それでも、人間の脳が自ら新しい細胞を生み出す能力を持っているという確証が得られたことの意義は計り知れない。それは、私たちの脳に秘められた、驚くべき回復力と適応能力の証左に他ならない。

長年の論争を経て、私たちは自らの脳について、また一つ深遠な真実を知った。成人の脳は静的な組織ではなく、生涯を通じて変化し続けるダイナミックな宇宙である。そして、その宇宙のあり方は、驚くほど個性的だ。なぜ、あなたの脳は新しい細胞を作るのか。あるいは、作らないのか。この問いの答えを探る旅は、まだ始まったばかりなのだ。


論文

参考文献

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