1905年、スイス特許庁の机に座ったAlbert Einsteinは、既存の物理データに矛盾を見つけたわけではない。ニュートン力学は依然として大成功を収めており、実験から「新しい枠組みが必要だ」という信号は届いていなかった。Einsteinが使ったのはデータではなく、密閉されたエレベーターの中で自由落下する人間を思い浮かべる想像力である。その身体感覚の模倣が、重力と加速度を結びつける等価原理という新しい公理を生んだ。
現在の大規模言語モデルは、Einsteinの導いた方程式を見せれば、そこから先の数学的演繹を華麗にこなす。しかし、その公理を自力で生み出すことはできない。Google DeepMindの研究科学者Tom Zahavyは2026年、ICML(国際機械学習会議)に提出した立場論文「LLMs Can't Jump」の中で、この非対称性を推論の構造から説明しようとした。
Einsteinが1952年に描いた科学の地図
問題の核心に入る前に、Einstein自身が科学的発見をどう理解していたかを確認しておく必要がある。
1952年3月30日、Einsteinは友人の哲学者Maurice Solovineへ宛てた手紙の中に、小さな図を描いた。そこには、科学が進む経路が示されていた。出発点はE(経験)、すなわち生の感覚データだ。そこから科学者は直感的な跳躍を経て**A(公理)**に到達し、公理から演繹によって検証可能な帰結を導き、再び経験Eと照合する。循環するループで、「E→A」の区間だけが論理の外に置かれている。Einsteinはここを論理的なステップではなく「J(Jump)」と表記した。
哲学者Charles Sanders Peirce(1839-1914)はこの跳躍を「アブダクション(abduction)」と名付け、「アブダクションのみが新しいアイデアを導入する唯一の論理的操作だ」と述べた。帰納が観測から傾向を読み取り、演繹が既存のルールから結果を引き出すのに対し、アブダクションは観測データが乏しいときに「もしこの仮説が正しければ、あの観察が説明できる」という跳躍をする。証明ではなく、最善の説明を選ぶ賭けだ。
Zahavyの論文は、この三分割の図をLLMの能力マッピングに重ねることで、現在のAIが科学の地図のどの位置にいるかを示そうとする。
特筆すべきは、Einstein自身が帰納を強く不信任していた事実だ。彼は「観測データから物理法則への論理的な通り道はない」と明言し、公理とは「人間の心の自由な発明」だと考えていた。この認識論的な立場が、Zahavy論文の出発点になっている。
LLMが征服した二つの領域と、届かない一つ
現在のAIが帰納を得意とすることは、異論が少ない。数十億のトークンにわたる統計的パターン照合は、まさに帰納の工業化だ。
演繹の制覇もここ数年で急速に進んだ。AlphaProofは2024年の国際数学オリンピック(IMO)で6問中4問を解き、28/42点という銀メダル相当の成績を収めた。AIがIMOで初めてメダルレベルに到達した瞬間だ。翌2025年にはGemini(Deep Think搭載版)が5問を解き、35/42点と金メダル水準に達した。「公理が与えられれば、LLMはそこから論理的な結果を確実に引き出せる」という命題は、もはや疑問の余地がほとんどない。
しかし第三の推論様式、アブダクションでは状況が根本的に異なる、とZahavyは主張する。
問題は知識量ではない。Einsteinが一般相対性理論を定式化したとき、観測データが「新しい物理学を作れ」と命令していたわけではなかった。古典力学は実験的に十分機能していた。ブレイクスルーは、データの外側から来た。密閉エレベーターの中で落下する人間という、身体的な直感の思考実験が、「重力と加速度は本質的に同じものだ」という公理を生んだ。この公理に向けて観測を集め演繹を展開する、という順序だった。
LLMはテキストしか知らない。密閉エレベーターの中で体が浮かぶ感覚を持たない。結果として、物理的な直感から因果モデルを構築するルートが存在しない。データセンターを拡張しても、計算量を成層圏まで引き上げても、この制約はパラメータ数では解消されない。
以下は、三種の推論様式と現在のAIの能力が一目でわかる対比表だ。
| 推論様式 | 定義 | AIの現状 | 代表例 |
|---|---|---|---|
| 帰納 | データから確率的なパターンを読む | 習得済み | GPTの言語内挿、画像認識 |
| 演繹 | 公理から論理的帰結を導く | 高度に習得 | AlphaProof(IMO2024銀)、Gemini(IMO2025金) |
| アブダクション | データ不足下で新仮説を生成する | 構造的な制約(Zahavy論) | Einsteinの等価原理の発見 |
「創造性はデータ圧縮だ」という反論
Zahavyが正面から向き合う反論がある。AI研究者のJürgen Schmidhuberが提唱し、一部で広く受け入れられてきた見方だ。「科学的発見とは高度なデータ圧縮にすぎない。LLMに十分なテキストを与えれば、圧縮の結果として科学的なブレイクスルーが自然に現れる」という主張である。
ZahavyはEinsteinの例でこれに反証しようとする。一般相対性理論の形成期、観測データは新しい物理学の枠組みを要求していなかった。圧縮すべき「矛盾するデータの塊」が存在しなかったのだ。等価原理は、データを圧縮した結果ではなく、身体的思考実験を通じて先に概念化された公理だった。そこから演繹と観測の検証ループが始まった。
「アルゴリズムがデータを圧縮しても、そのデータが存在しない領域では公理を生み出せない」というのが、論文の核心的な主張だ。
もっとも、Zahavy自身はXへの投稿でこう慎重に添えている。「これはDeepMindの公式見解ではなく、私個人の立場論文だ。現在のシステムを改良するだけで近い将来に多くの発見につながる可能性は高く、スケールアップが物理学における新しい発明につながるかもしれないという可能性も排除しない。」おなじく「AlphaProofの主要貢献者として、LLMを使った驚くべき発見が行われていることを身をもって知っている」とも述べた。査読済みの継続中の論文だが、一つの見立てとして読む必要がある。
論文が点火した議論は、Zahavyが当初想定していた以上に広がった。XでAI研究のコミュニティから支持の声も慎重な声も上がり、「現在のシステムを地道に改良することで多くの実用的な発見につながる」という現実路線を強調する声もあった。Einsteinが新しい公理を生み出せなければニュートン力学の範囲内の問題は解けた、などという指摘がその代表例だ。これは、科学的発見を「パラダイムシフト」と「パズル解き」に分けるクーンの科学哲学とも共鳴する議論であり、LLMがパズル解きの効率を極限まで高めている事実は否定できない。
身体性という欠落した変数
では、どうすれば「跳躍」を機械に実装できるか。Zahavyが論文で提示する方向性は、物理的に整合したマルチモーダル世界モデルだ。
テキストと画像の処理を超えて、物理法則に従った仮想環境の中で身体化シミュレーションを実行できるシステムを構築する。AIが「密閉エレベーターの中で落下した場合に何が起きるか」を実際に模擬体験できれば、感覚経験から公理への跳躍に必要な直感が形成されうる、という考え方だ。
この方向性が現在の研究フロントでどの程度の支持を持つかは、未決の問いである。Xのリプライでは、「現行世代のLLMがマルチモーダル入力(画像と動画)をすでに扱えている」という指摘も出た。物理シミュレーションと動画閲覧の間にある溝が、アブダクション能力を生むのに十分かどうかは実験的には未検証だ。
また、論証の論理構造自体にも疑問が残る。「Einsteinの等価原理の生成はアブダクションだった」「LLMはアブダクションができない」という二前提から、「LLMは科学的発明に本質的な制約がある」という結論を引き出しているが、他の形の科学的発明(観測から帰納的に生まれたものなど)についての議論は薄い、という批判的読み方も成り立つ。
反面、Zahavy論文が複数の読者にとってリアルな貢献をしたのは、「なぜ現在のAIが科学的発明できないか」という問いを、曖昧な直感から、工学的に検証できる構造に置き換えた点だろう。「アブダクションが何で、現在のAIはなぜそれができないのか」を対象化することで、次のアーキテクチャを設計する者がターゲットを絞り込めるようになった。
これに向けた具体的なアプローチの一つとして、ロボティクス研究における「身体的学習」との融合が挙げられる。現在、シミュレーション環境で物理法則とインタラクトしながら学習する強化学習モデルは、言語モデルとは異なる文脈で発展してきた。仮に、密閉空間での落下や物体同士の衝突を自律的に経験できるエージェントが、その感覚データから物理法則のパラメータを抽出できるとすれば、それはアブダクションの原初的な形態と言える。
しかし、物理シミュレーションにおける試行錯誤が、Einsteinの行ったような高度に抽象的な跳躍へとシームレスに接続されるかは未知数である。大量の動画データを学習させたビデオ生成モデルが物理法則を「理解」しているように見える一方で、それらは依然として統計的なパターンの内挿に過ぎないという批判も根強い。
科学的発見の本質が、データの圧縮ではなくデータの外側への跳躍にあるのなら、AIの進化は未踏の領域に入らざるを得ない。数学の演繹能力は2024年から2026年にかけて、IMO得点でいえば推定28点から満点へと急激に伸びた。アブダクション能力の測定基準は、まだ存在しない。「LLMは跳び越えるか」という問いに答えるためのベンチマークを設計すること自体が、次の研究課題になりそうだ。
