2021年9月、AppleはiOS 15とともにiCloud プライベートリレーを公開した。iCloud+の有料プランに加入していれば追加費用なしで使えるこのサービスは、Safariのトラフィックを2つの中継サーバー経由で送信する。第1中継(イングレスプロキシ)はAppleが運用し、ユーザーのIPアドレスを見るが、接続先のサイト名は暗号化されていて見えない。第2中継(イグレスプロキシ)はCloudflareなどのCDN事業者が運用し、サイト名を復号して接続を確立するが、ユーザーの元IPは知らない。Apple自身でさえ、IPと閲覧先を同時に把握できない設計だ。

このアーキテクチャは、VPNとは根本的に異なる。VPNがOSレベルでデバイスの全通信をトンネル化するのに対し、プライベートリレーが保護するのはSafariのトラフィックと一部の非暗号化通信に限られる。Appleはこの点を公式文書で明示してきたが、多くのユーザーは「VPNのようなもの」と理解して使ってきた。

プライベートリレーは登場当初から論争の的でもあった。2021年8月、Vodafone、Telefonica、Orange、T-Mobileの欧州4大キャリアは欧州委員会に共同書簡を送り、プライベートリレーが「ネットワークデータとメタデータへのアクセスを遮断する」として規制を求めた。英国のTalkTalkも「危険なコンテンツのブロックが困難になる」と抗議した。プライバシー保護とネットワーク管理の緊張関係は、このサービスの宿命だった。

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パスキーの裏口から実IPが漏れる

2026年8月4日、セキュリティ研究者のTalal Haj BakryとTommy Myskが公開した調査報告は、この設計前提を根底から崩すものだった。WebKitに存在する3つの機能が、プロキシ設定を完全に迂回してデバイスから直接通信を発信し、プライベートリレーが隠すべき実IPアドレスを外部に露出させていた。

最も深刻なのがWebAuthn Related Origin Requestsを経由する漏洩だ。WebAuthnはパスキーの基盤となるWeb標準で、パスワードに代わる認証方式としてAppleが積極的に推進してきた。Related Origin Requestsは、1つのパスキーを複数のドメインで使えるようにする拡張機能である。

問題の所在はこうだ。ウェブサイトがパスキー認証を要求すると、WebKitは認証処理をブラウザのネットワークスタックではなく、OSのクレデンシャルサービスに委ねる。このクレデンシャルサービスが検証ファイル(/.well-known/webauthn)を取得する際、ブラウザが設定したプロキシを認識しない。結果として、HTTPリクエストはデバイス本来のネットワーク経路から直接発信され、宛先サーバーにはプライベートリレーのIPではなくユーザーの実IPが届く。

研究者のTommy Myskは404 Mediaの取材に対し、「要するに、パスキーに対応している(あるいは対応を装っている)あらゆるウェブサイトが、iCloud プライベートリレーを有効にしているユーザーの実IPアドレスを見られる」と語った。

この漏洩が特に危険なのは、ユーザー側に一切の兆候がない点だ。パスキーの認証プロンプトも、何らかのUI表示も出ない。mediation: "conditional"を設定すれば、バックグラウンドで静かにリクエストが発火する。iOS 18.0(2024年9月リリース)から存在しており、約2年間にわたってこの状態が続いていた。

3つの漏洩経路とそれぞれの影響範囲

WebAuthn以外の2つの漏洩は、より最近導入された機能に起因する。

DNSプリフェッチは、ページ内の<link rel="dns-prefetch">タグに基づき、まだアクセスしていないホスト名を先回りして名前解決する機能だ。デスクトップ版SafariはSafari 5の時代から対応していたが、iOSではiOS 26.0(2025年9月)まで無効だった。有効化された際、WebKitは名前解決をデバイスの通常のDNS経路で行うようになり、プライベートリレーが本来中継するはずのDNSクエリがプロキシを素通りするようになった。露出するのはIPアドレスそのものではなく、ユーザーが実際に使っているDNSサーバーの情報だ。

WebTransportはWebSocketの低遅延代替として設計された通信プロトコルで、HTTP/3とQUICの上で動作する。iOS 26.4(2026年3月)で公開されたこの機能は、new WebTransport(url)を呼び出すとデバイスから直接QUIC接続を確立する。WebKitは接続を構築する際にセッションのプロキシ設定を一切参照しないため、サーバー側にはデバイスの実IPが見える。

漏洩経路 露出する情報 導入時期 存続期間(2026年8月時点) ユーザーへの可視性
WebAuthn Related Origin Requests 実IPアドレス iOS 18.0(2024年9月) 約23か月 なし(バックグラウンドで発火)
DNSプリフェッチ 実DNSサーバー情報 iOS 26.0(2025年9月) 約11か月 なし
WebTransport 実IPアドレス iOS 26.4(2026年3月) 約5か月 なし

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VPNは影響を受けない。プロキシ型ブラウザは全滅

この3つの漏洩が影響するのは、アプリケーションレベルのプロキシに依存するサービスだけだ。VPNはOSレベルでデバイスの全通信をトンネル化するため、WebKit内部でどの経路を通ろうと最終的にVPNサーバー経由で発信される。プライベートリレーとVPNの差が、まさにここで明暗を分けた。

一方で、iOS上のプロキシ型ブラウザは軒並み影響を受ける。AppleのApp Storeポリシーは、iOS上のすべてのブラウザにWebKitの使用を義務付けている。プロキシ型ブラウザはWKWebsiteDataStore.proxyConfigurationsというAPIでトラフィックを中継するが、上記3つの機能はこのAPIの設定を無視する。

Tor経由の匿名ブラウジングを提供するOnion Browserも影響対象だ。Onion Browserの「Silver」セキュリティレベルはLockdown Modeを有効にしてWebTransportを完全に無効化するため、WebTransport経由の漏洩は回避できる。しかしWebAuthnとDNSプリフェッチの漏洩は、Onion Browserの開発者側では制御できない。研究者らはTor ProjectとOnion Browserの開発者に事前に連絡を取っており、Tor Project側はこの問題を「深刻(dire)」と評価したという。

研究者ら自身が運営するプライバシー重視ブラウザPsyloは、バージョン1.3.1で3つの漏洩すべてに対処した。DNSプリフェッチのヒントをブロックし、WebTransportとWebAuthnをデフォルトで無効化している。必要なサイトに対してはサイト単位で再有効化できる。

404 Mediaが独立検証。Appleは秋の修正を予定

研究者らは漏洩を検証できるPoCサイト(leaks.psylo.app)を公開している。404 Mediaがこのサイトでテストを行ったところ、プライベートリレーが隠すべき実IPアドレスが実際に返ってきた。

MyskとHaj Bakryは公開後にAppleへ調査結果を提出した。Appleのセキュリティレポートのステータスは「対応予定」に更新されており、修正は2026年秋を予定している。Appleは404 Mediaに対し「調査中」と回答した。

修正までの間にどれだけのウェブサイトが実IPを収集したかは不明だ。研究者らは「多くのウェブサイトがすでに情報を収集している可能性がある」と指摘している。パスキーの導入は急速に進んでおり、WebAuthnのRelated Origin Requestsを意図的に実装していなくても、関連するJavaScriptライブラリを読み込んでいるだけでリクエストが発火する可能性があるためだ。

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繰り返されるプライバシーツールの破綻

今回の漏洩は、Appleの有料プライバシーツールが抱える構造的な問題の一端を示している。2026年7月には、Hide My Emailの脆弱性が公開された。EasyOptOutsの共同創業者Tyler Murphyが2025年6月にAppleへ報告したこの問題は、スパムとして拒否されたメールのログにユーザーの実メールアドレスが漏れるというものだった。Appleは報告から13か月後の2026年7月3日に修正を主張したが、AppleInsiderが7月17日に再現実験を行い、まだ修正されていないことを確認した。最終的な修正がいつ完了したかは明確になっていない。Murphyのボランティアテストでは、Hide My Emailアドレスの100%が脆弱だった。この件では集団訴訟も提起されている。

Hide My Email iCloud プライベートリレー(今回)
漏洩する情報 実メールアドレス 実IPアドレス
報告から修正までの期間 約13か月 2026年秋予定(公開時点では未修正)
漏洩の存続期間 不明(2025年6月以前から存在) WebAuthn経由は約23か月
独立検証 404 Media、AppleInsider 404 Media
ユーザーへの通知 なし なし(記事公開時点)

2つの事例に共通するのは、Appleがプライバシーを製品の差別化要因として掲げながら、その実装における検証が追いついていないという構造だ。プライベートリレーの2ホップ設計は、トラフィックが「Safariの標準的なページ読み込み経路」を通ることを前提に成り立っている。OSのクレデンシャルサービスやWebKitの新しい接続APIのように、その経路の外側で通信が発生するケースが設計時の想定から漏れていた。

秋の修正で閉じない問い

Appleが2026年秋に予定する修正が、3つの漏洩すべてを同時に塞ぐのか、段階的な対応になるのかは明らかになっていない。WebAuthnのRelated Origin Requestsを無効化すれば、複数ドメインでパスキーを共有する正当なユースケースが影響を受ける。セキュリティと利便性のトレードオフをどう処理するか、Appleはまだ方針を示していない。

もう一つの未解決の問題は、過去2年間のデータだ。iOS 18.0以降にWebAuthn対応サイトを訪問したプライベートリレーユーザーの実IPが、どの程度の規模で、どのウェブサイトのサーバーログに残っているのか。研究者のPoCが示したのは「漏洩が技術的に可能である」という事実であり、実際の悪用の規模は誰にも測定できない。修正パッチが配布された後も、すでに収集されたIPアドレスは消えない。