マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームが、物質の新たな磁気状態「p波磁性(p-wave magnetism)」を世界で初めて観測し、その電気的な制御に成功した。この発見は、コンピュータのメモリやプロセッサを桁違いに高速化・省エネルギー化する次世代技術「スピントロニクス」の実現に向けた、大きなマイルストーンとなる可能性がある。一体、どのような原理が私たちのデジタル社会の未来を根底から変えようとしているのだろうか。
「p波磁性」とは何か? 磁石の常識を覆す“第三の顔”
私たちの身の回りにある磁石は、ほとんどが「強磁性」と呼ばれる性質を持つ。これは、物質内の無数の電子が持つ「スピン」という、いわばミクロなコンパスの針が、すべて同じ方向を向いて整列することで、強力な磁力を生み出す現象だ。
一方、スピンが隣同士で互い違いの方向を向き、全体として磁力が打ち消し合ってしまう「反強磁性」という状態も存在する。
今回MITのチームが発見した「p波磁性」は、これら二つの性質を併せ持つ、いわば磁性の“第三の顔”だ。反強磁性体のように物質全体としては磁力をほとんど示さない(正味の磁化がゼロ)にもかかわらず、内部の電子は強磁性体のように特定方向のスピンを持ちたがる。
その秘密は、極めて特殊なスピンの配列にある。発見の舞台となった二次元結晶「ヨウ化ニッケル(NiI₂)」の内部では、磁性を担うニッケル原子のスピンが、まるで渦を巻くように「螺旋(スパイラル)状」に並んでいるのだ。さらに興味深いことに、この螺旋には「右巻き」と「左巻き」という、互いに鏡に映したような関係(カイラリティ、掌性)の二つの状態が存在する。
この奇妙な螺旋構造こそが、p波磁性の本質だ。この構造の中を移動する電子は、その進行方向によってスピンの向きが決定づけられる。例えば、ある方向に進む電子は上向きスピンを持ち、その正反対の方向に進む電子は下向きスピンを持つ、といった具合だ。この「運動方向とスピンの向きが連動する」という特異な性質が、「p波」という名の由来となっている。
発見の舞台裏:「理論」と「実験」の幸福な出会い
この画期的な発見は、一夜にして成し遂げられたわけではない。MITの物理学者Riccardo Comin教授のグループは、2022年の時点で、ヨウ化ニッケルがこの奇妙な螺旋状スピン構造を持つことを突き止めていた。しかし当時は、それがp波磁性という新たな物理現象であり、ましてや電気的に制御できる可能性を秘めているとは、誰も想像していなかった。
転機となったのは、理論物理学者との連携だった。イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校のRafael Fernandes氏らが、近年提唱されていた「p波磁性」という理論的なアイデアに着目。彼らは、コミン教授らが観測したヨウ化ニッケルの螺旋スピン構造こそ、この理論を実証するための完璧な候補ではないかと考えたのだ。
「それは当時、全く新しいアイデアでした。私たちはヨウ化ニッケルがこの種のp波磁性効果を示す格好の候補だと気づき、実験的に検証することを決めたのです」とComin教授は語る。
理論が実験の道を照らし、実験が理論の正しさを証明する。科学の進歩における、まさに理想的な協力関係が、今回の発見へと繋がった。
世界初、電気による「スピン反転」の実証
研究チームは、まず高温炉でヨウ化ニッケルの薄い単結晶フレークを合成した。その見た目を、コミン教授は「クラッカーブレッドのようだ」と表現する。この薄片から、さらに厚さわずか数十ナノメートルという極薄の試料を剥離して実験に用いた。
p波磁性の存在を証明するため、チームは「円偏光」と呼ばれる特殊な光を試料に照射した。円偏光は、電場が螺旋を描きながら進む光であり、時計回りと反時計回りの「巻き方」がある。
彼らの狙いは的中した。光の巻き方(カイラリティ)と、物質内部で励起される電子のスピンの向きが見事に相関することを確認したのだ。これは、ヨウ化ニッケル内の螺旋スピン構造が、移動する電子のスピンの向きを決定づけている動かぬ証拠であり、「p波磁性」が初めて実験的に観測された瞬間だった。
さらに研究は核心へと進む。チームは、この物質にわずかな電場(電圧)をかけることで、スピンの螺旋構造の「巻き方」そのものを、右巻きから左巻きへ、またその逆へと自在に反転させることに成功したのだ。
これは単に構造が変わるだけではない。螺旋の巻き方が反転すると、それに伴って電子のスピンの向きも反転する。つまり、ごく小さな電気的エネルギーで、無数の電子のスピン状態を一斉に制御できる「スイッチ」を手に入れたことを意味する。
なぜ“桁違い”なのか? スピントロニクスが拓く未来
この「電気によるスピン制御」こそが、p波磁性が“革命的”と評される所以だ。現代のエレクトロニクスは、電子の「電荷」の流れ(電流)を利用して情報を処理している。しかし、電荷を動かす際には必ず抵抗が生じ、エネルギーの一部が熱(ジュール熱)として失われる。これが、スマートフォンやPCが熱くなる根本的な原因であり、性能向上の大きな足かせとなってきた。
一方、「スピントロニクス」は、電子の「電荷」ではなく「スピン」の向き(上向き/下向き)を情報の「0」と「1」に対応させて利用する。スピンの向きを変えるだけなら、電荷を物理的に移動させる必要がなく、原理的に熱の発生を劇的に抑えることができる。
今回の発見は、このスピントロニクスデバイス実現への道を大きく切り拓いた。MITの材料科学研究所の研究者、Qian Song氏は、そのインパクトを次のように語る。
「私たちは、この新しい磁性を電気的に操作できることを示しました。このブレークスルーは、超高速、コンパクト、高エネルギー効率、そして不揮発性の磁気メモリデバイスという新たなクラスへの道を開くものです」
Song氏はさらに、p波磁性体を使えば「5桁、つまり10万分の1ものエネルギーを節約できる可能性がある。これは巨大なインパクトです」と付け加える。
発熱が少ないということは、より高密度に素子を集積でき、より高速に動作させられることを意味する。まさに、現在のコンピュータが抱える根本的な課題を解決する可能性を秘めているのだ。
実用化への壁と、その先の展望
もちろん、この技術が明日のコンピュータに搭載されるわけではない。最大の課題は「温度」だ。現在、p波磁性の観測と制御に成功しているのは、約60ケルビン(摂氏マイナス213度)という、液体窒素よりもさらに低い極低温環境下のみだ。
「これは実用的な温度とは言えません」とComin教授も認める。「しかし、私たちはこの新しい磁性の状態を実現しました。次のフロンティアは、室温でこれらの特性を持つ材料を見つけることです。そうなれば、スピントロニクスデバイスへ応用できるでしょう」
今回の発見は、単なる応用技術の種にとどまらない。物質が持つ対称性と、そこから生まれる奇妙で美しい物理現象の奥深さを、改めて私たちに教えてくれる。螺旋構造という「空間反転対称性の破れ」が、電気と磁気という異なる性質を結びつけ、電気による磁気制御という機能を生み出した。これは、II型マルチフェロイクスと呼ばれる物質群の探求にも新たな光を当てるものだ。
マックス・プランク研究所の理論物理学者Libor Šmejkal氏は、「p波スピン分極状態という我々の予測を、これらの最先端の実験が裏付けたことに興奮している」と述べ、今回の成果を高く評価している。
理論が予測し、実験が証明し、そして新たな応用への扉が開かれる。科学の探求は、室温で機能するp波磁性体という「聖杯」を求め、次なる挑戦へと向かう。電気の力で無数のスピンを自在に操る未来は、まだ始まったばかりだ。
論文
参考文献
- MIT Department of Physics: Physicists observe a new form of magnetism for the first time