1941年1月、テキサス州フリーポートに1軒の工場が稼働を始めた。Dow Chemicalが建設したこのプラントは、牡蠣殻を焼いて得た石灰を海水に混ぜ、マグネシウムを沈殿させる。1トンのマグネシウムを得るために、800トン以上の海水を処理した。翌1942年、この工場は米国全体のマグネシウム生産量の84%を供給し、連合軍の航空機製造を支えた。2025年4月、米国化学会(ACS)はこの技術を国立歴史化学ランドマークに指定している。

85年が経った今、同じ「海水からマグネシウムを取り出す」という課題に、まったく異なるアプローチで挑む研究が現れた。MITのT. Alan Hatton教授(化学工学)とKripa Varanasi教授(機械工学)のチームは、ビスマス電極の酸化還元反応を利用して海水のpHを局所的に変え、マグネシウムイオンだけを「釣り上げる」電気化学システムを開発した。論文は2026年8月12日付でACS Energy Lettersに掲載されている(DOI: 10.1021/acsenergylett.6c01659)。

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中国が握る供給網と、海水という「ほぼ無限」の鉱床

マグネシウムはアルミニウムの約3分の2の密度しかない最軽量の構造用金属であり、自動車軽量化、航空宇宙、耐火材、農業、そして近年需要が急増している健康サプリメントに至るまで用途が広い。USGS(米国地質調査所)の2026年版Mineral Commodity Summariesによれば、2025年の世界マグネシウム金属生産量は約110万トンで、そのうち中国が約95万トン(約86%)を占める。辽宁省に集中するマグネサイト鉱山からの採掘は、景観破壊や大気汚染を伴う。

一方、海水には約1,280 mg/Lの濃度でマグネシウムイオンが溶けており、全海洋の埋蔵量は約トンと推定される。陸上のマグネサイト確認資源量130億トンと比べれば、事実上枯渇しない資源だ。問題は、この希薄なイオンをいかに経済的に、しかも選択的に取り出すかという点にあった。

石灰と塩酸に頼ってきた85年

Dowが確立した伝統的な海水マグネシウム抽出法は、三段階で構成される。まず石灰()を海水に加えてを沈殿させ、次に塩酸()で処理してに変換し、最後に溶融塩電解で金属マグネシウムを得る。このプロセスは大量の石灰と塩酸を消費し、副生物の処理も必要になる。

電気化学的な代替手法も以前から試みられてきた。海水中で電解を行えば、陰極近傍で生成すると反応してが析出する。原理的には化学薬品が不要だが、二つの壁があった。一つは、海水中にの約8倍の濃度で存在するとの分離が困難なこと。もう一つは、この分離を可能にするイオン交換膜が高価であることだ。さらに、陰極表面にスケール(鉱物の皮膜)が蓄積して電子移動を阻害し、反応が停止する問題も未解決だった。

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膜を使わず選択性を実現するビスマスのpHスイング

HattonとVaranasiのチームは、この壁を膜ではなく電極材料の化学で超えた。彼らが着目したビスマス(Bi)は、酸化電位をかけると塩化ビスマスオキシド(BiOCl)を形成しながらプロトン()を放出し、還元方向に切り替えるとプロトンを再吸収して水酸化物イオン()を生成する。つまり、電圧の向きを変えるだけで周囲の液性を酸性とアルカリ性の間で往復させられる。この「pHスイング」が、この技術の心臓部だ。

研究チームが構築したセルは、薄いビスマス電極シートが膜を挟んで二つの流路をサンドイッチする構造をしている。一方の流路に実際の海水を、もう一方に電解質溶液を流し、電場をかける。ビスマス電極がを生成すると、海水中のとして電極表面に吸着・沈殿する。ここで電場の極性を反転させ、流路を流れる溶液を切り替えると、が溶解しての濃縮溶液として回収される。外部から酸や塩基を加える必要がない。

このpHスイングを繰り返すことで、海水中のマグネシウム濃度は8倍に濃縮され、の比は20対1に達した。研究チームは、この選択性がこれまで報告された電気化学膜システムの中で最高であると述べている。

項目 従来の石灰沈殿法 既存の電気化学膜法 本研究(ビスマス電極法)
化学添加剤 石灰+塩酸が必須 不要(膜に依存) 不要
高価なイオン交換膜 不要 必要 不要
Mg/Na選択性 沈殿条件に依存 膜の性能に依存 20:1(本実験で実証)
運転電圧 該当なし 数V程度 600 mV未満
推定コスト( 化学薬品費+エネルギー費 膜のコストが律速 107ドル/トン(試算)
スケール問題 沈殿槽の管理が必要 膜の汚染 電極表面のスケール蓄積を回避

数百時間の連続運転に耐える600ミリボルトの低電圧駆動

ビスマス電極のpHスイングは、600 mV未満の低電圧で駆動する。これは水の電気分解に必要な理論電圧(1.23 V)の半分以下であり、エネルギー消費の面で有利だ。さらにチームは、数百時間にわたる連続サイクリングでも電圧の上昇や性能劣化が起きないことを確認した。スケール(鉱物皮膜)の蓄積による不活化が起きにくい点も、直接電解方式の先行研究に対する優位点である。

コスト面では、チームの試算によればの生産コストはトンあたり約107ドル。2026年時点の市場価格を参照すると、米国(メキシコ湾岸FOB)で575〜655ドル/トン、欧州(ロッテルダムFOB)で445〜520ドル/トン、中国(青島FOB)で120〜148ドル/トンである。最も安い中国の市場価格と比べても、本研究の試算値は低い。ただし、研究チーム自身もこの数値が乾燥などの後処理工程を含まないことを認めており、実プラントでの総コストは上振れする可能性がある。

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CO₂除去用に開発した電極が鉱物回収にも使える理由

このビスマス電極のpHスイング技術は、もともと海水からの除去を目的に開発されたものだ。HattonとVaranasiのチームは2023年、Energy & Environmental Science誌に、ビスマスと銀の電極を組み合わせて海水中のを電気化学的に回収するシステムを報告している(DOI: 10.1039/D2EE03804H)。この先行研究では、122 kJ/molのエネルギー消費で溶存無機炭素の87%を除去できた。

同じ電極化学が、気候変動対策の回収から、産業鉱物のマグネシウム回収へと応用先を広げた形だ。Varanasi教授はTechXploreの取材に対し、「海水そのものをマグネシウムの供給源に変えることで、国内生産を可能にし、重要素材のサプライチェーンをより強靭にできる。海を、産業が必要とする重要素材を生産するプラットフォームにするブルーエコノミーへと向かう」と述べている("By turning seawater itself into a source of magnesium, this technology can enable domestic production and make our supply chains for critical materials more robust")。

スケール対策のもう一つの道を拓く競合技術

海水からの電気化学的マグネシウム回収は、本研究以外にも活発な競争が起きている分野だ。2026年には、NiFeCo合金の階層的微細構造配列を持つ陰極を用いて、水素気泡の合体・滑走によるせん断力でスケールを動的に剥離させる手法がChemical Engineering Journalに報告された(DOI: 10.1016/j.cej.2026.174082)。この手法は1,000時間の連続電解で99.5%純度の2.67 kWh/kgのエネルギーで抽出している。

本研究(ビスマス電極) NiFeCo階層構造陰極(2026)
抽出物 濃縮液 粉末
純度 Mg/Na = 20:1 99.5%
エネルギー 600 mV未満(電圧) 2.67 kWh/kg
連続運転 数百時間 1,000時間
スケール対策 pHスイングで回避 気泡のせん断力で剥離
1枚(流路分離用) 不要

両者は競合というより補完の関係にある可能性もある。ビスマス電極法は溶液を直接得られる点で金属マグネシウム生産に直結し、NiFeCo法は高純度粉末を大量に得たい用途に向く。

残された問い

この研究には、実用化までに越えるべき段差がいくつかある。第一に、コスト試算に含まれない後処理(乾燥、精製、輸送)の費用をどう見積もるか。第二に、実際の海洋環境におけるバイオファウリング(生物膜の付着)や、海水中の微量不純物(ホウ素、カルシウムなど)が長期運転に与える影響は未検証だ。第三に、論文で報告された8倍の濃縮と20:1の選択性は実験室スケールのものであり、産業スケールの流量で同じ性能を維持できるかは今後の実証試験を待つ。

海水中のマグネシウムは、濃度こそ1,280 mg/Lと希薄だが、総量では陸上鉱床の10万倍以上に達する。この「薄いが膨大」な資源を、化学薬品に頼らず、低電圧で、選択的に取り出す道筋が、ビスマス電極によって初めて具体的に示された。次の問いは、この道筋をどこまで太くできるかだ。