財布の奥に眠る期限切れのクレジットカード。ほとんどの人は、あれをただのプラスチック片だと思っている。クレジットカードの資格そのものは生きている(返金は期限切れカードにも届く)が、物理カードとしての決済能力は失われた、と。
その前提が、少なくともVisaの非接触カードについては成り立たないことがわかった。マサチューセッツ大学アマースト校(UMass Amherst)のRaja Hasnain Anwar、Gerard DeCunha、Muhammad Taqi Razaの3人は、期限切れのVisa非接触カードを2台の市販スマートフォンとNFC中継ソフトウェアだけで「蘇生」し、実際のPOS端末で決済を成立させる攻撃を実証した。論文「Zombie Cards Back Online: Reviving Expired Credit Cards for Contactless Payments」は2026年8月12日から14日にかけて開催されたUSENIX Security 2026で発表されている。
攻撃の成立条件は驚くほど軽い。攻撃者は新しいカードの有効期限を知る必要がない。任意の未来の日付を書き込めばよい。必要なのは物理カードそのものと、Wi-Fiで接続された2台のスマートフォンだけだ。
30年かけて築かれたEMVの城壁に、なぜ穴が開いたのか
EMV(Europay, Mastercard, Visa)規格は1996年に初版が公開され、磁気ストライプカードをICチップカードに置き換えることを目的として設計された。EMVCoが管理するこの規格は現在、世界で120億枚以上の決済カードに採用されている。非接触決済の普及に伴い、EMV Contactless仕様は各カードブランドごとに「カーネル」と呼ばれる実装に分岐した。Visaはカーネル3(payWave)、Mastercardはカーネル2(PayPass)、American Expressはカーネル4、Discoverはカーネル6をそれぞれ運用している。
EMVのセキュリティ設計は、オフライン認証(ODA: Offline Data Authentication)とオンライン認証(発行者暗号検証)の二層構造で成り立っている。オフライン認証では、カードがRSA署名によってデータ完整性をPOS端末に対して証明する。オンライン認証では、カードと発行者銀行の間で共有鍵に基づくMAC(メッセージ認証符号)が生成される。
問題は、この二層の間に「どちらにも守られていないデータ」が存在する点にある。
Visaカーネルだけが有効期限を署名の外に置いていた
研究チームの分析によれば、Visaカーネル3の非接触取引フローでは、POS端末がカードの有効性を判断する際に「Application Expiration Date」(タグ5F24)というデータフィールドを参照する。このフィールドはカードから読み出されるが、カードのデジタル署名(ODA)の対象に含まれていない。
一方、オンライン承認の際に発行者銀行が参照するのは、別のデータフィールドに含まれる有効期限である。本来、端末が読む日付と銀行が検証する日付は暗号的に結合(cryptographic binding)されているべきだが、Visaの実装ではこの結合が存在しない。
研究チームは論文でこう述べている。「我々の結果は、Visaの非接触取引が、効果的な完整性保護の欠如により、man-in-the-middle改ざんに対して脆弱であることを示している」。
さらに、カードが送信するCard Transaction Qualifiers(CTQ)の設定が、期限切れカードの取引を即座に拒否するのではなくオンライン承認へ転送する方向に誘導する。これにより、最終的な判定責任が発行者銀行に委ねられるが、銀行側の対応は一様ではない。端末が読み取った有効期限を認証済みデータと照合しない銀行では、不正取引がそのまま承認される。
加えて、カードに埋め込まれたデジタル証明書(セキュリティ鍵)の有効期限は、カード表面に印字された有効期限よりも長く設定されている。このため、証明書レベルの検証では期限切れを検知できない。
2台のスマートフォンで完結する攻撃の全工程
攻撃の仕組みは以下の通りだ。
1台目のスマートフォンを期限切れカードに近づけると、NFC経由でカードが起動し、カードホルダーデータと決済アプリケーション(有効期限を含む)を送信する。このデータはWi-Fi経由で2台目のスマートフォンに中継される。2台目のスマートフォン上で、攻撃者はApplication Expiration Dateを任意の未来の日付に書き換える。書き換えられたデータを持つ2台目のスマートフォンをPOS端末にタップすると、端末は有効なカードとして処理を進める。
傍目には、デジタルウォレットでタップ決済しているのと区別がつかない。
研究チームは実験室だけでなく、実際の飲食店や食料品店でも攻撃の成功を確認している。攻撃が成功するかどうかは最終的に発行者銀行の検証ロジックに依存する。テストした銀行の一部は取引を承認し、一部は拒否した。
Mastercard、Amex、Discoverはなぜ耐えたのか
この攻撃がVisaカーネルにのみ通用した理由は、各ブランドのカーネル設計思想の違いにある。Mastercard、American Express、Discoverのカーネルでは、有効期限が暗号的に保護されたデータに含まれるか、あるいは期限切れ時に取引を即座に拒否するロジックが実装されていた。
| 項目 | Visaカーネル3 | Mastercard / Amex / Discover |
|---|---|---|
| 有効期限の暗号学的保護 | なし(ODA署名対象外) | あり、または即座に拒否 |
| 期限切れ時の端末挙動 | CTQ設定によりオンライン転送 | 取引拒否 |
| 攻撃の成否 | 成功(銀行依存) | 不成功 |
| 攻撃に必要な機器 | 市販スマートフォン2台 + NFC中継ソフト | 同上(ただし通用せず) |
AnwarはThe Registerへのメールで、この差異が生じる背景を次のように説明している。「これらのプロトコルは、異なる種類の端末でのグローバルな受け入れを確保するために、ほとんどのメッセージを共通化しています。しかし、各メーカーには追加メカニズムについて独自の設計判断があります。多くの場合、これらの設計判断は旧型POS端末との下位互換性と性能基準の両立を優先した妥協の産物です」。
性能とセキュリティのトレードオフ。非接触決済が求められる「速さ」が、暗号学的保護の範囲を狭める方向に作用した。
先行研究が示す「EMVの選択的認証」という構造的問題
この種の脆弱性は今回が初めてではない。2023年にはETH ZurichのDavid Basin、Patrick Schaller、Jorge Toro-PozoがUSENIX Security 2023で、Mastercardの非接触取引においてPIN認証をバイパスする攻撃を発表した。この攻撃も同じ2台のスマートフォンによるMITM(man-in-the-middle)アーキテクチャを使用し、オフライン認証が早期に失敗した場合に端末が以降の認証失敗を無視する仕様を突いたものだった。
2024年にはAnwarら自身がUSENIX Security 2024で「In Wallet We Trust」を発表し、デジタルウォレットの認証、認可、アクセス制御の脆弱性を示した。ロック済み、盗難報告済みのカードでもデジタルウォレット経由で決済が成立するケースを、Chase、AMEX、Bank of Americaなどの大手銀行で実証している。
2025年にはUSENIX Security 2025でPavlidesらが「More is Less: Extra Features in Contactless Payments Break Security」を発表し、非接触決済の追加機能がセキュリティを劣化させる構造を分析した。
| 年 | 研究チーム | 対象 | 攻撃内容 | 会議 |
|---|---|---|---|---|
| 2023 | Basin et al.(ETH Zurich) | Mastercard | PINバイパス(CVM List改ざん) | USENIX Security '23 |
| 2024 | Anwar, Hussain, Raza(UMass Amherst / Penn State) | デジタルウォレット全般 | ロック済みカードでの不正決済 | USENIX Security '24 |
| 2025 | Pavlides et al. | EMV非接触全般 | 追加機能によるセキュリティ劣化 | USENIX Security '25 |
| 2026 | Anwar, DeCunha, Raza(UMass Amherst) | Visa非接触カード | 期限切れカードの蘇生 | USENIX Security '26 |
4年連続で、EMV非接触決済の「選択的に認証されるデータ」が攻撃対象になっている。個々の脆弱性は異なるが、根本原因は共通している。プロトコル全体を一律に暗号化するのではなく、取引の高速化のために一部のデータを平文のまま流す設計判断が、MITM攻撃の入口を作り続けている。
通告から1年以上が過ぎたが、修正は確認されていない
研究チームは2025年5月にVisaへ発見を通告し、同年12月にフォローアップを行った。The Registerの取材時点(2026年8月18日)で、Visaはコメント要請に即座には応じていない。通告を受けた銀行からも、有効期限の問題を修正したという確認は出ていない。
EMV規格の修正にはEMVCoの仕様変更、各カーネルの実装更新、世界中のPOS端末への反映が必要になる。Visaが仕様上「グローバルな有効期限の上限を設けていない」ことも、端末側での簡易チェックを困難にしている。Visaの公式文書(Transaction Acceptance Device Guide)は「Visaはカードの有効期限にグローバルな上限を設けていないため、POSデバイスは有効期限が遠すぎる将来かどうかを検証すべきではない。この種の検証は誤った拒否につながる可能性がある」と明記している。
残された問い
この攻撃の実証は、特定の銀行、特定のPOS端末の組み合わせで成功したものであり、すべてのVisa非接触カード、すべての銀行で通用することを意味しない。成功の可否は発行者銀行のオンライン承認ロジックに依存する。論文が示したのは「この設計では銀行次第で攻撃が成立する」という構造的可能性であり、実際の不正利用事例が報告されたわけではない。
未解明のまま残されている問いは少なくない。Visaが有効期限の暗号学的結合を実装した場合、旧型POS端末との下位互換性は維持されるのか。デジタル証明書の有効期限がカード表面の有効期限より長い設計は、意図的なものか、それとも見過ごされた不一致か。そして、期限切れカードを破棄せずに保管している利用者が実際にどの程度いるのか。この攻撃の現実的な脅威レベルは、その数字に左右される。
RazaはUMass Amherstの発表資料の中で、利用者への対策として「期限切れカードは必ず廃棄すること。カードを完全に解約した場合でも、閉鎖された口座の取引を監視し続けること」を呼びかけている。プラスチック片だと思っていたものが、まだ「生きている」可能性がある以上、それは合理的な助言だ。



